三日前:本当はもうずっと前から知ってたよ、見えてたよ。ねぇ怖いよね怖かったんだ!
ねぇ、はるちゃん。
呼び掛けられて体が震えた。何で、どうしてこんなことになんてるんだろう。
あたしの目の前でハルカが笑っている。なのに、泣いているのかもしれないとあたしは思った。
何だよお前男だろ、そんな感じのいつもの罵声が出てこない、あたしはどうしてしまったというんだろう?
それもこれも全てハルカのせいだ。そもそもお前が、送別会のリハーサルに来なかったのが悪い。それでなければ今頃あたしはこんな所には
(ねぇなんで)
調子が狂うよ、
三月五日。順調に卒業式に向かっているはずのあたしの日常は、ここに来て大きな崩れを見せていた。
四六時中、あの軟弱野郎が頭から離れない。
これまでだってあたしはハルカの面倒を見てきたけれど(それこそあたしはお前の母ちゃんかってくらい)それとは何かが違っていた。気にしだしたら止まらない、認めるのは癪だけれど、もはやあたしの日常生活の大半はあいつが占めていたようだった。それに今更ながら気が付いて、少し驚いたりもした。
(わかっているつもりだったけど、こんなに)
そんなこんなでぼんやりと午前中を過ごした。志乃に冗談半分、恋煩い? なんて聞かれたけれど笑い飛ばす気力もなかった。だってしかたないじゃないか、これじゃあまるで。
昨日ハルカを病院から家まで送り届けたあと、井沢を引き摺って学校まで帰った。そのままキーボードの練習に付き合わせて、おかげであたしのパートは何とか形になっている。一曲にしといて良かった、そうでなければ今日のリハーサルに間に合わない。
そう、あたしは昨日必死こいて今日の為に頑張ったのだ。なのに、あいつは!
「……ダメだな、繋がんね」
井沢が携帯を閉じて溜め息を吐く。折り返しかかってくる気配もなく、銀色のそれは沈黙を貫いていた。可哀相な井沢の携帯には発信履歴が大量に残っているのだろう。発信先は久世遥。
そう、ハルカが学校に来ない。
昨日の今日だ、体調でも崩しているのかと思いきや朝は普通に家を出たらしい。(井沢が自宅にまで電話したのだ。母親が出て驚いた、何だよ今日は家にいるのかよ昨日は迎えに来なかったくせに!)
学校には知られると面倒なのでまだ言っていない。これが小学生なら誘拐騒ぎだが、生憎とあいつは高三でしかも男だった。どこでサボってやがる、あんにゃろー。
「……無理だな。時間ねぇ」
行くぞ。井沢の声に押されてあたしは渋々腰を上げた。リハーサルがはじまってしまう、待ったはきかない。
結局この日あたし達は、ボーカルを欠いた状態でリハに臨んだ。あたしは今日までに一度も、あいつの歌を聞けていなかった。
「……ハルカ」
それが、なんで、こんな所にいる?
学校からの帰り道、あたしの家からの最寄り駅に立つ人影を見た瞬間あたしの中で何かが切れた。文字どおりキレた。なにしてるんだこいつ馬鹿じゃねぇの、
「テメェ……!!」
「……っ」
不運なことに井沢はいなくて(バンドの代表者会議なるもので居残りだ)久々に我を忘れるくらい激昂したあたしは出会い頭、ハルカを思い切り殴り付けた。手が頬に触れる瞬間思い直してグーからパーに変えたので、結果的には平手打ち。頭のどこかに理性が残っていたのを誉めてほしい。
「はるちゃん」
ジンジン痺れる手のひらを感じながら、呼び掛けてくるハルカを無視して腕を掴んだ。そのまま駅から引き摺りだす。離してやるもんか。
一番近くの公園まで無言出歩いた。腕は握ったままだ。力を入れすぎて手のひらが痛い、けれどハルカはもっと痛かったかもしれない。ざまぁみろ、
「ハルカ。なんで電話でなかった」
漸く腕を解放してやると、そのままそれは力なくだらんと下がってしまった。ハルカは俯いて喋ろうとしなかったけれど、あたしは見逃す気なんて毛頭無い。それはこいつもわかっているはずだった。
「リハ、終わったよ」
「……」
「なんで来なかったの」
「……」
「……っ、ハルカ!」
思わずもう一度大声を上げた。この場所に他に人が居ないのが幸いだ。ああ、さっき駅で平手をおみまいした時はきっと目撃者が大勢居たんだろうな。
「……僕、心配かけてばっかだね」
漸くハルカの口から出た、あたしの名前以外の言葉は求めた答えとは大きく違っていた。ほら、こいつはわかってるんだ。あたしが心配してたことをわかっていて、なのに、
「……意味わかんない」
あたしが呟くとハルカは小さく笑ってみせる。
「僕ね、卒業したくないんだ」
「……は」
突然饒舌になるものだから、わけがわからなくなる。急速に怒りが引いていって、変わりにまた悶々とした気持ちが残された。
ハルカは笑っている。すごく淋しそうに、笑っている。
「明日、送別会があって。予行があって卒業式やったら、みんなバラバラになっちゃうんだよ」
「……そうだけど、」
「また会おうね、なんて言ってもたいてい口だけじゃない? それに僕は絶対会えないんだ、ここには戻ってこれないから――」
「――待って!」
喋り続けようとするハルカを無理矢理黙らせた。なんで、なんでそんなこと言うんだ。
そう言えばこの前もそうだった。家を出るのは知ってるけれど、戻ってこないって、来れないって何。何なんだよ。
「……何なの。何なんだよ、お前んち」
「僕のうち……」
迎えに来ない親。卒業間近の子供が、学校に来ない。電話をしたのに心配する素振りもなかった母親、二度と帰らない家。
変だよ、ハルカ。お前んちは、何かがおかしい。他人の家に首を突っ込むものじゃないけど――違う、ハルカはあたしにとって他人じゃない。
「僕の、名前」
「……“遥”?」
「女の子みたいな名前だけど、そうじゃないんだよ。本当に女の子の名前だったんだ。その予定だったんだ」
僕の、姉さん。生まれてすぐ死んだ未熟児の女の子。
ハルカが柔らかく語る、そんな話を聞いたのは初めてだった。そういえばハルカの家にはぬいぐるみがたくさんあることを思い出す。娘を想う母親が買い集めた、あれは愛情の残骸?
「母さんは僕を遥と名付けて、ずっと姉さんを重ねてたんだ。今もそう」
女の子みたいに育てるから、だから僕こんなんなんだよ。仕方ないけど、と困ったようにハルカは笑う。あたしは言葉を発することができずに、ただその場につっ立っていた。
「はるか、って母さんが呼んでもね、それは僕じゃない。僕をハルカという男として見てくれるのは、学校だけだったから」
『男だろ』――そういって叱ってくれるの、はるちゃんと健吾がはじめてだったよ。それは僕の自己満足でしか、無かったけれど。でもね、嬉しかったんだ。
「父さんはもう随分前に母さんから気持ちが離れてて、家にも帰ってこない。ずっと前から決まってたんだ、僕が高校を卒業するまでって」
体の震えを隠しながら笑うハルカに、あたしは何もできなかった。高校卒業と同時に両親の離婚が成立して、ハルカはどちらにもついて行かずに一人暮らしを始める。とうの昔に決められた運命が近づいてくるのを見ながら、こいつは何を思ったんだろう。
「あ、でも父さんが学費は出してくれるっていうから心配いらないんだ」
朗らかな笑みを浮かべるハルカの手を、迷った末に掴んで握った。一日中外にいた体は冷えきっている。なんて馬鹿なんだろう。
あーあ、今日はこんなこと話すつもりじゃなかったのに! ハルカが大げさな動作で肩を竦める。空元気がバレバレだ。
「ねぇ、はるちゃん」
自己満足ついでに、我が儘言っていい?
首を傾げるハルカに無言で頷いた。震えが伝染したのか、心臓の辺りが小刻みに痛む。不覚にも涙が出そうになりながら、ハルカのせいだ、と思った。あたしはいつもいつも、こいつのせいで調子が狂う。
「はるちゃんはこの前、この時期に言うなんて無駄だって言ってたけど」
ハルカはへにゃりと笑みを浮かべた。いつもの軟弱そうな男の顔だ。なのに、こいつの考えてることはわからない。
「僕は僕のために、君に言わなきゃいけないことがあるから」
だから、待っててね。
握り返された手のひらが、ほんの少しだけ熱を帯びていた。
(何も知らない、見ていない、ふり。ねぇ限界は迫っている)
(卒業式まで、あと三日)