心停止な僕
電話の音が、やけに
長く、長く
鳴っていた気がする。
出たとき、相手は名乗ったはずなのに覚えていない。
「事故で——」
そこだけ、はっきり残っている。
あとは、単語が途切れ途切れに頭に引っかかった。
病院。
搬送。
意識が——
「すぐ来てください」
切れたあと、
しばらく動けなかった。
理解する前に、体だけが先に動く。
鍵を掴む。
靴を突っかける。
財布を落として、
拾い損ねて、
また落とす。
こんなときに限って、
全部うまくいかない。
ドアを閉めたかどうかも分からないまま、外に出た。
走る。
息が上がるのに、止まれない。
頭の中では、変なことばかり考えている。
——どこの病院だっけ。
——信号、赤だ。
——財布、持った?
どうでもいいことが、次々と浮かぶ。
一番考えたくないことだけ、避けるみたいに。
ありえない
ありえない
ありえない
ありえない
横断歩道を渡るとき、
クラクションが鳴った。
車がすぐ横をかすめる。
一瞬、体が固まる。
——あ、今、自分も死ぬかもしれなかった。
……
「も?」
そう思ったのに、すぐにどうでもよくなる。
それよりも、早く行かなきゃ。
早く。
まだ、間に合うはずだから。
何に?
病院の匂いがする。
消毒液の、あの匂い。
受付で何を言ったのか覚えていない。
名前を何度か言い直した気がする。
案内された部屋の前で、足が止まった。
ドアの向こうに、全部がある。
開けたら、もう戻れない気がした。
それでも、開ける。
部屋は、静かだった。
思っていたよりも、
ずっと静かで、
現実味がない。
ベッドの上に、その人がいる。
顔色が悪いとか、
そういうレベルじゃない。
「動いていない」という事実だけが、目に入る。
そばに人がいる。
何か言っている。
でも、意味が入ってこない。
私は、一歩、近づいた。
近づいたはずなのに、
なぜか、距離がある。
——ここじゃない。
自分が立っている場所が、違う気がする。
もう一歩。
そのときだった。
「「ほうっ」」
音がした。
小さくて、乾いた音。
空気が抜けるみたいな。
胸が、下がる。
それきり、動かない。
——今のが、最後。
分かった。
誰も説明しなくても、分かってしまった。
なのに、
私は、それを“見ていた”。
ベッド。
白いシーツ。
動かない身体。
全部が、やけに整って見える。
まるで、
誰かの映画かなんかの場面みたいに。
「——さん!」
誰かが名前を呼ぶ。
私の名前なのか、その人の名前なのかも、分からない。
ただ、遠くで音がしている。
——ここで人はきっと泣くんだろうな。
そんなことを、思っている自分がいる。
おかしい。
最愛の人が、今、ここで終わったのに。
私は、その場にいながら、
一歩引いた場所で、それを眺めている。
ちゃんと見ていない。
ちゃんと受け取っていない。
ただ、“光景”として処理している。
誰かが肩に触れる。
その温度で、少しだけ現実が近づく。
でも、すぐにまた遠のく。
戻れない。
あの人の最後を、
真正面から受け止める場所に、
立てない。
——最低だ。
そう思う。
でも、止められない。
時間が、また動き出す。
誰かが泣く。
誰かが指示を出す。
全部が、少し遅れて聞こえる。
私はまだ、そこにいない。
ただ、遠くから見ている。
——きっと、あとで来る。
全部。
あの音も。
この現実も。
何もない日常の中で、突然。
逃げ場のない場所で。
そのときになって、ようやく。
私は、きっとこの瞬間を受け取る。




