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離縁されたら慰謝料と生活費をもらって再婚できると思っていましたが、払うのは私の方でした

作者: 江合 花果
掲載日:2026/04/08

リディアには、一つの揺るぎない世界観があった。


 この世界は、リディアが幸せになるように設計されている。


 これは信念でも哲学でもない。彼女にとっては、空が青いのと同じ次元の、ただの事実だ。


 だから夫エドガーが問題だった。


 エドガーは地味だった。


 毎朝同じ顔で起きて、同じ道具袋を持って工房に行き、同じ顔で帰ってくる。


「疲れた」


 か、


「木材の仕入れがあって」


 か、その二択しか言わない。


 リディアが新しいドレスを着ていても、


「似合ってるね」


 と言うだけで終わる。


 似合ってるねで終わるな。もっと言うことがあるだろう。どこで買ったか聞け。値段を気にかけろ。そういうやりとりの中に、妻への関心というものがあるのではないか。


 しかも倹約家だった。


 外食は「月に二回まで」と言う。宝石屋の前を通っても立ち止まらない。


「今月は工房の設備に費用をかけたから」


 と言って小遣いを削ってくる。


 妻を飾ることこそ夫の甲斐性であり、それを怠る夫は夫失格であり、夫失格の夫と婚姻を続ける義理はない。したがってリディアがカイルを選んだことは論理的帰結だ。


 カイル・ダリオンは違った。


 幼なじみのカイルは会うたびに、


「リディアは本当に変わらないな、昔から一番きれいだ」


 と言ってくれた。


 カイルの言葉は全て正しかった。エドガーが言わないことを言ってくれる人間の方が、言わない人間より優れているのは明らかだからだ。


 そしてリディアには確信があった。


 離縁されても、自分は守られる。


 なぜか?


 妻だからだ。


 妻は守られる生き物だ。婚姻誓約書に署名した時、内容をほとんど読まなかったが、それは「どうせ自分に不利なことは書いてないだろう」と思ったからであり、その判断は今も正しいと思っている。


 不満のある結婚を終わらせるのに何が悪いのか。愛のない関係を続ける方がよほど不誠実ではないか。愛のために動いたリディアこそむしろ誠実であり、誠実な妻には相応の報酬がある。これが道理だ。


「ねえカイル、エドガーからいくら取れると思う?」


 昼下がりの居間。


 夫が今日も朝から汗を流している時間に、リディアはカイルと向かい合ってお茶を飲んでいた。夫の買った高級茶葉で。夫の選んだ陶器の茶器で。夫が丁寧に磨いたテーブルの上で。


「まあ、三年間の婚姻だろ」


 カイルは天井を見上げた。この男はいつも天井を見上げてから答える。答えの根拠が天井にあるらしかった。


「慰謝料に生活保障、持参金の話もある。合わせたら相当な額だよ」


「そうよね。長年我慢してきたんだし、慰労金くらいもらっていいわよね、私」


「当然だろ」


「で、それで部屋を借りて、カイルも近くに来てくれたら――」


「そうしたら今度こそいい暮らしができる」


 カイルはにやりとした。


「エドガーみたいな地味な男と違って、俺はちゃんと君を大事にするよ」


 リディアの胸がときめいた。これが愛だ。エドガーには一生言えない台詞だ。


「でもカイル、神殿の誓約とか、そういうのは大丈夫?」


「ああ、あれ?」


 カイルは鼻で笑った。


「神殿だって人の心までどうにかできないよ。恋愛に罰金なんか取れるわけない。俺たちは合意の恋愛をしてただけで、不貞とは全然違う。そもそも証拠だってどうやって取るんだよ、見てたわけでもないのに」


「そうよね! 証拠がなければ何もできないわよね」


「だから心配しなくていい」


 カイルは鷹揚に笑った。根拠のない自信が全身から滲み出ていた。この男の理論は全て根拠がなかったが、そのことを彼は知らなかった。むしろ自分の論理が完璧だと思っていた。


 その時、玄関が開いた。


 エドガーだった。いつもより二時間早かった。


 彼はリディアとカイルを見た。自分の家で、自分の茶器で茶を飲みながら再婚計画を立てていた二人を。


 三秒、黙って見た。


「離縁の準備が整った。明後日、神殿で手続きをする」


 それだけ言って、上着を壁にかけて、奥の部屋に入っていった。


 リディアは一拍置いてから立ち上がった。


「望むところよ! さっさと離縁の手続きを進めなさい! で、離縁金と生活費と住む場所の確保、それだけの義務を果たしてもらいますからね!」


 奥の部屋から、返事はなかった。


 ドアの向こうで、かすかに紙をめくる音がした。



 夜、カイルが帰ったあと、リディアは不安になった。


 エドガーが怒鳴らなかったからだ。


「この裏切り者め!」


 と叫んでくれれば、


「そうよ私は自由を求めた女よ!」


 と堂々と返せた。


 なのに彼は「準備が整った」とだけ言って引っ込んだ。奥の部屋からは、ずっと羽ペンで書き物をする音がしている。


 気になる点が三つあった。


 一、証拠を揃えたと言っていた。何の証拠か。

 二、「準備が整った」という言い方が妙に事務的だった。

 三、あの静けさの種類が、今まで見たことのないものだった。


 リディアは魔道具棚から水晶通信端末を取り出し、遠隔通信網――魔掲板――に匿名で繋いだ。顔も名前もわからない相手に本音を投げかけられる、便利な仕組みだ。


 丁寧に、自分が有利に見えるよう言葉を選んで、書き込んだ。


【相談】夫から離縁を言い渡されました。妻として受け取れる離縁金の相場を教えてください


 夫とは三年間婚姻関係にあります。夫は地味な職人で、私の生活水準への理解が低く、長年苦労してきました。なお私には、幼なじみの男性との交際があります。お互い合意の上であり、真実の愛です。このような状況で、妻として受け取れる離縁金・生活保障の相場はいくらでしょうか。できるだけ多く受け取りたいです。


 投稿して二分後、最初の返信が来た。


不貞した側が受け取れる離縁金はゼロです。むしろあなたが払う側です。


 変な人だ、と思って次を待った。


婚姻誓約の「貞節の誓い」を破っているので有責配偶者になります

有責配偶者から離縁金の請求権はありません。逆に違約金を請求される立場です

「真実の愛」「合意の交際」は契約違反の免責事由になりません。一切なりません

自宅に不貞相手を招き入れていた場合は加重事由になり違約金が増えます

不貞相手の男性も連帯して賠償責任を問われる可能性があります


 リディアは返信した。


でも妻には扶助してもらう権利があると思います。夫には扶助義務があるはずでは?


扶助義務があるのは誓約を守った配偶者に対してです。破った側ではありません

もしかして誓約書をちゃんと読んでいませんか

読んでいないなら今すぐ読んでください。そうでないと話になりません


 腹が立ってきた。


不満のある結婚を終わらせることの何が悪いんですか。愛のない婚姻を続ける方が不誠実では?


不満なら正規の手続きで離縁請求できます。浮気する必要はありません

あなたが「不満だった」ことは「浮気してよかった」理由になりません

「愛のない婚姻を終わらせた」のではなく「婚姻中に不貞をした」が正確な表現です

言葉を綺麗にしても契約違反の事実は変わりません


 さらに一人、明らかに法務知識のある回答者が現れた。


【詳細回答】状況を整理します


 婚姻誓約の「貞節の誓い」違反は重大な契約不履行です。有責配偶者であるあなたは、持参金の返還義務、誓約違反による違約金、夫の名誉・精神的損害への補填、自宅での不貞という加重事由による増額、そして不貞相手への連帯請求、以上の責任を負います。なお夫側がすでに神殿へ申し立てを行っていた場合、あなたに選択の余地はほぼありません。今すぐ法務代行人に相談することを勧めます。


 リディアは、その文章を四回読んだ。


 その時、水晶通信が鳴った。カイルだった。


「なあリディア、俺も見てたんだけど」


「見てたの!?」


「連帯責任って書いてあったじゃないか。俺、そんなに金ないんだけど」


 何かが音を立てて傾く感覚がした。


「カイル、大丈夫って言ってたじゃない」


「言ったけど、まさかこんな額になるとは! 証拠だってないって言ったじゃないか」


「証拠がないって、あなたが言ったのよ?」


「俺はなんとなくそう思っただけで、確認したわけじゃない!」


「なんとなく!?」


「だって部屋の中に記録水晶なんか普通置かないだろ!」


 その瞬間、リディアの脳裏に、エドガーが奥の部屋でしていた作業の意味が光の速度で再構成された。


「カイル」


「なに」


「エドガー、今日ずっと何か書いてるのよ」


「……まさか神殿への申し立て書?」


「明後日、神殿で手続きするって言ってたの」


 長い沈黙があった。


「……準備が、整ったって言ってたんだよな」


 二人は同時に気づいた。


 「準備が整った」は、今日始めた話ではない。



 翌日の夕刻。エドガーが帰ってきた。一人ではなかった。


 玄関を入った瞬間、リディアは固まった。


 神殿の法章を胸につけた壮年の男が上座にいた。その隣に記録板を抱えた書記。テーブルの端に、リディアの両親。母は目が赤かった。父は一度もリディアを見なかった。そして出入口に最も近い椅子に、カイルが座らされていた。


 エドガーは上着を壁にかけた。いつもと同じ動作だった。書類束をテーブルに置き、法務代行人の隣に立つ。


「全員お揃いですので、始めます」


「ちょっと待って!」


 リディアは叫んだ。


「なんで両親がいるの! なんでカイルまで! これは夫婦の問題でしょう!」


「全員、昨日の時点で連絡を取りました」


「昨日!? 私と話した後すぐ?」


「話す前です」


「……は?」


「昨日話す前に、全員への連絡は完了していました。両親への通知は三日前です」


 リディアの母が絞り出すような声で言った。


「リディア……三日前から、エドガーさんはお父さんに連絡をくれてたんだよ……」


 父は黙ったまま、テーブルの木目を見つめていた。


「神殿への婚姻誓約違反の申し立ては、六日前に完了しています」


「六日前……?」


「君が魔掲板に相談を投稿する、四日前です」


 リディアの口が開いたまま、言葉が出なかった。


「証拠物件の確認をします。一。魔導鍵の入退室記録。カイル・ダリオン氏が当宅を訪れた日時と滞在時間の記録、十七回分。最古は婚姻から四か月後です」


 十七回、という数字が部屋に落ちた。


 リディアの母が小さく声を上げた。


「二。記録水晶の映像記録。応接間と寝室に設置したものです」


「寝室!?」


 リディアは立ち上がった。


「寝室に記録水晶を置いてたって言うの!? 卑怯でしょう! プライバシーの侵害よ! そんな証拠は無効よ!」


 法務代行人が初めて口を開いた。疲れた目をした初老の男で、声に一切の感情がなかった。


「婚姻財産内に所有者配偶者が記録装置を設置することは合法です。なお当該水晶は、婚姻当初から財産保全目的で設置されていた記録があります。判例も多数あります。無効にはなりません」


「で、でも倫理的に――」


「倫理の話をされますか」と法務代行人は言った。「どちらのお立場から」


 リディアは黙った。


 エドガーは書類をめくった。


「三。使用人ベルタの証言記録。日時、状況、目撃内容、計十一項目。四。リディアが投稿した魔掲板の書き込みの写し。『できるだけ多く受け取りたい』という記述を含む相談全文。五――」


「それも証拠にするの!?」


 リディアは声を荒げた。


「匿名でしょう! 私だってわからないでしょう!」


「書き込んだ端末の固有符号が記録されています。君の水晶通信端末と一致しました」


 リディアの口が開いたまま、何も出なかった。


 エドガーは続けた。


「五。カイル・ダリオン氏から受け取った書状、十三通。そのうち四通に、私の財産から離縁金を受け取り、それを資金に新居を借りるという計画が記述されています。では一通、読み上げましょう」


「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 カイルが立ち上がった。


「それは言葉の勢いというか――」


「お座りください」


「でも――」


「お座りください、ダリオン氏」


 エドガーの声のトーンは変わらなかった。しかし何かが変わった。カイルは座った。足から力が抜けるように。


 エドガーは書状を広げ、読み上げた。


 カイルの文字で書かれた言葉は、読み上げられるほどに醜くなった。


「エドガーから取れるだけ取れ」

「どうせ甲斐性のない職人だ、大した金にもならないかもしれないが」

「それでも俺たちの新生活の足しにはなる」


 リディアの父が、ゆっくりと娘を見た。


 その目に、初めて見る種類の感情があった。失望でもなく、怒りでもない。


 他人を見る目だった。


「リディア」


 父は言った。声が低かった。


「お前は、この男と一緒に、エドガーさんを金蔓にしようとしていたのか」


「違う! そういう言い方じゃなくて、私は幸せになりたかっただけで――」


「幸せになりたいなら人の財産を当てにするな」


 父はそれだけ言って黙った。それ以上何も言わなかった。


 怒鳴られるより、よほど応えた。


 カイルが口を開いた。今度は声が細かった。


「あの、俺はリディアに言われて来ていただけで、主導したのはリディアであって、俺はただ彼女が好きで、言われるままに……」


 エドガーがカイルを見た。


 初めて、まっすぐに見た。


 怒ってもいなかった。軽蔑してもいなかった。


 値踏みする目だった。豚の値段を確認する市場の業者のような、純粋に事務的な目だった。


 カイルはその目を受けて、口を閉じた。人間、自分が何として見られているかは、本能でわかるらしかった。


「書状はあなたの署名入りです。四通全て。共同不法行為として連帯請求が行きます」


「い、いくらくらい……」


「計算中です。後ほど書面で通知します」


 その瞬間だった。


 エドガーが書類から目を上げた。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、リディアの顔を見た。


 それはこれまでの「事務的な目」ではなかった。


 怒りでも、軽蔑でも、悲しみでもなく――


 三年間を、今ここで完全に終わらせる目だった。


 次の瞬間、エドガーは視線を書類に戻した。


「以上です。ご両親、お時間をいただきありがとうございました。娘さんの支払計画については改めて書面でご連絡します」


 処理が、終わった。



 十日後。


 街外れの安宿の一室で、リディアはベッドの端に座っていた。


 部屋は狭く、壁が染みていた。テーブルの上に書類が積まれていた。違約金の請求書。分割払いの計画書。信用組合への事故情報登録通知。


 水晶通信が鳴った。カイルだった。


「リディア、俺の代書人がさ、連帯請求の割合の話をしてきたんだけど」


「何」


「俺が先に単独で示談を締結すれば、連帯の割合が変わるかもしれないって」


 リディアは止まった。


「……それって私一人に全額押し付けるってこと?」


「そういう言い方じゃないけど、俺には俺の事情があって――」


「ふざけないでよ!」


 声が上がった。


「あなたが大丈夫って言ったんでしょ! 証拠は残らないって、神殿だって恋愛には口出しできないって、全部あなたが言ったんでしょ!!」


「俺はそう思っただけで、保証したわけじゃない!」


「保証したわけじゃない!?」


 リディアは端末を握りしめた。


「じゃあ何のつもりで言ったのよ! 私がその言葉を信じたから動いたんじゃない! あなたのせいでこうなったんじゃない!!」


「お前のせいだろ! 自宅に俺を呼び込んだのはお前だ! 自分から誘っておいて責任を俺に押し付けるな!」


「呼んだけど来たのはあなたでしょ!! 嫌なら断ればよかったじゃない! 断れないなら覚悟を持ちなさいよ!」


「覚悟? 笑わせるな! お前がもうすぐ離縁できるって言うから来たんだぞ! できないなら最初からそう言え!」


「できるって思ってたのよ! あなたも大丈夫って言ったじゃない!」


「だから俺は保証してないって言ってるだろ!」


「じゃあ何なの!? 責任取れないなら最初から近づかないでよ! あなたのせいで私の人生めちゃくちゃじゃない! あなたさえいなければエドガーと普通に離縁できたのに!」


 カイルの声が、一段低くなった。


「……今、なんて言った?」


「あなたさえいなければって言ったのよ。聞こえなかった?」


「俺がいなければ?」


 カイルの声に、初めて本物の怒りが混じった。


「お前が誘ったんだろ。お前が俺に会いたいって言って、お前が夫の家に呼んで、お前が離縁金を取る計画を立てたんだろ。それを全部俺のせいにするのか」


「計画を最初に言い出したのはあなたでしょ! エドガーから取れるだけ取れって書いたのは誰よ!」


「お前が離縁金をもらえる側だって言うから話を合わせたんだよ!!」


「話を合わせた!?」


 一瞬、沈黙があった。


「話を、合わせた……?」


 リディアの声が低くなった。


「じゃあ最初から本気じゃなかったってこと? 真実の愛とか言ってたのは、全部合わせてただけ?」


「そういう意味じゃ――」


「どういう意味なのよ! はっきり言いなさいよ! あなたは私のことが好きだったの、好きじゃなかったの、どっちなの!!」


「……好きだったよ。でも今のお前は好きじゃない」


「は?」


「借金まみれで他人のせいにして喚き散らして、今のお前と一緒にいたいと思うか?」


 リディアは三秒、息ができなかった。


「……今のあなたに言われたくない」


「俺は少なくとも、示談で自分の分は整理する。お前の分まで面倒は見られない。法務代行人から連絡させる」


 通信が切れた。


 部屋が静かになった。


 リディアはしばらく端末を持ったまま、壁を見ていた。


 それから、ゆっくりと立ち上がり、テーブルの水晶通信板を点けた。魔掲板を開いた。特に理由はなかった。ただ他に、することがなかった。


 画面を流し見ていたら、見覚えのある話題が目に入った。


【報告】以前「離縁金相場を教えてください」の相談を投稿した件の夫側です


 妻リディア・ハロウェルへの婚姻誓約違反による請求は確定しました。情夫カイル・ダリオン氏との連帯賠償交渉も完了。両家を含めた支払計画は先週締結済み。信用組合への事故情報登録も完了しています。なお当工房は来月より王宮案件の受注を開始します。ご縁があれば。


 感情的なことを書くつもりはありませんでした。


 ただ、一点だけ。


 三年間、稼ぎの悪い地味な職人だと思われていたようです。妻が自宅で別の男と再婚計画を立てていたことも、私の金で新居を借りようとしていたことも、最初から知っていました。ただ静かに、証拠を揃えながら、準備が整うのを待っていた。


 それだけのことです。


 返信欄が流れていた。


「夫側、完璧すぎる」

「王宮案件まで決まってて草」

「最初から全部知ってて静かに待ってたの怖すぎる」

「捨てた男がこれで、捨てた理由が『地味』って、目が節穴すぎる」

「情夫が示談逃げしようとしてるって話も聞いた、クズすぎる」

「妻が最後まで自分のせいだと思ってなさそうなのが一番怖い」


 リディアは画面を閉じた。


 部屋が静かだった。


 なぜこうなったのか、本当の意味では、今も理解できていなかった。


 自分は妻だった。妻は守られるはずだった。幸せになりたかっただけだ。その何が間違っていたのか。


 婚姻誓約? あんなもの、読んだことがある人間の方が少ない。記録水晶? 普通そんなもの置くか。カイル? あいつが大丈夫と言った。エドガー? 証拠を集めた方が卑怯だ。


 ただの一ミリも、自分には落ち度がなかった。


 その確信だけが、この部屋で彼女を支えていた。


 窓の外は、晴れていた。


 エドガーの工房に、今頃王宮からの依頼書が届いているかもしれなかった。


 それがどんな顔で読まれているのか、確かめる方法はもうなかった。

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