大丈夫だよ
魂が生まれる前、そこには名前も国も時代もない、ただ静かな場所があった。果ての見えない白の中を、無数の光がゆっくりと漂っている。ひとつひとつが、これから生まれる魂だった。光はそれぞれに重さを持っていて、軽やかに揺れるものもあれば、深い水の底に沈むような気配をまとったものもある。神はそのすべてを見ていた。裁くためではなく、見届けるために。魂には生まれる前に課題が与えられる。苦しみを越えること。喪失を受け入れること。絶望の中でも生を選ぶこと。課題を果たした魂は少しずつ穏やかになり、格を上げ、ようやく安らぎへ近づいていく。けれど、うまくいかないこともある。痛みの前で折れてしまう魂も、愛ゆえに手放せない魂も、いくらでもあった。
その中に、二つの魂があった。ひとつは、我が子が自分より早く死ぬ運命を受け入れ、その後も生きて天寿を全うすることを課された魂。もうひとつは、どれほどの苦痛の中でも最大限生き残る努力をすることを課された魂。後にそれぞれ、母となり、息子となる魂だった。
最初の生は、西洋の貧しい町に落とされた。石畳の道はいつも薄汚れていて、朝の空気には煤と湿った土の匂いが混じっていた。女はひとりで子を育てていた。父親は最初からいないも同然で、二人の暮らしは楽ではなかった。それでも、母と息子は寄り添うように生きていた。小さな食卓を囲み、硬いパンを分け合い、冬の夜にはひとつの毛布にくるまって眠った。貧しさは体を痩せさせたが、二人のあいだにあるぬくもりまでは奪えなかった。母は息子の寝顔を見るたびに胸の奥がやわらかくほどけていくのを感じ、息子は母のひび割れた手を見るたびに、早く大きくなって支えたいと思っていた。——この人をひとりにしない。それがまだ幼い魂の、ほとんど祈りに近い決意だった。
「母さん、俺、すぐ帰ってくるよ」
徴兵の日、まだ青年と呼ぶにも若い息子は、痩せた肩を精一杯張ってそう言った。
母は震える指でその頬に触れ、泣きそうになる顔を無理に笑わせた。
「ええ、待ってるわ。ちゃんと待ってる。だから帰ってきて」
「約束する」
「必ず?」
「必ず」
その言葉が嘘ではないことを、二人とも信じていた。信じなければ、息ができなかった。
戦場は泥と血と硝煙の匂いに満ちていた。砲声は空気そのものを引き裂き、人の叫びはすぐに地面へ吸い込まれていく。息子は生き延びた。倒れていく兵士の横を這い、傷を負っても歯を食いしばり、熱を持つ泥にまみれながら前へ進んだ。恐怖は何度も喉元までせり上がったが、そのたびに母の顔を思い出した。待っている人がいる。帰らなければならない場所がある。その一点だけで、彼の心はどうにか砕けずにいた。だが、課題は願いを容易く通してはくれなかった。地雷を踏んだ瞬間、世界はひどく明るくなって、次の瞬間には足が吹き飛んでいた。遅れてやってきた激痛は、自分の体が自分のものではなくなるような苦しみだった。助けを呼ぶ声も出せない。周囲には誰もいない。空は灰色で、土はぬるく、流れ出る血だけが異様に鮮やかだった。彼は震える手で銃を握る。帰りたい。死にたくない。母さんに会いたい。——それでも、このままひとりで裂けるような痛みに飲まれていくことが、あまりにも恐ろしかった。
「ごめん……母さん……ごめん……」
掠れた声は、誰にも届かなかった。
銃声はひとつだけだった。
訃報が届いた日、母はしばらくその紙切れの意味を理解できなかった。文字は読めるのに、意味だけが遠く、ひどく薄いもののように感じた。だが、理解した瞬間、体の芯が空洞になった。息子がいない。もう帰ってこない。約束は果たされない。待つことだけが自分に残された役目だと思っていたのに、その待つ相手が消えてしまった。彼女は泣いた。声が枯れ、涙が出なくなってもなお、喉の奥に残る悲鳴だけが消えなかった。夜更け、ふらつく足で外へ出たのは、自分でも理由がわからなかった。ただ部屋にいることが耐えられなかった。息子のいない家は、あまりにも静かで、あまりにも広すぎた。戦争で町は荒れ、夜の通りは獣のような飢えた視線に満ちていた。女がひとりで歩けば、どうなるかなど考えなくてもわかる。それでも彼女は戻らなかった。——生きていても、もう意味がない。そう思ってしまったからだ。翌朝、身ぐるみを剥がされ、無残に壊された女の死体が見つかった。
課題は、どちらも果たされなかった。
神の前へ戻った二つの魂は、かつての体を失ってなお、互いを見つけるとすぐに抱き合った。言葉より先に、後悔と愛しさが押し寄せていた。生前には触れられなかった痛みまで、魂のままならそのまま伝わってしまう。息子の魂は、母の魂が最後に味わった絶望に打たれ、母の魂は息子の魂が戦場で抱えた激痛と孤独に震えた。だからこそ、謝ることしかできなかった。
「ごめんなさい……待てなかった……待つって約束したのに……」
「俺こそ、ごめん……生きるって言ったのに……帰るって、言ったのに……」
「会いたかった、会いたかったのよ……」
「俺もだよ……母さん……」
神はそれを、ただ静かに見ていた。責める目ではなかった。けれど、やり直しは告げられた。課題が終わっていないからだ。
次の生は、日本の昭和だった。今度も父親はいない。母はろくでなしの男を失い、いや、むしろ失ってようやく息子と二人でまともに暮らせるようになっていた。狭い家、古いちゃぶ台、夏は蒸し暑く冬は骨まで冷える部屋。それでも前の生より、少しだけ平和だった。母は朝早くから夜遅くまで働き、息子は勉強をして家事も覚えた。互いが互いの支えだった。前の生の記憶はない。それでも魂はどこかで知っている。同じ相手を、また失いたくないと。だから母は働きすぎて倒れそうになっても笑い、息子は眠い目をこすりながらでも母を助けた。愛情は、記憶がなくても癖のように体に残るものだった。
「お母さん、今日は俺が荷物持つよ」
「そんなに気をつかわなくていいのに」
「いいんだよ。もう子どもじゃないし」
「そうねえ……大きくなったわ」
商店へ向かう道で、母は前を走る自転車の背中を見つめていた。細かった肩が少しずつ広くなり、幼い首筋が少年のものへ変わっていく。その成長がうれしくて、同時に少し寂しかった。——この子は、ちゃんと大人になっていく。私の手から離れる日が来る。そう思ったとき、胸の奥にあたたかい痛みが広がった。けれど次の瞬間、横を通った軽トラにひやりとして、思わず声を上げた。
「危ない、気をつけて!」
息子は振り返った。母の声に反応した、それだけだった。ほんの少しだけ車道側へ寄った自転車と、対向車を避けて端へ寄った軽トラ。その偶然が重なった瞬間、世界はありえない形で壊れた。鈍い音。転がる荷物。押しつぶされた体。母の目の前で、息子は潰れた。
「いやああああっ!」
悲鳴は自分のものとは思えなかった。地面に膝をつき、震える手で傷口を押さえる。血が溢れ、指のあいだからすぐに逃げていく。止まらない。温かいのに、もう助からないとわかる色をしていた。周囲の人々が叫び、誰かが医者を呼べと走っていく。けれど母には何も聞こえなかった。目の前の息子の呼吸だけを追っていた。薄く開いた唇、焦点の合わない目、まだ温かい頬。彼女は必死に名を呼び続けたが、その声は命の流れを引き戻せなかった。
「お願い、だめ、だめよ、置いていかないで……!」
息子は答えなかった。
葬儀のあとの家は、前よりずっと静かだった。母は箸を持てなくなった。湯呑みに口をつけても何の味もしない。近所の人が見かねて何度も差し入れを持ってきた。励ます言葉をかけてくれた。生きなければ、と。食べなければ死んでしまう、と。だが、その言葉は彼女にとって脅しではなく、救いに聞こえた。薄ら笑いが浮かんだのは、心が壊れていたからかもしれないし、ようやく終われると思ったからかもしれない。
「それがいいわ」
そう言って、数日後、彼女はひとり衰弱して死んだ。
神の前に戻ったとき、息子の魂だけが課題を終えていた。苦痛の中で生きようとした。あの瞬間、逃げずに、最後まで生へしがみつこうとした。それは確かに果たされたのだ。だが母の魂は、またしても我が子の死を越えて生き抜くことができなかった。
再会した二つの魂は、泣きじゃくるように震えた。今度は前以上に、別れが差し迫っていることを感じていたからだ。母の魂は会いたかったと何度も繰り返し、息子の魂はなぜ耐えなかったのかと苦しげに問うた。それは責める声ではなかった。どうしてまた一緒にいられないのか、その理不尽への叫びだった。
「会いたかった……ずっと、会いたかった……」
「俺だって……でも、どうして……どうして生きてくれなかったんだよ……」
「ごめんなさい……でも、もう、あの子のいない世界が……」
「それでも、生きてほしかった……!」
神は静かに告げた。母の魂は、別の魂と新たな生を歩まなければならない。課題を終えるために。息子の魂はその場で言葉を失い、母の魂はわずかに揺れたあと、かすかな光を震わせて答えた。
「……この子が、もう苦しまないのなら、それでいいです」
それは諦めではなく、母という魂に染みついた愛情そのものだった。
そして再び生が始まる。現代の日本。母は夫を病気で亡くし、ひとりで息子を育てていた。忙しく、苦しく、余裕などない毎日だったが、息子は明るかった。やんちゃで手がかかるのに、妙に人の痛みに敏い子だった。小さな頃から、ときどき不思議な顔をした。母が疲れてうつむいたとき、何でもない瞬間にそっと手を握り、小さく笑ってこう言うのだ。大丈夫だよ、と。母はそのたび胸が締めつけられるような気持ちになった。こんな幼い子に励まされる自分が情けなく、同時に、どうしようもなく救われた。——この子さえ生きていればいい。この子が幸せになるなら、私は何だってする。その思いは執着のように深く、祈りのように静かだった。
その日、家が揺れた。最初はきしむように、次は叩き壊されるように。地震だと理解したころには、立っていることもできなかった。棚が倒れ、天井が裂け、家全体が獣の腹の中みたいに唸っていた。母は考えるより先に息子を抱き寄せた。守らなければと思った。今度こそ。ようやく。二度も失ったこの魂を、今度こそ自分の腕の中で生かしてみせるのだと、ほとんど本能でそう思った。次に気づいたとき、二人は瓦礫に挟まれていた。頭が熱い。背中も足も、どこがどれだけ壊れているのかわからないほど痛い。血が流れている感覚だけが、ぬるく皮膚を伝っていた。けれど腕の中の息子は生きている。声をかければ、かすかに返事がある。その事実だけで、母の胸には奇妙な安堵が広がった。——守れた。やっと、守れた。
「大丈夫……? 痛いところ、ある……?」
「……うん……でも、ママは?」
「私は平気……大丈夫だから」
本当は大丈夫ではなかった。声を出すたび、肺の奥がきしむ。視界も少しずつ暗くなっていく。それでも瓦礫の上から救助の声が聞こえた。誰かがいる。きっと息子は助かる。自分はここまでかもしれない。それでもいいと思えた。腕の中にある温もりが続くなら、それでよかった。
「きっと助けてもらえるから、大丈夫……生きて、幸せになるんだよ……」
言いながら、自分の意識が遠のいていくのがわかった。痛みが薄れ、代わりに寒さとも眠気とも違う、静かなものが体を満たしていく。もう、息子が助け出されるところまでは持たないだろう。そう理解した瞬間、不思議と恐怖はなかった。ただ、寂しさがあった。まだもう少し、この子の顔を見ていたかった。もっと先まで、生きてほしかった。ふいに、頬を撫でる感触があった。小さな手が、瓦礫の隙間から懸命に伸びてくる。息子は身をよじり、苦しいはずなのに、泣くのではなく母を見ていた。
「……大丈夫だよ」
その言葉に、母は目を見開いた。聞いたことがある。何度も、何度も、遠いところで。思い出せないはずの記憶が、胸の奥でひどく温かく痛んだ。母はかすかに微笑んだ。そこで、旅立った。
鼓動の止まった母の腕の中で、息子は穏やかだった。泣かないのではない。どこかで、これが終わりではないと知っているような顔だった。だが、地はまだ揺れていた。余震が再び瓦礫を鳴らし、さっきまで聞こえていた救助の声は悲鳴に変わる。上からさらに重いものが落ちてきた。小さな体を押しつぶすには、それで十分だった。
数週間後。ようやく落ち着いた瓦礫の下から、親子の亡骸が見つかった。母は最後まで息子を抱きしめていた。息子はその腕の中に収まるようにしていた。離れないまま、見つかった。
別の魂と課題へ向かった母の魂、それに逆らう光があった。息子だった魂だ。すでに幾度もの課題を終え、安らぎへ近づいていたその魂は、神の前で願った。これまで積み上げてきたものをすべて失ってもいい。格も、安らぎも、到達しかけていたものすべてもなくしていい。ただ、あの魂の子として生まれ、今度こそ見送りたいのだと。短くとも共に過ごしたいのだと。
「お願いします」
神はやさしい目で、それでも厳しく答えた。
「それは、お前が積み上げたすべてを失っても足りない」
「それでもいいです」
「その先、お前はもう課題へ挑むことすらできなくなる。ただ漂うだけの存在になるかもしれない」
「それでも」
「安らぎから、もっと遠ざかるぞ」
「それでも、いい。あの人が、ひとりで泣かなくてすむなら」
神はしばらく沈黙した。その沈黙は拒絶ではなく、願いの重さを受け止めるための時間だった。そして、息子の魂は再び母のもとへ向かった。
数え切れないほどの魂が、それぞれの課題へ向かって流れていく。その大きな流れから少し離れたところに、ただ漂う複数の魂がある。光は薄く、けれど不思議とやわらかい。誰かを追い続けた魂。誰かのために安らぎを手放した魂。あるとき、新たな課題を受けたひとつの魂が、それに気づいて神へ問うた。なぜあの魂たちは流れに乗らないのか、と。あれは何なのか、と。
「神様、あそこにいる魂たちは、何ですか」
神は答えなかった。
ただ、静かにその魂たちを見つめていた。その眼差しはあまりにも優しくて、問いかけた魂はそれ以上言葉を続けられなかった。名をつけるには、あまりにも深い感情がそこにあったからだ。愛と呼ぶには足りず、執着と呼ぶにはやさしすぎる。罰とも救いとも言い切れない、けれど確かに存在する何か。白い世界の片隅で、いくつもの魂が揺れていた。失ったものを知りながら、それでもなお、誰かのそばへ行こうとする光だった。
そしてまた、新しい生が始まる。誰かの課題のために。誰かを愛してしまった、その報いのために。あるいは、その救いのために。




