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綱の上から  作者: 馬々通
8/12

もう限界だ

 ニュートラルを精神的に支えたものは二つある。一つ目は中立という名の正当化だ。

 私は我が国側にも彼の国側にも偏らない中立的な存在だ。中立だから彼の国の主張を我が国に伝えることがあるが、逆に個人のSNSアカウントで我が国の主張を彼の国語で発信することもある。私は仕事で我が国を批判することがあるが、どうせそんなゴミクズみたいな記事は誰にも読まれず無害だし、それを翻訳することで彼の国の企業から金をもらい我が国の経済を回している。私の中立は、どちらにとっても利益になるではないか。

 二つ目は息子の教育だ。彼は夕飯の時間を利用し、息子に我が国を愛し、彼の国を嫌うよう仕向けた。

「彼の国の歴史教科書を我が国語に翻訳した本があるんだが」と言うと、彼は書店で買ってきたばかりのそれを息子に手渡した。

「なにこれ、ぜんぶでたらめじゃん! こんなの読みたくないよ」

「どういうでたらめを言っているか知ってれば反論もしやすくなるだろう」

「そっか。これを読んでおけば論破できるようになるんだね」

 夫婦二人きりの時間になると、妻はこう聞いた。

「あなた最近なんだか変わったわね」

「どこが?」

「前は子供に関しては放任主義っていうか、自由にさせていたのに、最近は教育熱心ね。特に歴史について」

「もう中学生なんだから、いつまでも能天気ではいられない。我が国を愛し、我が国に感謝することを覚えないと」

「あなたって彼の国に留学したこともあるぐらいだから、もっと自由主義的だと思ってた」

 ニュートラルは平穏な日々を送っているように見えた。

 仕事中に感情を乱されることはずっと減った。我が国に批判的な記事については、「またほざいてやがる」「二番煎じだ」「ワンパターンで翻訳しやすい」などと毒づき、ちゃちゃっと片付けた。

「弱い犬ほどよく吠える。我が国では誰もお前らの戯言なんか聞いてねえよ」と思いながら、会社には忠実に尻尾を振り、報酬をもらう。明らかな矛盾なのだが、彼はそれを無理に中立と言いくるめた。

「私は乗り越えてみせますよ、マスター」と、彼は心の中で語りかけた。

 ニュース課に異常事態が発生した。課長が体調を崩し、長期休暇を取ることになったのだ。

 課長の病名は明らかにされなかったが、社内では精神がやられたのだという噂が流れた。機械になりきり淡々と仕事をしているように見えたが、人には言えない悩みやストレスを抱えていたのだろうか。

 課長の離脱で代役が必要になった。彼の国人で、たまにしか出社しない翻訳部の部長は、ニュートラルに白羽の矢を立てた。すでに経験豊富な社員で、彼の国語に精通し仕事が早く、訳文も正確だからというのだ。

「私なんかにそんな重要な仕事は無理ですよ」と彼は本気で辞退した。

「きみは今までも難しい記事を素直に黙々と翻訳してきた。それは貴い才能なんだよ」

 部長は最後に、これは業務命令であり拒否できないこと、その代わりに役職手当が出ることを告げ、「それではまた」と会社を出ていった。

 ニュートラルの課長代役昇進に伴い、一人の新人社員が入社した。彼はその社員にテックニュースを任せ、ノーマルに政治と社会を担当させることにした。

「いよいよ、ですね」と彼女は重苦しい表情で言った。

 しかしニュートラルはもう決めていた。これ以上の犠牲者を出さないことを。せめて自分の部下ぐらいは守ってやることを。

 午後になり、本社から本日の原稿が届いた。ニュートラルはそれに目を通し、メールで分配した。ベテランには我が国に批判的な政治系の記事を、ノーマルのような経験の浅い社員にはやや友好的で親しみやすい社会系を、威圧的で挑発的な社説は自分に、といった具合に。

 彼が自分の原稿の翻訳に一段落をつけ、コーヒーで休憩すると、部下から一本目の訳文が届いた。それはノーマルのものだった。原文と突き合わせて確認したが特に問題はなかった。順調かと思いきや、他の社員のものがなかなか届かなかった。一人あたりの作業量は多くないはずなのに。

 彼が首を傾げているうちに二本目が届いた。それもノーマルのものだった。つまりまだ新しい業務に慣れていない彼女より、他の古い社員の方が訳すペースが倍以上遅いということだ。みんな真面目に仕事をしていると思っていたのに、どうやらサボっているようだ。

 ようやく他の社員から訳文が届き始めたのはもう四時過ぎだった。ニュートラルは愕然とした。読める我が国語の記事になっているものが皆無だったのだ。しかも原文をほぼ無視で、勝手な解釈がほとんどだった。

 彼は仕方なく問題ある社員を一人ずつ課長席の前に呼び出し、注意した。彼らの言い分はこうだった。

「今までこれでオッケーでしたけど」

「おれ、彼の国語専攻じゃないんで」

「いつもより難しい原稿でした」

 ニュートラルの毛根から脂汗が湧き出した。こんなものをサイトにアップすれば、管理職として本社から咎められるのは自分だ。彼は急いで翻訳校正を行った。それで、ノーマルを除く部下の能力が機械翻訳以下であることが分かった。

 次の訳文は退勤時間直前に届いた。部下たちは提出を終えると、そそくさと帰る準備を始めた。ニュートラルはまた彼らを呼びつけようとしたが、やめにした。その方が時間がかかり、しかも恨まれるからだ。

「ひょっとして課長ってすごい人だったのかな?」

 彼が帰宅したのは十時過ぎで、しかも明日の午前中に多くの仕事を残してしまった。

「遅かったわね」

「今日は本当に疲れてしまったよ」

 彼は一人で夕飯を食べた。ビールをコップ一杯飲んだだけで酔いが回った。家の中は不気味なほどしんとしている。時々、息子の部屋からおかしな声が聞こえる。

「宿題が終わって、ゲームしてるみたいなの」

「そうか」

 翌朝。彼はいつもより早めに出社し、一人しかいない事務所で仕事を始めた。頭がもやもやし、動きが悪く、翻訳がはかどらなかった。

「おはようございます」

 ココアの香り。湯気をたどり視線を上げると、そこにはノーマルがいた。

「急に仕事が増えて忙しそうね」

「まあね。まだ慣れないから」

「私に何かできることがあれば言ってちょうだい」

「ありがとう」

 そうは言ったものの、彼は彼女に甘えたくなかった。唯一まともな部下。人をいたわることを知る心根の優しい女性。他の社員のしわ寄せを受けさせてはならない。

 彼は午前中も頭がパンパンになるほど仕事をした。昼休みになり、食堂に移動した。先に席を立った部下たちがAランチを注文し、ニュートラルとノーマルにはCしか残されていなかった。

「おや、ニュートラルもあんかけの魚にハマっちゃったんですか」

 冗談を言っても笑わないので、クラシックは心配そうにニュートラルの顔をのぞき込んだ。彼は辛うじて笑みを浮かべた。

「お疲れ、ですね」

「きみこそ」

 クラシックは最近めっきり痩せた。仕事と家庭でストレスを溜め込んでいるからで、昼食中によくニュートラルやノーマルを相手に愚痴をこぼした。

「また家で何かあったの?」と、ノーマルが話しやすいように聞いた。

「娘の小学校で授業参観があったんですが、妻だけ変な格好だということで娘が恥ずかしがり、家に帰ってから妻を悪し様にののしったんです。ぼくはそれを見たら頭に血がのぼって、初めて怒鳴ってしまいました。娘は泣き、妻は怒り、ぼくは後悔し……。妻は彼の国では、精神的にも経済的にも自立した、誰とでも上手に接することのできる立派な人なんです。それが外国人というだけで我が国では軽んじられ、夫婦の愛の結晶である娘にまで嫌われる。ぼくら夫婦は結ばれるべきではなかったのでしょうか……」

「愛してしまったなら、相手の国籍なんて関係ないわ」

「大変だろうけど、きみは夫として奥さんや娘さんをかばってあげないと。それさえできれば何も後ろめたいことはないさ」

「たとえ家族のためであっても、今の仕事を続けるのはそろそろ限界です。今日なんて、彼の国の首脳の発言の政治的正しさを、古典の知恵で証明しろっていうんですよ」

「奥さんはあなたの記事について何て言ってるの」

「ぼくの気持ちも知らずに喜んでくれてます。我が国での彼の国人の地位向上につながるって」

「じゃあ、奥さんが喜ぶ仕事をして、安定した収入も得ているって納得するしかないな」

「頭ではそう思っても……」

「心は反発する。分かるよ」

 ニュートラルはそう言い、クラシックの肩をぽんと叩いた。翻訳するだけの自分とは違うレベルの苦悩があるのだろうと思った。

 午後。今日も本社から原稿が回ってきた。文章が難解でも政治的内容が含まれない記事はノーマルに。我が国の留学生が彼の国を褒めちぎるような簡単な記事は他の社員に。残りの厄介な記事は自分に。

 それでも、例のごとく退勤前に訳文を提出されるので、残業は不可避だった。一緒に残ってくれるのはノーマルだけだった。

「きみも早く帰らないと」

「独り身だから気にしないで。あなたこそ家族を大切にしないと」

 涙でパソコンの画面が曇った。ニュートラルは無言で感謝しつつ、ノーマルに校正を頼んだ。

「こんな雑な仕事をして、後は上司に押し付けて早めに帰るなんて信じられない」

 課長が職場に復帰することはなかった。ニュートラルは正式に課長に昇格した。喜ぶ人も、祝う人もいなかった。

 彼はボロボロになった。帰宅すると風呂に入り、湯が冷えるまで何十分も浸かった。会社での臨戦態勢から家でのリラックスモードに切り替えるため、それだけの時間と発汗を必要とした。彼は風呂に浸かりながら自分の体を観察する。今日も蕁麻疹がひどい。

 彼がこんな具合だから、家族は土日になってもほとんど外出しなくなった。これではまずいと思った妻は無理に彼と息子を連れ出し、郊外のショッピングモールを散策した。

 そこは子供が生まれる前にできた施設で、これまで何度もお世話になったことがある。家族仲良く過ごした大切な思い出が沢山あり、そこに行くとなると家族の誰もが条件反射的にウキウキした。

 ところが今は違った。昔は小遣いをせびりゲームセンターに飛んでいった息子は親との間に一定の距離を保ち、仕方なさそうに後ろからついてくる。夫は頭の中を真っ白にし、目に入る情報のすべてをシャットアウトし、外界からの影響や干渉をことごとく拒む。だから妻の声だけが空虚に響いた。

「あっちのお店のぞいてみましょう」

「この服なんかどうかしら」

「ちょっと二人とも、どこ向いてるの?」

 昼はレストランに入った。息子はようやく上機嫌になり、もっと幼い頃から大好きなビーフシチューオムライスを注文した。彼は買い物なんかよりも、休日の昼に家族とじっくり話したいことがあった。

「学校で国語を教えてるムカつくババアがいてさ」

「先生と呼びなさい」と妻がたしなめた。

 その人はいわゆる残留孤児二世だった。父は先の大戦で兵士として彼の国に渡り、負傷し捕虜になったが、終戦後は現地の人から分け隔てなく接してもらった。そこで気立てのいい素敵な女性と知り合い、結婚し、我が国に戻ってきたという。

 ニュートラルは息子の話に耳を傾けた。

「事あるごとに彼の国のことをよく言って、我が国は本当は悪いことをしたなんてほざくんだ。教科書にそんなことぜんぜん書いてないのに」

「彼の国にだっていい人はいるのよ」

「その通り。しかし人は人、国は国だ。とりわけ今の彼の国はどうかしてる。我が国憎しで、人間らしい感情を失うよう国民に強いている。だから彼の国の人の多くはおかしくなっている」

「そうだそうだ」

「でも職場のバイトの子は……」

「自らの意志で我が国に来た人と、普通の彼の国人は大きく異なる。そのバイトの子は我々からすればまともな人だが、彼の国から見れば異端児だ。一緒にしてはならない。私は彼の国に留学中、我が国人だからといって嫌な思いをさせられたことが何度もある。全体として見れば、彼の国人を信用すべきではない。国に至ってはなおさらだ」

 注文した料理が届いたが、誰も箸をつけようとしなかった。

「あのババア、きっと彼の国からカネをもらって、おれたちを洗脳しようとしてるんだ。ああいう売国奴はこの国から追い出さないと」

「ちょっともうやめなさい。ご飯冷めるわよ」

 息子はようやくスプーンを取った。夫婦もしばらく自分の料理を食べていたが、妻がふと思い出したようにこう言った。

「でもその先生のお父さんが、彼の国の人から親切にしてもらったのは事実なんでしょう?」

 息子よりも先にニュートラルが口を開く。

「大昔のことで今も国として感謝し続ける必要はない。負けたからって、過去の戦争のことでいつまでもネチネチと我が国を恨み続ける彼の国に対しては特に」

 息子は自分が言いたかったことを父が上手に代弁してくれるのが嬉しかった。

「父さんって愛国者だったんだね」

「まさか。お父さんは彼の国の取引先と商売してるのよ。忘れたの? 仕事ではペコペコし、休日まで向こうに合わせてるくせに、裏では悪口を言うなんて矛盾してるわ」

「うるさい!」

 男の怒号、テーブルの振動で揺れる食器の耳障りな音で、店内が静まり返った。妻は人前での夫の豹変にショックを受け、わなわなと震えるだけだった。

 タガが外れたニュートラルは、狂った。言葉にならぬ声を発し、店を飛び出し、人混みをかき分けながらショッピングモール内を走り回った。

「おれの気持ちを知らず、おれをそんなふうに皮肉るなんて、それでも妻か!?」

 帰宅すると、ニュートラルは寝室にこもり、枕に顔を埋め絶叫した。妻はただ怖く、どうしていいか分からなかった。しっかりしていたのは息子の方だ。彼は鍵がかかっていないドアを開き、布団にくるまる父の背中をやさしく叩いた。

「本当は彼の国の連中をだまして、カネをむしり取っているんでしょう。我が国のために敵と戦う父さんの孤独は分かるよ」

 ニュートラルの頭がぐにゃりと歪んだ。

 その日以降、夫婦仲が険悪になった。ニュートラルは夜遅く帰宅すると、自分で料理を温め直し、一人で晩酌をした。息子のことも遠ざけた。息子はそれを良い方に解釈した。

 会社にも家庭にも安息はなかった。

 彼はもう限界に達していた。自分を偽り、家族を騙し、誰からも理解されない日々に何度も絶望しかけた。そんな時、彼は決まってココアの香りをかいだ。

「朝早くからお疲れ様」

「残業大変ね。私も手伝います」

「悩み事があったら何でも相談してね」

 ニュートラルはノーマルを抱いた。

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