憧れ
「エディター、これ、ありがとう」
ポエムはエディターから借りたライターの本をなかなか返せなかった。彼の国語の読解が苦手で、内容自体も決して分かりやすい小説ではなかったので、どう感想を伝えればいいかと迷っているうち、つい時間がたってしまったのだ。
「それで、どうだった?」
エディターはポエムの感想を待ちわびていた。彼女は我が国で、ライターの読書仲間を持っていなかった。
「それがその、原文が難しすぎて、あまり読めなくって」
エディターはライターのファンを増やすことができず残念がったが、ふと良いことを思いついた。
「だったら我が国語版をメールで送ってあげる」
「えっ、それってまさか……」
「そう。私が翻訳したの」
そんな大切なものを送りつけられ、しかも一読することを強いられるとは、ポエムにはありがた迷惑だった。しかし彼女はもう、エディターがライターの熱烈なファンであることを知っていたので、
「ありがとう。家で読ませてもらうわ」と答えた。
ポエムは毎日仕事が終わると、自宅で少しずつそれを読み進めた。一枚目から衝撃を受けた。原文を少しは読めているからこそ、エディターが正確かつ忠実に翻訳し、作者の筆致まで我が国語で再現していることが分かったからだ。マウスを握るポエムの手が汗ばむ。あれほど長い小説をこれほど丁寧に翻訳するとはどんな労力か。
書き出しだけではなく、エディターは巻末まで一定の緊張感を保ち、長編小説というマラソンを完走していた。ポエムはエディターのプロとしての仕事ぶりに感動させられた。
「こんな素晴らしい我が国語訳を作ってもらえるなんて、作家冥利に尽きるってやつね」
「ありがとう。それで、作品自体の感想は?」
「実は彼の国の社会的背景についてよく知らないから、ちゃんと深いところまで理解できたとは言い難いけど、あなたの自然な訳文は心の中に抵抗なくスッと入ってきた。翻訳小説を読んでいるようではなかったわ」
エディターはその答えに満足せず、ライターの我が国語訳の一人目の読者に矢継ぎ早に質問した。文体の硬さはちょうどいいか。注釈をもっとつけるべきか。彼の国語の独特な表現を活かし直訳すべきか、我が国語らしい自然な表現に書き換えるべきか。会話文はテンポよく進んでいるか、特に男性の会話文は男性らしくなっているか。ポエムは脇に汗をかきながら、熱意がこもった真剣な目で自分を見つめるエディターに必死に答えた。
こうして二人は信頼し合う仲になった。エディターはポエムを良き理解者、仲間と思い、感謝した。ポエムは仕事の知識が豊富で、文才があり、なにより自分の理想にひたむきなエディターを慕った。
彼女たちは、会社ではランチを共にし、頻繁に打ち合わせをし、帰りも駅まで一緒に歩いた。プライベートでは二人で外出し、図書館、美術館、彼の国の飲食店街など、仕事の養分になりそうな場所をめぐった。彼女たちはどちらも彼氏がいなかったが、それを不足とも思わなかった。
社内がそわそわしてきた。来月、彼の国の建国記念日により、会社が一週間休みになる。社員たちは今から過ごし方について話し合っていた。
ニュートラルは家族がいるのでどこにも行けず、サウナで頭を空っぽにするつもりだ。ファンキーは仲の良い同僚と遠くまでキャンプに行く予定だ。クラシックは久しぶりに自分のやりたい学問に専念することを決めていた。リポーターは彼氏が彼の国出張中なので、国内で一人旅を試そうと思っている。
「ポエム、連休中は何か予定ある?」
「なんにも。私たちどうしようか?」
「聖地巡礼に付き合ってくれるかしら」
翌月。二人は彼の国の地に降り立った。彼女たちの旅のガイドブックはライターの処女作だった。
作品の舞台は彼の国の首都と、とある田舎町。首都の章では実際の地名が使用されている。田舎町は架空とされているが、エディターはライターの故郷がそのモデルであることを知っていた。
ポエムは、エディターが我が国にいる時よりも活動的なことに驚かされた。インドア派で運動とは無縁な彼女がバックパック一つで慣れない彼の国の大都会を早足で歩き回り、道行く人に彼の国語で話しかけ行きたい場所をたずね、目的地に到着すると写真を撮るだけでなくメモ帳に熱心に書き込む。人は意欲があれば、自分でも気づかなかった行動力を発揮できるものだ。
「しまった! あそこの情景描写は誤訳だった」
「上階に歯科クリニックがあるって書いてあったけど、実際には下階ね。ライターの思い違いかしら。出版前に確認が必要ね」
「小説に出てきたこの料理、辛味と酸味がありさっぱりしているって描写に違和感があったけど、なるほど本当にそんな味がするんだ」
「同じ首都でも我が国とはだいぶ異なるのね。この雰囲気を五感で感じ取ってから、我が国の読者にも伝わるよう翻訳を工夫しないと」
首都での滞在先はもちろん小説に出てくる場所だった。ちょっぴり高級でおしゃれなホテルで、小説では主人公とヒロインが出会い、美しい思い出を作る場所だ。ホテルのフロント、レストラン、客室などの描写は本物と一致した。
彼女たちはツインルームに泊まった。エディターはこれからの旅程を再確認した。
「ところで、ライターには会いに行かないの」
「え?」
「だってこの首都で働いているんでしょう。出版社に行って、◯◯通信の記者で取材したいって言えば、もしかしたら会わせてくれるかも」
エディターは「とんでもない」と言い、胸の前で両手を大げさに何度も振り、顔を真っ赤にした。手の動きをやっと止めると、絞り出すような声でこう言った。
「わ、私ごとき一読者なんかにその資格はないわ」
「一読者じゃない、あなたは彼の世界一のファンよ。陰で彼のことを応援し、彼の作品を一途に翻訳し、それ自体を喜びとし他に見返りを求めないような人がいることを知れば、彼はきっと感動するはずよ。もし自分じゃ恥ずかしいなら、私が出版社に行って話をつけてもいいのよ。せめて気持ちだけでも伝えないと」
「余計なことはしないでちょうだい」
ポエムは彼女が怒鳴るのを初めて見た。
「私なんかが彼の貴重な時間を無駄にするなんて犯罪よ。私に会う時間があるなら執筆に専念してほしい。それに私たちファンだって作家本人に会うよりやるべきことがある。例えば新作を買い、ネットで高評価し、SNSで宣伝し、周囲の人に購入を薦める。私みたいに翻訳ができるなら、別の国で翻訳出版を目指し活動する。翻訳家としてはより良い翻訳を目指す。作家と同じものと接し、作家と同じように考える。作家の文体に慣れ、それに最もふさわしい母語で訳出する感覚をつかむ。イタコの口寄せのように、憑依は苦しく時間がかかるけど、神の魂の一部を我が身に乗り移らせ、支配されることで、また神に一歩近づき、訳文にその魂がこもる……」
首都での旅を終えた二人は長距離列車で田舎町に移動した。車窓から彼の国の田園風景を眺めながら、エディターはふとこう聞いた。
「そういえばポエムってどうしてうちの会社で働いているの?」
「みんなそうだと思うけど、私もお金のため」
ポエムはリポーターたちと同様、帰国子女だった。彼の国語の日常会話は難なくこなせるので報道部に配属されたのだった。
「実はお父さんが彼の国に駐在中、ギャンブルにハマって、会社のお金を使い込んじゃったの。それがバレて我が国に逃げ帰ったんだけど、悪い癖は抜けず、借金だらけになって夜逃げして。お母さんは愛想をつかして離婚し、私はお母さんについていった。ずっと貧乏で、給食の余ったパンとかをこっそり持ち帰ったりした。だから私は、借金取りや友達との急な別れに怯えなくてもいい、安定した暮らしが欲しいの」
田舎町に到着した時はもう夕方だった。その駅で降りた乗客は彼女たちだけだった。駅前には何もなく、ただ未知の大地が周囲に広がるだけだった。畑、山、鉄塔、森、レール、道路。道標や目印となるものが何一つなかった。「カァ」というカラスの鳴き声だけは万国共通だった。
「ほんとにここで降りてよかったの?」
「ええ。だってここがライターの故郷だから」
「ホテルとか見当たらないけど、どこに行こうか?」
「……たぶんこっちだと思う」
エディターは「たぶん」と言った割には確かな足取りで先を歩いた。ポエムは、彼女には何かが見えているのだろうと思い、黙って後に続いた。思えば旅が始まってからずっとこんな調子だった。
車通りの少ない道を十五分ほど歩き、ようやく山の麓に町が見えてきた。人家に灯がともり、柔和で温かな光が広がる。煙突からは炊煙がゆらゆらと立ち昇り、風に吹かれ、夕焼け空にたなびく。町が近づくにつれ、外遊びをする子供たちの歓声、家族の帰りを喜ぶ犬の鳴き声が大きくなり、それらと夕飯の匂いがつくる生活感が漂う。人が集まる所はどこも同じ。旅で頼りない気持ちになっていたポエムはようやく人心地がつき、ほっと大きく息を吐いた。
「さぁ、あそこよ」とエディターが言った。
一週間の連休はあっという間に終わった。
温泉に入り腰の痛みが抜けたかと思いきや体が冷えると前と同じく痛むのと同様、好きなことに打ち込んだ七日間でリラックスできたかと思いきや職場に戻るとストレスが再発し、顔が曇るのだった。
エディターはいつもの仕事に戻った途端に嫌気が差した。またもや浮ついた、軽い、スポンジよりスカスカなオンライン小説の翻訳。それはライターの足跡をたどり、創作の秘密に迫った旅の充実感とは正反対だった。こんな駄文を翻訳すれば自分の感性が鈍り、文章表現が下手になり、神から遠ざかるのではないか。彼女はもうこんな職場にしがみつくのは諦め、大手出版社の編集者を目指す方が、夢の実現に近づけるのではと考え始めた。
彼女と異なり、ポエムは現状に満足していた。自分から辞めない限り続けられる仕事。定時出社定時退勤。不味いが安い社員食堂。職場で出会った頼りになる友。
「転職なんて早まっちゃダメよ。業界未経験で若くもないあなたが編集者になれるとは限らないし、なれたとしても好きな本を翻訳出版するような職権濫用は許されないわ。それよりもまだこの会社でチャンスを待つほうが賢明よ。今できることを考えましょう」
職場でできることはなさそうだったので、エディターは帰宅後、久々に創作に取り組んだ。嬉しいことに、彼女は自分の文体が仕事よりもライターから多く影響を受けていることに気づいた。適当にこなす仕事よりも本気で打ち込む趣味。彼女は家での時間を大切にし、毎日こつこつ小説を書き、賞に応募した。が、いずれも落選だった。それでもめげずに書き続けた。ライターのため、いや、いつしかそれは自分のために。
望まぬ日々を送る不遇な人々のために。
エディターたち同期の五人は、自宅と職場とあるいは取材先の間を効率よく行き来することに慣れ、時間の感覚を失った。不服、不満、疑問に目をつぶり、恵まれた環境への感謝を忘れ、惰性で生き続けた。毎日何事もなく過ぎていき、それを当然と思うようになり、アクシデントを嫌った。飲み会という事前に計画された、非日常を楽しめる集まりだけは、頃合いを見計らって開かれた。二回、三回、四回と開くうちに季節が移り変わっていった。
福音は忘れた頃に訪れる。
ある日、エディターはいつものように出社し、パソコンを立ち上げた。◯◯通信の海外出版担当部署の社員から、ずいぶん前に彼女が送ったメールへの返信があった。彼女からの推薦を受け社内で慎重に検討した結果、ライターの代表作である処女作を我が国で翻訳出版することを決めたというのだ。
「著者と連絡を取り、あなたのことを伝えたら、ぜひあなたに翻訳してほしいとのことでした」
絶叫。三階の社員全員が、「やった、やった」と連呼し、歓喜の涙と鼻水とよだれを流す女性を心配そうに見守る。騒ぎを聞きつけ二階からも人が来た。その中にポエムを見つけると、エディターは駆け寄り、ひしと抱きついた。
「神が、ライターが、私を……あぁもうこの瞬間に死んでもいい!」
彼女はそう言い放つと窓辺に駆け寄り、ひざまずき、天に祈りを捧げ、そのまま卒倒した。
話はだんだん具体化していった。サイトや雑誌に連載するのではなく、我が国の有名な出版社と協力し単行本にする。翻訳者はエディターで、印税も入る。それに先立ち正しい声社でもライターを独占取材する。インタビュアーはもちろんエディターだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。私は取材の経験がありませんし、無理です」
彼女はなんと、神と直に接する機会を拒んだ。それは余りに恐れ多く、考えるだけでも罪だった。彼女の意志が固いと見て、文化課の課長は報道部と交渉し、代わりにポエムに行かせることにした。
「本当にいいの?」
「あなたのほうが会話力が上だから適役よ」
「つまらない質問をしちゃうかも」
「いいからいいから」
ポエムはエディターのファンとしての信条をよく知っているので、それ以上聞かなかった。
ライターの自宅は彼の国の首都郊外の閑静な住宅街にあった。一戸建てで、こじんまりとした趣味の良い庭が付いていた。ポエムは約束の時間に訪問し、インターホンを鳴らした。ドアを開いてくれたのはライター本人だった。数年前に撮られた写真より渋く、精悍な顔つきになり、作家としての成熟と充実ぶりが伺える。しかも有名人にしては腰が低く、遠方から来た記者を丁寧に招き入れ、お茶まで淹れてくれた。ポエムは、そのどれ一つでもエディターには耐えられまいと思った。
エディターに事前に話したように月並みなインタビューになった。ライターは、自分の作品が我が国で出版され、一人でも多くの読者を獲得することを願うと述べた。
インタビューが終わると、今度はライターがポエムに質問をした。仕事内容、趣味、我が国のオススメの料理やスポット、我が国で最近人気の本や映画。作家という仕事柄、あまり人と話をする機会がなく、寂しい時もあるそうだ。
「滞在はいつまでですか?」
「一泊し、明日帰国する予定です」
「じゃあ今夜は時間がありますね。よかったら打ち合わせを兼ねて外で一緒に食事しませんか」




