カラスは彷徨う
次の日、朝からずっと調子の出なかった私は、机に伏せたままの恰好でじっとしていた。
眠気は襲ってこない。何か、もやもやとしたものが胸の中に詰まって、息が上手くできない様な心持ちだった。
「どうしたのスー」
顔を上げるとちひろが眉を潜めながらこちらを覗き込んできた。綾香も心配そうに微笑みながらこちらを窺っている。
「どうしたのって?」
「元気なーい。いつもの眠そうな顔じゃなくって。何か疲れてるみたい。大丈夫?」
言いながらちひろが何故か体をこちらに預けてきた。ぴったりと抱きついてくるちひろを、そのままにしながら言葉を返す。
「……そうだな。確かに、少し疲れているのかもしれない。ここのところ、あまり寝付けなくって、本を読みふけっていたし……」
「わお。これは本当に疲れてるね。私をどかさないもん。……スー、華奢だなー!ちゃんと食べてないかならぁ」
私はちひろを引き剥がすと席を立つ。
「どーこ行くのー?」
「……少し、探してみる」
「?何を?」
「……ネコ」
「は?猫?」
怪訝そうな顔を向けるちひろに微笑み掛けると、私は教室を出た。
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休み時間は短い。まずは階下の1組から探してみよう。お互いの名前も知らない仲であっても、私はネコの学年に関しては特定していた。彼の履いていた上履きのラインは青。
私と同学年なのは間違いない。それなのに、私は彼に見覚えが無かった。となれば、考えられる可能性は一つ。他クラスとの合同授業、例えば体育でも、見覚えが無いのならば、彼がいる教室自体が別の可能性が高い。それはつまり、私のいる3階の教室よりも下にある、1組から5組のうちのどれかが彼のクラスだということだ。
階段を下りながら、自問自答する。私は、何がしたいのだろう?たかだか数日、彼が屋上に現れずにいたからといって、それが何なのだろう。
そもそも、示し合わせて会う約束をしているわけでは無い。出会って日も浅い友人で、私は寝不足で流行りにも疎い女子高生らしからぬ体たらくだし、共通の話題だってほとんど無く、ましてや会話も無く眠り込んでしまうことがほとんどなわけだから、彼にとっては退屈に違いない。
それでも私があの時間を欲しているのは何なのだろう。
何時の間にやら階段も降り終えて、廊下を見やれば目的の教室が並んでいる。途端に何だか居心地が悪くなって、私は立ち止った。
ネコを探し当てて、見つけたとして私は何をするつもりだったのだろう?ネコはきっと、私との屋上の時間を、彼なりに大事にしてくれているはずだ。だからきっと、こんな風に私が彼を探す事なんて、望んではいないだろう。あの居心地の良い時間を、私は無くしたくない。
そう思って、彼を探そうとしたはずだ。でも、これはきっと間違いだ。私に出来ることは待つこと。これではまるで、親を探す迷子の子供みたいだ。
私は踵を返した。早足で階段を駆け上がっていく。ふとこのまま、屋上まで行ってみようかという気持ちになって、苦笑する。次の授業の開始を告げるベルが鳴った。
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「……やっぱり様子おかしいよね、スー」
お昼の時間になった途端に教室を足早に出て行ってしまったスーの姿を思い出しながら、私は綾香に話を振る。
「そうね。何だか、少し思いつめているのかしら」
やっぱり綾香もそう思ったのだ。ここのところ、目の下のクマも少しだけ和らいでいたのに、気が付けば前よりも酷くなっていて、目つきも鋭くなっていた。ピリピリとした雰囲気を纏って、美少女が台無しだ。
「……まるで」
言いかけて口を閉じる。スーの居るところでも、居ないところでもするべきでは無い話だ。
まるで、あの頃のスーに戻ってしまったみたい。
綾香は、言葉に出さなかった私の気持ちを察してくれたのか、心配そうに頷いた。
スーは、気が付いていないのかもしれないけれど、中学の頃とは、スーはすっかり変わってしまった。明るくって、素直で可愛くて。いつもにこにこ笑っていたスーが、高校に入って大好きだったお父さんが亡くなってしまったことで、様子が変わっていった。もちろん当時は落ち込んでいて当り前だと思ったし、私も綾香も言葉を尽くしてスーを慰めた。段々と時間がスーを癒して、少しずつ笑顔を取り戻しても、スーは元通りにはならなかった。
まるで男の人が話すような言葉遣いになった。
温かく、こちらを包み込んでくれるような雰囲気を纏うようになった。
以前にも増して、本をよく読むようになった。
目の下に消えないクマを作るようになった。
相手の事を思いやって、自分の事に無頓着になるようになった。
すっかり変わってしまったスーを見て、それまで仲良く取り囲んでいた子達は、自然と彼女から離れていった。それでも私と綾香にとってスーはどんなに変わっても大事な友達だったし、それに、根本的なところは何も変わっていないって思えたから、私達の関係が壊れる事は無かった。スーが望んで、変わったのなら受け入れるだけだから。
でも今のスーは、思い悩んでいた頃のスーだ。悩んで、苦しんでる。
私は堪らなくなった。私はきっとスーの苦しい気持ちが、全部は理解してあげられない。
でも、スーが今までどれくらい苦しんでたのかは知ってる。だから、これ以上スーが悩んだり、迷ったり、苦しんだりして欲しくない。だってスーは良い子だから。可愛くって、優しくって、思いやりのある天使みたいな子だから。
私は立ち上がった。
「……綾香、スーを探しに行こう」
目指すは、スーのいるであろう屋上だ。
「……ちひろ、そっとしておいたら、どうかしら」
「え!何で!?スーが悩んでるのに!」
思いもよらない綾香の言葉に、思わず叫んでしまう。
「……澄子は大丈夫だと思うよ」
綾香は優しく微笑んでいる。本当に?私にはとてもそうは思えない。スーはあの頃に戻ってしまっているみたいなのに。
「何でそう言い切れるの?」
「ちひろと私がいるから」
私は黙って綾香を見つめていた。綾香はじっと私を見つめている。
「……だったら今助けてあげなきゃ」
「過保護は良くないよ、ちひろ」
「過保護って……」
あんまりな言葉じゃないかと思ったけれど、綾香は優しく微笑んだままだ。綾香は本当に、びっくりする位穏やかで優しい子だけど、どこかはっとするような強い芯のある子で、だから今も綾香の言葉に強く言い返すことが出来ない。
「澄子が、自分で消化しきれなくなったら話を聞いてあげれば良い。どうしようも無くなったら、きっと澄子は私とちひろを頼ってくれるよ。でも今はそのタイミングじゃないと思うから。だから待ってあげて」
「……」
「納得いかない?」
「いかない。いかないけど」
「けど?」
「スーの為なら我慢する」
「いい子ね」
「……綾香って本当に同い年?」
「何それ。失礼ね」
綾香と一緒に笑いながら、私はスーの幸せを願った。