カラスと夜の時間
学校から真っ直ぐ、寄り道をせずに帰る。高校に入って私が選択した部活は帰宅部だった。
豊富な自由時間こそ、私に必要なものだったのだ。
鞄をベッドの脇に放ってから制服から部屋着に着替える。リビングに行くと戸棚から茶葉を取り出して、ポットとマグも用意する。最近特にはまっているのはルイボスティーだ。油分を分解する作用があってダイエットに最適、らしいが私は単純に後味がすっきりとしているところが気に入っている。準備を整えたら、父の書斎までトレーに乗せて運んでいく。
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書斎がどの家庭にも当たり前にあるわけでは無いという事実は、幼心に衝撃的だったことを覚えている。まだ小さかった頃、父が書斎に籠るのを恨めし気に、そして羨ましく思っていたことを思い出す。いつからかは分からないが、私は本の虫だった。
父の書斎に入ることを許されてからは、私は目の前に広がる本を端から端まで読みふけった。父の集めていた本の種類はとても豊富で、ジャンルも一所にまとまらず多彩だった。
洋書や辞典にまではさすがに手は出さなかったけれど、中学校に上がる頃には、私は父の書斎の棚の一棚分を網羅するまでになっていた。
特に父が気に入っていた本は扉付きの棚に保管されていた。それらはもうすでに一般的には出回っていないもの、絶版となった印刷物ばかりだった。一度私は不思議に思い父に尋ねたことがある。絶版は売れ行きが芳しくなかった本が辿る道だと思えた。そんな結末を迎えた本達を何故わざわざ集めようと考えたのかと。
「澄子。例えば、この一冊の本をお前が一日かけて読んだとしよう」
父は目の前にあった本を棚から抜き出した。辞書ほどの厚みのあるその本を、私は内心舌を出しながら見つめていた。その頃の私はすでに完璧とはほど遠いものの、速読を身に着けていて、その程度の本であれば半日もかからずに読み終える自信があった。
「でも、きっとこの本を書いた筆者が掛けた時間は、1日なんてことはありえない」
虚を衝かれるような父の言葉だった。
「きっと何度も推敲を重ねて、思い悩んで、もしかしたら眠りもせず、食べもせず書き上げたものなのかもしれない。どんな本にもね、澄子。想いは宿る。もちろん、私たちはそれを感じ取ることが出来る。でもね。だとしても、本は、私たちが読むこと自体をしなければ、その想いはきっと知られることなく埋もれてしまう。数多の作品と呼ばれる存在の中で、『本』という存在ほど私たち受け手側が紐解いて、色を塗って、かみ砕いて、味わえるものは無いんだよ。だからね、澄子。私は思うんだ。生まれてきた本が、その歩みを止めても、込められた想いはきっと残る。だとしたら私はそれを掬い取ってあげたい。目を向けてあげたい。それはきっと、素晴らしいことだから」
父は普段はとても無口な人だけれど、たまにとても饒舌になる瞬間があって、私はそんな父がとても好きだった。それでも段々と成長するにしたがって、私は父を無視するようになった。些細なことにいら立ち、反発するようになった。父への書斎からも段々と足が遠ざかるようになった。
高校に上がったばかりの頃、元々体が丈夫でなかった父が、出張先のホテルで倒れたことを知らされた時、私は居間でテレビを見ていた。ニュースを告げるアナウンサーの声が、やけに無機質に聞こえた。
父は私が一度も訪れたことの無い土地で倒れ、そしてそのまま息を引き取った。私はその土地に、亡くなった父に会うために初めて訪れた。何故か、それが本当に耐えがたかった。
父が亡くなってしばらくして、私は久しぶりに父の書斎に入った。相変わらずところ狭しと壁一面に本が敷き詰められていて、私は思わず微笑む。
「その歩みを止めても、込められた想いはきっと残る。だとしたら私はそれを掬い取ってあげたい」
父の言葉を思い出す。父は静かな人だった。あまり多くを語らない人だった。私は、きっともっと父と話してみたかったのだ。父が何を考えているのかを、教えてほしかった。
私は戸棚を開けると、中から一冊の本を取り出すと、父の安楽椅子に腰かけた。
「お父さん」
返事は無い。父は此処に居るのだろうか。私は本を開くと、静かにページを捲っていった。
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父の書斎の本を全て、一冊も余すことなく読み終える。
掲げられた目標は、習慣となって、今では私の日常と化した。私が成人するまでに、何とか全ての本を読み終えたい。
ほんの少しでもいい。私は、父になりたかった。父を構成していた何か、その一欠けらだけでもいい。救いとってあげたかった。
凝り固まった体を解しながら、ページを捲っていく。今日もまた、夜更かしになるな。