四日前:今頃見えなかったことが見えてくるよ。それを今更と言うか、今こそと言うかは
四日に間に合いませんでした……
三月四日。天候は曇り、久々に肌寒い。この時期この寒さが久々、なんて本当に今年の冬は暖かかったんだと実感した。
いつもの電車に乗って学校へ向かう、朝早いせいかあまり人はいない。最寄り駅から学校までは十分ほど歩かなくてはいけないのだけれど、車の通りだけが何時もどおり活発だった。
信号の少ない細い道を我がもの顔で走る車は気持ちの良い朝をぶち壊してくれる、もうちょい謙虚に走れ。
「危ねッ!」
心の中で悪態を吐いて早々轢かれそうになった。このヤロー糞親父め、携帯片手に運転しやがって。法律で禁止になったんじゃなかっただろうか。
そうこうしているうちに通学に慣れた足は自然と学校に向かう。今日は朝からバンドの練習だ。あたしの出番は少ないけど、遅れてる分追い付くために早めに行った。約束の時間まではまだ三十分以上ある。
「あれ? 早いね篠崎さん」
「おはよ、」
音楽室の扉を開けると中山くん――ベースの子だ――が驚いたようにこちらを見た。驚いたのはこっちだ、あんた早すぎ。絶対誰も居ないと思ったのに。
「どしたの?」
「楽譜、練習はじめる前に読んどこうと思って」
我ながら勤勉だと思う。中山くんは納得したように笑うと、一人で楽器の準備をはじめた。ゴツイ機械がいくつか、アンプとかいうんだろうがあたしにはわからない。作業に没頭しだす彼を横目に、あたしも昨日受け取った楽譜をパラパラと捲りはじめた。確かに昔ピアノはやっていたけれど、ブランクというものがあるのだ。
(アレンジしてある)
わざわざキーボードのパートを考えて楽譜におこしたのはハルカだった。几帳面な字で書き込みがしてある。女みてぇ、と小さく呟いた。大雑把なあたしの字より余程読みやすい。
ポピュラーな卒業ソングのフレーズをゆっくり思い浮べながら、あたしは譜面を指先でなぞっていった。
「おはよーございまぁす」
ドアの隙間から小さな顔があらわれる。ギターのユリちゃん。制服にストライプのニーハイソックスを合わせて登校するという荒技をやってのける彼女の見た目は中々に派手だ。軽音楽部らしい、といえばらしい。
「あれ、まだこんだけ?」
背負っていたギターケースを床に降ろしたユリが首を傾げる。時刻は約束の五分前、もうそんなに時間が経ったのか。
あたしが見ていた楽譜を閉じると同時に、勢い良く扉が開いて井沢が飛び込んできた。
「セーフ!」
「ギリギリな」
高くない気温の中で汗を流している井沢を一瞥。きっと駅から走ってきたんだろう、遅刻常習犯のこいつは間に合っただけで表彰ものだ。努力は認めようと思う。
「なんか変なとこで車が渋滞しててさー。渡れなくて焦った」
「ああ、大通りでしょ? 詰まってんのあたしも見た」
井沢の言葉にユリが相槌を打つ。大通りとは駅から学校までの通学路の途中を真横に走っている、ここいらのメインストリートだ。車の通りが一番多い、けれど信号の無い迷惑な場所。ちなみに朝あたしが危ない目にあったのもそこである。
……そこまで考えて、はて、と思った。あたしが来たときは渋滞なんかしてなかったのに。つーか、
「ハルカは?」
「あれ、あいつまだ来てねェの?」
珍しいこともあるもんだなと井沢が首を傾げる。久世遥といえば真面目を形に示したような人間で、あれが遅刻なんて見たことも聞いたこともなかった。何か嫌だな、漠然とそう思う。
「誰か連絡来てねぇの」
「井沢か篠崎に来てなかったら他はないだろ」
中山くんの言葉に井沢と二人して納得する。そうなのだ、認めるのもなんだけど、あたし達とハルカはそのくらい関係が深い。仲が良い、ってのとはちょっとちがうけれど、誰しもあたしたち三人はしょっちゅう行動をともにしているというイメージを持っている。
「まぁ、久世の歌は完成済みだからな。練習始める?」
中山くんがそう言うのに皆が頷く中、あたしは一人で釈然としない気持ちでいっぱいだった。我ながら馬鹿馬鹿しいと思う、昨日見たあいつの様子が――というか背中が、忘れられない。あたし過保護なんだな。ハルカに甘いのは自覚済み。
「あたし、ちょっと探してくるわ」
「ハルカを?」
以心伝心という奴だ。あたしの言いたいことをすぐに汲み取った井沢が(それはそれで何かきもいな)ぴくりと眉根を寄せる。
でも一番練習が必要なのはお前なんだぜ、って言われなくてもわかってんよ。
「そうなんだけどさ」
「……じゃー俺がちょっと見てくんよ。篠崎お前は練習」
正論だ。まだもやもやするものはあったけれど、じゃあよろしく、と井沢に任せようとしたときだった。
音楽室の外がやけに騒がしい。興奮したような話し声と、ばたばたという足音がどんどん近づいてくる。何事かと目をやった瞬間、勢い良く部屋の扉が開け放たれた。
「井沢ァ! いる?」
「あ? 吉田、」
顔を出したのは井沢の友達の男子だった。見覚えがある、確か二年の時同じクラスだった剣道部の奴。名前は忘れていたけれど井沢がそういうなら吉田くんなのだろう、彼は妙に頬を高揚させていた。
「朝そこで事故あったらしいんだよ、大通りんトコ!」
「事故……?」
ああ、何か嫌な予感。さっきから感じていたこの感じが形になったみたいだった。血が冷たくなるような、それが逆さまに流れるような気分。この時点であたしはもう確信していた。そうして覚悟していた。次の吉田の台詞で、衝撃を受けないように。
「うちの生徒だってよ、久世ってお前のバンドのメンバーじゃねぇの?」
背後からガタンと音がした。ユリが派手にギターを倒したらしい。
「……篠崎!」
一声叫んだ井沢に続いてあたしは音楽室を飛びだした。ユリと中山くんと、唖然とする吉田を置き去りにして。
結果から述べよう、ハルカは生きていた。
運び込まれた病院の緊急外来、その処置室でけろっとしている。ハルカの搬送先を突き止めるために学校の事務室に乗り込んで係のオッサンを問い詰めた(病院に電話して確認までさせた)あたしの苦労を返してほしい。
「つーかマジお前、何してんだよ」
「あはは、なんかぼーっとしちゃってて……」
溜め息連発の井沢に対してハルカは至ってのんびりとしていた。打撲が三ヶ所、擦り傷が少し。車に跳ねられたにしては奇跡的な軽さの怪我だったけれど、痛くないはずはない。それをへらへらと笑いやがってこんちくしょう、車の運転手を殴り飛ばしに行きたかった。
「ごめんね、はるちゃん」
不機嫌オーラ全開のあたしに、ハルカは本当に申し訳なさそうに謝罪する。
心配した? とか聞かないのがこいつの良いところだ。ハルカはわかってる、あたしと井沢が死ぬほど心配したことも、今こうして平然を装っているあたしの心臓がまだ微妙に速く動いていることも。
「……死んだかと思った」
そう、あたしはハルカが死んだかと思ったのだ。こんな軟弱な女みたいな高校生、車に弾き飛ばされたらひとたまりもないはずだった。嘘みたいにあっけなく、死んでしまうと思ったのだ。
「ごめん」
「馬鹿」
一人でセンチメンタルになっている自分に気恥ずかしさを感じてそっぽを向いた。そんなあたしを笑いながら、井沢がまぁまぁと声をかける。
「つーか治療終わったんだろ、帰ろうぜ」
「うんそれがね、帰れないんだ」
はぁ? 思わず顔を見合わせるあたしと井沢に苦笑して、財布忘れちゃった、とハルカは言う。今日は定期しか持ってきていないし軽い怪我だったので相手に慰謝料なんかは請求しなかったらしいのだけど、ていうかおい、
「ちょっと待て、親に迎えに来てもらえないのかよ」
「うん、うち今日誰もいないし」
それで二人にお願いなんだけど、とハルカはしおらしく頭を下げた。鍵を渡すので、自分の家に行って財布を取ってきてくれないか。
確かにハルカの家は知っていたけれど(何度かお邪魔したこともある)問題はそこじゃない。事故にあった息子を迎えに来ない親がどこにいる? ひょっとすると、ハルカの両親はこいつが事故にあったことさえ知らないんじゃないだろうか。
(そんなのって)
結局あたしたちはハルカの家へは行かず、二人のありあわせの手持ち金で治療費を払ってハルカを病院から出した。
二人が来てくれて本当に助かった、とハルカは笑う。それに水臭いとか何とか答えながら、あたしは最後まで聞くことができなかった。
なぁお前、本気で笑えてんのかよ。
(毎日に精一杯だった。けれど刻一刻とその時は迫っていた)
(卒業色まで、あと四日)