人格喪失
インフルエンサーが変わったきっかけは、あの彼の国訪問だった。
常人の理性を吹き飛ばすには十二分の歓待ぶりだった。政界要人の出迎え。ミニバーを備え付けた高級リムジン。文化省主催の歓迎の夕べ。そこで知り合った多くの著名人。セレブな気分を味わえる五つ星ホテル。よりどりみどりの一夜限りのパートナー。各大手メディアからの取材攻勢。いつも満員御礼の講演会。ファンからのサイン攻め。数々の栄えある称号。
彼の国にいれば、何をしても、何もしなくても、全肯定された。
祖国は寒かった。空港で待っていてくれたのは交際相手のリポーターだけだった。
「おかえりなさい。疲れてない?」
「いやぜんぜん。快適な旅だったよ」
二人は空港から地下鉄に乗った。ちょうど夕方の帰宅ラッシュ時で、電車はすし詰め状態だった。そのせいでリポーターは旅の印象を聞けず、インフルエンサーも喜々として報告する気分を失った。
「なぜおれがこんな扱いを受けるんだ」
彼は吊り革にしがみつき辛うじて体のバランスを保ちながら、車内の人々に目を向ける。彼自身もそうなのだが、誰もが無表情で苦しみに耐え、余裕がない。運良く席に座ることができた人々はイヤホンにスマホで自分の世界にこもる。駅で停車すると、ドアの近くで乗客各自の利己的な計算が錯綜し、スムーズな乗り降りの妨げになる。彼の国の庶民の間でも営まれている暮らしの一コマなのだが、インフルエンサーには我が国特有の小さな狭苦しい社会に見えた。
「これだから我が国はダメなんだ」
帰宅するだけで疲れがたまった。やっとプライベートな空間に入り、シャワーを浴び肌触りのいいバスローブに着替えビールで一息つくと、口から出たのは彼の国の感想ではなく我が国の愚痴ばかりだった。
「彼の国では……だったのに、我が国は……」の繰り返しを聞くと、リポーターもさすがに嫌になってきたので、「誰か有名人に会えた?」と上手く話をそらした。インフルエンサーは「ちっちっ」とわざとらしく舌を鳴らし、
「おれ自身が有名人なんだから、そういう聞き方は失礼だぞ」
ともったいぶったものの、やはり誇らしいようで、彼女も知っている誰彼の名前を挙げた。その中には彼女が入社したばかりの頃に取材したことのある例の女優もいた。
「映画と違って、会ってみると感じの悪い人よね」
「そうか? おれには愛想よくしてくれたぜ」
久しぶりだったので、彼女は彼を求めた。彼は連日、彼の国の美女に搾り取られ、やる気が出なかった。彼は「疲れてるんだ、ごめん」と言うと、すぐに眠りに落ちた。今夜も夢の中では別の女性を抱きながら。
リポーターはインフルエンサーが中立から完全に下りたことを知った。帰国後の最初の動画は「実際に行ってみて分かった、彼の国が我が国より優れている十の理由」で、彼の国の最も優れた点を我が国の最も劣った点と比較する不公平な内容だった。ところが彼の国の視聴者からは「客観的」「中立的」「正直な人だ」「よくぞ言ってくれた」「彼らの国に残された最後の良識」などの好意的なコメントが相次いだ。
数字を稼げる彼の回りには自ずと人が群がった。彼はその中から見込みのある人を選び、スタッフを拡充した。毎日、彼はおべっかを使う連中に囲まれた。
「我が国人なのにこんな企画ができるなんて天才だ」
彼は短文投稿型のSNSで、我が国のネットユーザーからも注目される存在になった。むろん悪い意味でだ。彼は個人の動画のノリで我が国を口汚く罵り、炎上した。
「何が我が国からの友好大使だ。ただの売国奴じゃないか」
「彼の国にへいこらして動画でカネ稼ぐなんて物乞い以下だな」
彼は彼の国のフォロワーを率い猛反撃した。
「正義の声を排斥しようとするなんて恐ろしい国だ」
「自分たちの国に言論の自由がないことを自ら証明してみせた」
この戦いぶりは在我が国彼の国大使館のアカウントからも注目された。アカウントは一連のやり取りのうち彼の国に有利な部分だけを転載した。お上から政治的正しさのお墨付きをもらった彼の国のネットユーザーとインフルエンサーはますます増長し、我が国側との争いは急激にエスカレートしていった。
当然の流れとして、インフルエンサーに殺害予告とも取れる書き込みがされた。彼は即座にそれを取り上げ、「弁護士と相談し法的措置を講じる」とけん制すると同時に、訴訟に向けたクラウドファンディングを開始し、さらに動画のネタにした。彼の国から巨額の訴訟費用が寄せられた。
「本当は金持ちのくせに守銭奴め」
裁判は彼の圧勝で、未成年の加害者から相場以上の慰謝料をむしり取った。彼は勝利宣言をし、動画で盛大に祝った。本件は我が国の恐ろしさや醜さを示す一例として、彼の国の◯◯通信にトップニュースとして報じられた。
騒動の最中、リポーターはインフルエンサーと口論し、別れた。
ある休日、彼女は自宅で目を血走らせスマホを操作する彼を見ながら、「もうやめたら」と言った。
「やめるって何を?」
「動画とかSNSとか。あなた、すっかりおかしくなっちゃったわよ」
「おかしくもなるさ。我が国の全員がおれを目の敵にするんだから」
「全員?」
「そうさ。おれが彼の国で名を上げ、カネを稼ぐことに嫉妬して」
「あなたがそう仕向けてるんじゃない」
「どうした? きみもおれに不満があるんだな。まぁ座れよ」
二人はダイニングのテーブルを挟み、向き合った。
「彼の国の支持をバックに我が国にケンカを売る。両国友好どころか、相手国へのヘイトを煽り、争わせ、注目を浴び、カネを稼ぐ。そんなやり方を嫌がるのは人として当然よ」
「違う。彼の国人はみんなおれの味方になってくれる」
「それはただあなたを利用しているだけ」
「そうさ。おれはその価値を持つ男なんだ」
「他人に利用されることを喜ぶなんて、昔のあなたなら考えられなかったわ」
「人の考えは日々進化する」
「退化もね。我が国に疑問を持ち、彼の国との間で中立であろうとした、独立した人格を持つあなたはもういなくなった」
「それでは中途半端で、視聴者を集められなかった。ところが今はどうだ。影響力で言ったら昔の何十倍も何百倍もある」
「あなたまさか、影響力って数値のことを指すと思ってるの?」
「それだけじゃないが……」
「有名人がくっついた離れたで社会的関心を集めることがあっても、一カ月や二カ月もすれば綺麗サッパリ忘れられ、その人の心に何ら痕跡を残さない」
「その代わりに一時的でも人の目を操れる。注目度を利用したい広告主を集め、彼らの有意義な商品やサービスを宣伝できる」
「人を深く動かし、その人生を変えうる力、それが影響力」
「周りを巻き込み、カネを動かす力、それが影響力」
影響力に関する彼らの意見は平行線をたどるばかりで、話は中立の問題に戻った。
「きみはいつまで中立に甘えるつもりなんだ」
「甘えなんかじゃない。私みたいな立場の人が危うく世渡りするには、この細い頼りない綱の上に立つしか道はないの」
「思い切ってそこを飛び降り、どちらか側につくことを選べば、もっと広い道が開ける。どちらか側の人間として堂々と生き、稼ぐことができる」
「確かにこの綱の上ではお金は稼げないかもしれないけど、そこから落ちてしまえば身の破滅よ。あなたを見ていてそれが分かったわ」
口論により、彼らは互いに違う人間になったことを自覚し、かえって円満に別れることができた。リポーターはインフルエンサーに何も求めず、少ない荷物を片手に高級マンションを出た。
どこにも行くあてはなかったが、彼女の心は自由だった。彼が語る影響力という名の魔が支配する圏内から出ることができたからだ。彼女はしばらく一人で都会の喧騒の中を歩いた。
どちら側にもつけない彼女の居場所は職場だけだった。少なくともそこならば彼女を異端者として見る人はいなかった。
翌週。社内は彼女と彼が別れた話で持ち切りだった。彼がさっそく動画でそのことを報告し、「彼の国人のカノジョを募集中」とアピールしたからだ。
ファンキーはわざわざ三階から下りてきて、リポーターに声をかけた。
「よくぞ別れた!」
「よしてよ」
「いくら金持ちでも人間ああなってはおしまいだ」
やはり職場の人にはそれが分かるのだ。リポーターは胸がじんとし、ここを選んで良かったと思った。
「ねぇ、久しぶりに同期で飲み会を開かない?」
「いいね。でもエディターが来るかは分からないぞ。一応連絡だけはしておくけど」




