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王家の衣装に偽の布——見抜ける目は、もういない

作者: 歩人
掲載日:2026/08/30

 朝の光が斜めに差し込む工房の中で、レティシアは反物たんものを広げた。


 長テーブルの上に一反ずつ置き、指の腹で表面をゆっくりと撫でる。光の跳ね方、糸の詰まり具合、経糸たていと緯糸よこいとの比率。ここに来て半年、鑑定の手順は身体の奥に染みついていた。


 「どうだ」


 背後から低い声がかかった。振り向かなくてもわかる。工房の持ち主、ヨハン・クレストが腕を組んで立っている。


 「四番目の反物が偽造です」


 レティシアは答えながら、問題の布に指を当てたままにした。


 「産地証明書にはニルデン産と書いてありますが、染料の溶け込み方が違う。ニルデンのはたは経糸を二本飛びで通す癖がありますが、これは三本飛びです。どこか南の安価な産地から輸入して、証書だけ差し替えた」


 ヨハンはしばらく黙っていた。


 それから大きく息をひとつ吐いて、テーブルに手をついた。


 「三反もやられた。去年も同じ業者にやられたから変えたのに」


 「同じ業者です。書類の文字の癖が一致している。会社の名前だけ変えてあります」


 レティシアは反物から指を離し、帳面を開いた。偽造品の特徴と、証拠となる部分の記録。いつかこれが必要になると思いながら、半年前から続けてきた。


 「あなたは本当に、布を読む」


 ヨハンが静かに言った。感嘆でも称賛でもない、どこか落ち着いた確認の言葉だった。


 「六年かけて覚えました」


 レティシアは帳面を閉じた。


 かつて、同じことを言い続けた場所があった。でも誰も、それを仕事だとは思ってくれなかった。




 デルマ侯爵家の衣装室は、東向きの窓が大きかった。


 午前中は光が豊富に差し込んで、布の色合いをよく見極められる。レティシアは婚約の翌月からその部屋に通い始め、六年間、毎朝欠かさず訪れた。


 季節ごとの衣装を確認し、傷んだ布帛ふはくに手を当て、来るべき行事の前に必ず状態を見ておく。王室への出席が決まっている衣装は、一週間前には確認を済ませる。誰に教わったわけでもない。ただ、そうしなければ後で困ると、最初の年の春にすぐにわかった。


 その日は衣替えの確認だった。


 春の薄地のものをしまい、秋向けの厚地を出す。去年から今年にかけて、王族のお体の変化を記録帳で確認しながら、それぞれの衣装の寸法と照合する。王妃様のお肩は少し落ちている。第一王子殿下の背丈は去年より伸びた分、袖丈が短くなっている。


 小さな差異を書き留める。記録帳の行が増えるたびに、次の季節の備えが少し楽になる。


 「また朝から記録か」


 リオン・フォン・デルマが衣装室の戸口に現れたのは、そんな午前だった。長身で均整の取れた体格。侯爵家の嫡男として申し分のない外見の男だ。


 「衣替えの確認をしています」


 「そういうことじゃない」


 リオンは少し顔をしかめた。


 「他の令嬢はそんな地味な作業などしていない。令嬢の余技だろう、そんなものは。仕立て師に任せればいい話だ」


 「仕立て師は王家の方々のお体の変化を日常的に記録していません。昨秋から殿下のご腰回りが少し増えています。既製の予備では合わない可能性がある。それを確認するのが記録を持っている者の務めです」


 「そんな細かいことを」


 「細かいことが、晩餐会の朝に取り返しのつかない問題になります」


 リオンは何か言いかけて、黙った。そのまま出ていった。


 レティシアは視線を布に戻した。指先が覚えている。殿下の肩幅、王妃様のお袖の丈、第一王子殿下の背丈がこの一年でどれだけ伸びたか。全部、この手の中にある。


 「細かいこと」は、こうして積み重なっていく。




 王妃の晩餐会前夜のことは、今でも鮮明に覚えている。


 四年前の秋。夜遅くまで衣装室に残っていたのは、王妃の正装用外套に細かな虫食いを見つけたからだった。広げた時は気づかなかったが、裏地に回ったところで光の具合が変わり、指先が違和感を拾った。


 縫い目から一寸ほど離れた場所に、ごく小さな穴が二つ。補修せず晩餐会に着ていけば、人の多い場で広がる可能性がある。


 補修用の絹糸を探し、針を通した。本来は仕立て師の仕事だが、夜半を過ぎれば職人は呼べない。朝までに直さなければ、王妃は衣装なしで晩餐会に臨むことになる。


 夜が更けるにつれ、工房の外から夜番の足音が遠ざかる。燭台の炎が揺れるたびに光の角度が変わり、縫い目を追う目が疲れてくる。それでも針を止めなかった。


 翌朝、王妃が完璧な外套をまとって現れた。補修した箇所は背中側の目立たない位置で、一見してわかるものではない。侍女も気づかなかった。


 それを直したのが誰かを、ほとんど誰も知らなかった。


 「運が良かったな」とリオンは言った。


 レティシアは何も言わなかった。




 布帛の調達確認で偽造品を疑ったのは、その翌年の秋だった。


 グルト商会から届いた布の中に、一反だけ手触りの異なるものがあった。産地証明書にはニルデン産と書かれていたが、光の跳ね方が違う。染料の溶け込み方も、ニルデン産特有の深みがない。


 侍従長に伝えた。


 「証明書があるのに問題があると言われても」と侍従長は困った顔をした。「グルト商会は侯爵家が推薦されている業者です」


 「でもこれは偽造品です。このまま王室行事に使えば」


 「令嬢がそう判断されても、我々は」


 会話はそこで終わった。


 デルマ侯爵家の名前で推薦が入っている業者を、婚約者の令嬢が「偽造品を売っている」と言っても、聞いてもらえる立場ではなかった。


 レティシアは記録帳にそのことを書き留めた。日付と、偽造品の特徴と、伝えた相手の名前と、「採用されなかった」という一行を。


 証明できる日が来るとは、その時は思わなかった。ただ書いておかなければ、なかったことになると思っただけだ。




 ゾフィー・フォン・セレストがデルマ家に出入りするようになったのは、三年前の秋だった。


 社交界での評判の高い令嬢で、笑い方が上手く、話題の中心に自然と入っていける。リオンが「旧友の妹だ」と言って連れ帰ってきた日、レティシアはそれを信じた。


 変化は音もなく始まった。


 ゾフィーが衣装室に来るようになった。最初は「見せてほしい」と言って、記録帳を手に取った。


 「これ、全部あなたが作ったの?」


 「六年分です」


 「すごいわね」とゾフィーは言った。でも声の中に感心はなかった。計算する音がした、とレティシアは後から思う。


 「こういうの、私がやった方が体裁がいいわね。リオン様のお役に立てる形で」


 「体裁とは」


 「令嬢の仕事として見栄えがする、ということよ。あなたのは地味すぎて、誰も仕事と思わないでしょ?」


 レティシアは答えなかった。


 見栄えのする仕事と、見栄えのしない仕事。後者にしかできないことがある。でもそれを言っても、ゾフィーには意味がないとわかっていた。


 「記録帳を持ち歩かないの?」


 「必要な時だけ持ちます。普段は衣装室の棚に」


 「そう」とゾフィーは言って、棚の位置を確認するように一度だけ視線を向けた。




 婚約解消の宣告は、秋の始まりの朝だった。


 リオンはデルマ邸の応接室に来るよう言い、ゾフィーも隣に立っていた。


 「レティシア、すまないが、婚約を解消したい」


 理由は「心変わり」と「相性の問題」だった。それ以上の説明はない。リオンの表情は穏やかで、罪悪感というより、やっかいな手続きを済ませるような顔だった。


 「記録帳はここに置いていけ。王室への提出義務がある」


 ゾフィーが言った。リオンではなく、ゾフィーが。


 「あれはわたくしが六年かけて作ったものです」


 「でも中身は王家の情報でしょう。個人の所有じゃない」


 嘘だ。そんな義務はない。でも証明する手段がない。証明しようとする時間もない。


 レティシアは三冊の記録帳を机に置いた。


 六年分の衣装の記録、布帛の調達先、体型の変化、修繕の方法、信用できない業者の一覧。置いた時の重さが、指先にしばらく残った。


 「わたくしはこれで失礼します」


 それだけ言って、部屋を出た。


 廊下に出て、五歩ほど歩いたところで足が止まった。


 何が起きたのか、頭が追いつかなかった。声は出た。姿勢も崩れなかった。それなのに、次にどちらへ曲がればいいのかがわからない。六年間、毎朝この廊下を歩いていたのに。


 右だ、と思い出すまでに、しばらくかかった。


 歩き出してから思ったのは、六年分の記録がまた使われるのだろうということだった。ゾフィーに布の目はない。記録帳を読んでも、偽造品を見抜くことはできない。だからいつか困る日が来る。


 でもその日が来るまで、自分にできることは何もなかった。




 王都を出た翌日の朝、レティシアはアーレン南門の外の市場にいた。


 持ち物は鞄一つ。親族への連絡は済ませたが、父は「しばらくは自力でやってみなさい」と言った。罰のつもりではないのだろう。試練のつもりか、あるいは婚約解消の知らせに、まだ気持ちが追いついていなかっただけかもしれない。


 市場を歩きながら、職を探した。


 飯屋、洗い物、行商。令嬢として育った手はどれも向いていなかった。


 布物屋の店先で、足が止まった。


 無意識に手を伸ばし、陳列されていた薄い絹に指を当てた。すぐにわかった。これは絹に似せた薄い綿だ。光の透け方が違う。


 「それ、違いがわかるのか」


 振り向くと、背の高い男が立っていた。三十代半ばくらい。店先に立つ人間には見えない、くたびれた仕事着を着ていた。


 「わかります」


 「どこが」


 「経糸の密度が違う。本物の絹は緯糸を均一に飛ばしますが、これは詰まりすぎている。染めも綿のやり方です。絹に綿の染めを施すと光の吸い方が変わる」


 男はしばらくレティシアを見ていた。品定めの目ではない。観察する目だった。


 「ヨハン・クレスト。王都の南門外で織物の卸をやっている。あなたは」


 「レティシア・フォン・アルバン。元、子爵令嬢です」


 「元」


 「昨日、婚約を解消されましたので」


 ヨハンはそれ以上は聞かなかった。


 「仕事があるが、来るか。布を見る目があるなら使える」




 クレスト商会の工房は、市場町ブルクの南のはずれ、南門外市場から歩いて数分の場所にあった。


 大きくはない。倉庫と作業場を兼ねた建物が二棟、その奥に小さな事務室。職人が四人。整頓されていて、棚には産地別に布が並んでいた。


 「初日は棚の整理だ。どの布がどこから来て何に使えるか、見ながら覚えてくれ」


 ヨハンはそう言って仕事に戻った。


 レティシアは棚の前に立ち、一枚ずつ手に取った。


 ニルデン産の絹、ヴァッセン産の綿、染め布帛。王家の衣装室で扱っていたものより庶民向けの品が多いが、感触の違いは確かにある。一日かけて棚を整理した。その途中で気づいた偽造品を四点、別に分けた。


 夕方、ヨハンが確認に来た。


 「これは?」


 「偽造品です。産地証明書の通りではない。業者に問い合わせてみてください」


 ヨハンはその四点を手に取り、順番に見た。


 「……正しい」


 低く言って、レティシアを見た。


 「どこで学んだ」


 「誰にも習っていません。見続けて、覚えました」


 「六年か」


 「六年です」


 ヨハンはしばらく黙った。それから「わかった」と言い、四点を脇に置いた。


 「給与は月払い。金額は試用の一月後に決める。それでよければ明日から来い」


 帰り道、市場の人ごみを抜けた後でレティシアは立ち止まった。何でもない路地の角だった。


 「見続けて、覚えた」という言葉が、自分の口から出た言葉なのに、初めてちゃんと聞こえた気がした。




 試用の一月は、あっという間に過ぎた。


 毎日届く新しい布帛を確認し、偽造品を分け、記録をつける。業者を絞り込む。ヨハンへ報告する。それだけの繰り返しだったが、同じことが繰り返されるたびに、自分のやっていることの輪郭が少しずつはっきりしていった。


 「仕事になる」と実感した初めての日は、大口の偽造品を一括で突き止めた時だった。


 南方の業者から届いた二十反の輸入布帛のうち、七反が産地偽装だった。証拠を書き出して業者に突きつけると、差額の返金と取引停止に応じた。帳面に数字が並ぶのを見ながら、レティシアは初めて「これが仕事だ」と思った。


 誰かに言ってもらう前に、自分でそう思えた。




 一月後、ヨハンが事務室に呼んだ。


 「給与を決める」と言って紙に数字を書いた。試用の頃よりずっと高かった。


 「偽造品を見抜く能力は、商売の損失を防ぐ。それは金になる」


 「ありがとうございます」


 「令嬢だったんだろ。これは貴族の仕事じゃない。それでも構わないか」


 「仕事の話をしていただけることの方が、ずっとありがたい」


 ヨハンは少し笑った。普段はほとんど笑わない男だが、この笑い方は作っていないとわかった。


 「妻が死んで三年になる」


 唐突に言った。レティシアは帳面を置いて黙って聞いた。


 「布が嫌いだった。商売が嫌いだった。でも俺は布しかわからないから、最後まですれ違ったまま終わった」


 ヨハンは窓の外を見ていた。


 「だから——見ていてやれるうちに、ちゃんと見ていたいと思っている」


 レティシアはその言葉の重さをしばらく測った。


 見ていてやれるうちに、ちゃんと見る。


 六年間、誰もそうしてくれなかった。


 「あなたは、正直な方ですね」


 「そうか?」


 「ここに来て一月、あなたが布について嘘をついたことが一度もない。布の値打ちを大きく言ったことも、誤魔化したことも。それは、わかります」


 ヨハンは少し間を置いてから言った。


 「あなたも嘘をつかない」


 「布が嘘をつかないので」




 それから四月半ほど、工房での仕事が積み重なった。


 偽造品の見極めに加えて、新規の仕入れ先の評価、既存業者の信頼度確認と、できる仕事が増えていった。ヨハンはレティシアの判断をほぼそのまま採用した。疑問に思ったことは必ず理由を聞いてきたが、「あなたが正しいと思う」と言って覆すことはしなかった。


 ある夜、工房に二人だけ残って翌月の仕入れ計画を確認していた。職人たちは帰り、外には月が出ていた。


 「デルマ家の六年間は、どうだったか」


 ヨハンが聞いた。唐突ではなかった。ずっと聞こうとしていた空気があった。


 「仕事はよかった。布に向き合う時間があった」


 「向き合わせてもらえていたのか」


 「……向き合うことを、止められなかっただけです。仕事と認めてもらっていたわけでは、ない」


 ヨハンは少し黙った。


 「それは損だったな」


 損だったな、と言った。怒りでもなく、慰めでもなく、ただ事実として。


 レティシアはしばらく帳面を見ていた。


 「損でした」とようやく言えた。六年間、そう思うことすら許されていなかった気がしていたから。


 ヨハンが帳面の一箇所を指先で叩いた。


 「この業者——次の取引で試してみたい。あなたが直接確認できるか」


 「できます」


 「ならそうする」


 会話が仕事に戻って、レティシアはそれでいいと思った。


 仕事と気持ちが同じ場所にある。それがどういうことか、少しわかった気がした。




 宮廷使者が来たのは、そこから半月後のことだった。


 昼過ぎ、工房の戸を叩いた若い騎士が「レティシア・フォン・アルバンはここにいるか」と言った。ヨハンが対応している間に、レティシアは帳面を閉じた。


 「至急で王城に来ていただきたい。外交晩餐会まで三日。王家の外交衣装に問題が発生しました」


 ヨハンがレティシアを見た。


 「行ってきます」


 「一人でか」


 「仕事ですから」


 ヨハンは少し眉を動かしたが、それ以上は言わなかった。


 門の外に出る時、振り返ったら工房の扉のところでまだ立っていた。




 王城の衣装室は、デルマ邸のものよりずっと広かった。


 案内された部屋には、晩餐会用の布帛が十二反並んでいた。城の侍従長が「これで外交衣装を仕立てる予定だったが、問題があると指摘された。しかし誰も何が問題かわからない」と言った。


 レティシアは一反ずつ手を当てた。


 三反目で止まった。


 「これは、ニルデン産ではありません」


 「——なんと」


 「染料の配合が違う。この光沢の出し方は、南方の安価な綿混です。金糸の縫い込みで誤魔化してありますが、表地が偽造品です。隣国ファルメンの外交官が見れば、一目でわかります。ファルメンは繊維産業が盛んで、布の目利きは商人の基本です」


 侍従長の顔色が変わった。


 「他にも」


 レティシアは残りを確認した。


 「偽造品が三反です。これは意図的に混入されています。偽造品の質が均一すぎる——同じ業者が計画的に差し込んだ」


 「業者は……グルト商会です」


 「グルト商会の当主の名前は」


 「トーマス・グルト。三年前から王室御用達を名乗っています」


 レティシアは帳面に書き留めた。


 「ここ三年以内の納品書と産地証明書を確認できますか。一年以内のものから」


 侍従長が書記を呼んで記録を出させた。レティシアは一枚ずつ見ていった。


 染料の特徴、証明書の記載との齟齬、日付の流れ。一時間後に証拠が揃った。




 記録を追うと、納品経路に別の名前が出てきた。


 「この納品推薦状——ゾフィー・フォン・セレスト令嬢の名義で出ています」


 侍従長が青ざめた。


 「セレスト令嬢は……現在、デルマ侯爵嫡男リオン様の婚約者として侯爵家に出入りされています」


 「存じています」


 レティシアは静かに言った。


 「グルト商会がセレスト家に差益を支払っていた証拠が出るはずです。この推薦状の日付とグルト商会の商取引記録を突き合わせれば」


 侍従長は少し間を置いてから、書記に命じた。


 「王家の名で、グルト商会の取引記録を照会せよ」




 審問は翌日に行われた。


 レティシアは証拠の提出だけを求められ、審問室の外の廊下で待った。


 石造りの廊下は冷えていた。窓から中庭が見える。霜のついた草の上を、庭師が掃いている。その音だけが静かに続いていた。


 足音が聞こえたのは、昼を過ぎた頃だった。


 複数の靴音が廊下を近づいてくる。革靴のかかとが石畳を打つ音が、少し乱れていた。歩き慣れた靴の音ではない。急いでいる人間の、焦りの混じった足音だ。


 ゾフィー・フォン・セレストが廊下に現れた時、護衛の騎士が両側に立っていた。


 流行の衣装はいつもと同じ黒真珠の留め具がついた濃い青の外套。でも色つやのいい頬が今日は白かった。化粧の粉が浮いている。


 「あなたが……」


 ゾフィーが立ち止まった。声に、いつもの滑らかさがなかった。


 「わたくしが調べたわけではありません」


 レティシアは振り向かずに言った。


 「布が証言しました」


 「……わたくしは、ただ業者の紹介をしただけで」


 「グルト商会の取引記録に、セレスト家名義の口座への送金が記録されています。差益の総額は三年分で相当な額になる。審問では弁護人をつけることをお勧めします」


 ゾフィーは返す言葉を探すように唇を開いて、閉じた。


 手がドレスの裾を掴むのが見えた。白くなる指先。その手が六年分の記録帳を手に取った時と同じ手だと、レティシアは思った。


 廊下の静寂の中で、革靴が一歩だけ後ろに引いた。


 「わたくしがやろうとしていたのは……」


 「記録を持てば力になると、思われたのでしょう」


 レティシアは目を伏せたまま言った。


 「でも布の目がない者が記録を持っても、偽造品はわかりません。三年前にグルト商会の布を偽造と指摘したときも、わたくしの言葉は採用されませんでした。あの時、記録があっても無駄だったのはそういうことです」


 ゾフィーの外套の肩が、わずかに落ちた。


 護衛の騎士が促すと、ゾフィーは歩き始めた。廊下の向こうへ。その後ろ姿がずっと小さく見えた。




 リオン・フォン・デルマが審問の場に呼ばれたのは、その二時間後だった。


 扉が閉まる音、石床を踏む音、書記が羽根ペンを走らせる音。どれも外まで聞こえてくる。レティシアは廊下の椅子に腰を下ろし、帳面に今日のことを記録しながら待った。


 一時間半後、扉が開いた。


 出てきたリオンの顔は、六年間で見たことのない顔だった。「不満げな顔」でも「手続きを済ませる顔」でもない。すべてが落ちたような、白い顔だった。


 衣装は乱れていない。髪も整っている。でも手が扉の取っ手をまだ持ったままで、離すのを忘れているように見えた。


 リオンはゆっくりと顔を上げて、廊下にレティシアがいることに気づいた。


 何かが変わる音がした、とレティシアは思った。音ではなく気配だが。


 「——知っていたのか」


 「何を、ですか」


 「ゾフィーが……布帛を偽造していたことを」


 「いいえ」


 レティシアは正直に答えた。


 「でも、疑う理由はありました。あの方はわたくしの記録帳を欲しがっていた。布の目利きができないのに記録だけ欲しがっていた。理由を考えたことはあります。でも証明する機会がなかった」


 リオンはしばらく口を開かなかった。


 廊下の冷気の中で、扉の取っ手を持った手が白くなっていくのがわかった。六年間、同じ部屋にいた手が、今は扉一枚を支えにして立っていた。


 「俺は……」


 言うべき言葉が、喉の途中まで来た。六年分の朝のどれか、どの一つを出しても足りない気がして、結局どれも出てこなかった。


 「あなたのことは、特に何も思っていません」


 レティシアは言った。嘘ではなかった。ただ、そう言えるようになるまでに半年かかったことは、この人には関係のない話だった。


 「六年分は、返ってきません」


 それだけ言って、廊下を歩き始めた。


 後ろでリオンが何か言いかけたが、聞こえないふりをした。


 本当に聞こえなかったのかもしれない。




 王城から工房に戻ったのは、陽が傾きかけた頃だった。


 門を入ると、ヨハンが事務室の前に立っていた。腕を組んでいる。レティシアが近づいても特に表情は変わらなかった。


 「終わったか」


 「終わりました」


 「城の侍従長から書状が来た。王室御用達の鑑定依頼を正式に受けてほしいという話だ」


 「受けます」


 「そうか」


 ヨハンは事務室の扉を開けた。中にお茶の用意がしてあった。


 「今日のことを聞かせてくれるか」


 「聞いていただけますか」


 「聞きたい」


 レティシアは椅子に腰を下ろし、カップを両手で包んだ。




 お茶を飲みながら、今日のことを話した。


 偽造布帛の鑑定、グルト商会の証拠、ゾフィーの審問、リオンとの廊下での会話。ヨハンは黙って聞いていた。時々、短い確認だけを挟んだ。


 「記録を置いてきたのは、正解だったな」


 レティシアは少し考えた。


 「最初は違いました。記録帳を置いてきたのは、奪われたからです。でも今日、その記録がなかったから、グルト商会は三年間偽造を続けられた。わたくしが持っていれば、もっと早く止められていたかもしれない。でも置いてきたことで、今日、証拠を揃えることができた」


 「どちらが正解かはわからないな」


 「わかりません。ただ——」


 レティシアはカップを置いた。


 「六年分が今日戻ってきた気がしました。場所は違いますが」


 「そうか」


 ヨハンはしばらく窓の外を見ていた。夕陽が長い影を作っている。


 「レティシア」


 ヨハンが言った。普段より少し低い声だった。


 「俺は布の話しかわからない。令嬢のことも王城のことも社交界のことも、あまりよくわからない」


 「知っています」


 「それでも」


 ヨハンが机に肘をついて、レティシアの方に向いた。


 「あなたの仕事を、ちゃんと見続けていたい」


 レティシアは少し息を吸った。


 「……それは、どういう意味ですか」


 「わかるだろう」


 「わかりますが」


 一拍置いた。


 「確認したいのです」


 ヨハンは少し呆れたような顔をして、それから柔らかく笑った。今日はよく笑う、とレティシアは思った。


 「一緒にいてほしい。この工房で、あなたとやっていきたい」


 レティシアは窓の外を見た。


 傾いた陽が長い影を作っていた。六年間、誰も見てくれなかったものを、今この人は見ている。半年前からずっと、見続けてくれていた。


 「わかりました」


 と、レティシアは言った。


 「続けましょう」




 夜になっても工房に灯りがついていた。


 二人で次の仕入れ先の確認をして、記録帳を更新して、夕の食事を分けて食べた。


 リオンのことは、もう考えなかった。ゾフィーのことも。


 ただ手元の帳面に今日鑑定した布のことを書き留めながら、レティシアは思った。


 六年分は、返ってこない。


 でも今日から一日一日、ちゃんと記録していける。


 それで十分だと、今は思えた。


 ヨハンが隣で自分の帳面を広げている気配がして、レティシアはそっと目を上げた。


 夜の工房の灯りの中で、その横顔はまっすぐ手元を見ていた。


 嘘のない顔だと、わかった。



歩人です。最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は「布を見て偽造を見抜く鑑識眼」をテーマに、六年間誰にも仕事と認めてもらえなかった令嬢の話を書きました。才能があっても、見てくれる人がいなければ世界に存在しないのと同じ——そのもどかしさと、ようやく「見てもらえる」場所を見つけた時の静かな喜びを、ちゃんと描けていたら嬉しいです。


 ヨハンの「見ていてやれるうちに、ちゃんと見ていたい」という言葉が、この話の芯です。かつて失ったものへの後悔を、次の人への誠実さに変えられる人間が好きです。レティシアの核心の台詞「六年分は、返ってきません」は、怒りではなく、ただの事実として静かに落ちるように書きました。彼女は怒ったのではなく、終わったと知っていた。


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