精神錯乱
早いもので、同期の五人が入社してからもう半年になる。その間に新たに入ってきた社員は少ない。離職する人がほとんどいないからだ。
「正しい声社」で働く人の誰もが訳ありだった。ここにたどり着くべくしてたどり着いた、社会のレールから外れた変わり者ばかりだった。居心地は決して悪くなかった。ここに居られるうちは居ようという共通の心理があった。
ニュートラルの一家は朝も必ず三人で食事をする。テレビのチャンネルはニュースに合わせる。彼は忘れていたが、今日から我が国にしかない一週間のゴールデンウィークで、観光地が賑わっているらしい。
「そっか、今日は学校じゃなかったんだな」
「友達が海外旅行するんだってさ。うらやましいなぁ」
「うちはお父さんもお母さんも仕事だから、ごめんね」
「どうしてうちばっかり?」
「ほらごらん」と妻は息子に言い、テレビ画面を指さした。
「休める人がいるのは働いている人がいるからよ。お母さんのスーパーだってそう。休んだら食べ物が買えなくなるでしょ」
「ほんとだね。でもお父さんの仕事は?」
それは妻にとっても疑問で、二人揃ってニュートラルの顔を見る。
似たようなものだ、とは言えなかった。彼らが働かなかったところで困る人はいない。手応えのない空虚な仕事。彼は「給料をもらうためだから仕方ない」と答えるしかなかった。
電車の中はいつもと様子が違い、全国各地から来た観光客が多く、行楽ムード一色だった。会社の中にいると気づかないが、ニュートラルたちは我が国の社会からしっかり隔離されている。彼は一抹の寂しさを覚えた。周りの人々と共に同じ何かを祝い、喜べない。彼の国の祝日で休みになり、家で留守番をした時もただ虚しいだけだった。
節電で薄暗い会社に入るとようやく落ち着いた。ここはいつも変わらない。我が国で何が起きようとマイペースで、我が国の人々の気持ちなどまったく考慮せず、ひたすら彼の国の正しい声を伝える。彼の国でめでたいことがあれば盛大に祝い、彼の国の政界要人が亡くなればかしこまって追悼の意を表す、ふりをする。
この会社に長くしがみついていると我が国のすべてが他人事になってしまうのだ。
それではいけないと思ったのか、ニュース課で二年ほど働いていた社員が先月いっぱいで退社した。代わりに新しい社員が入ってきた。新しいと言ってもニュートラルと同じぐらいの年齢の女性で、まだ会社に馴染んでいないのでやや挙動不審に見える。
「ノーマルです。よろしくお願いします」
課長の指示で、ニュートラルが彼女に仕事の引き継ぎを行った。今度からは彼女がテックニュースを担当し、彼は辞めた社員の穴埋めで政治と社会を翻訳することになったのだ。
「えっ、でも私は文系で、科学と化学の違いも分かりません」
「私なんか遺伝子とゲノムの区別もつかず記事を翻訳してたよ」
昼休みのチャイムが鳴った。二人は自然な流れで一階の社員食堂に下りた。ランチはやはりAが売り切れで、B、Cの二択だった。
「Bのほうがまだ食えるよ」
二人はテーブル席で向き合い、食べ始めた。
「ノーマルはどうしてこの会社に?」
「もともと主婦で、副業で翻訳をやっていたんですけど、夫と離婚して、それで……」
「お子さんは?」
「残念ですが、私の収入が少ないから、夫に引き取られてしまいました」
「おっ、他の人と食事なんて珍しいですね」
クラシックはニュートラルの隣に座った。
「またCになっちゃったね」
「このあんかけの味、意外とクセになりますよ」
ニュートラルはクラシックにノーマルを紹介した。
「しかし長い主婦生活からの社会復帰は大変だなぁ」と、ニュートラルが言った。
「はい。子供だけが生き甲斐でしたので……」
三人は子育てという話題で盛り上がった。年長者の二人はクラシックに、今が一番手がかかるが、そのぶん子供の成長を日々実感できて楽しいと言った。
「それはそうなんですが、心配事があって」
「どんな?」
「妻が彼の国人だから、我が国の常識が分からないんです。それでよく幼稚園の方から電話がかかり、子供の服装、持ち物、マナーなどで細かいことを言われ……」
「我が国人だって合わせるのは難しいぐらいだから無理もないわ」とノーマル。
「妻のことは愛してますけれど、郷に入っては郷に従えで、少しは我が国の暮らしに馴染み、我が国の習慣を身に着けないと。今はまだ幼稚園だからいいとしても、小学校に上がれば娘が変人扱いされ、いじめられることが心配です」
Cランチをぺろりと平らげたクラシックは早めに席を立った。書く記事が溜まっていて、なかなか忙しいそうだ。
「ニュートラルはお子さんは?」
「もうすぐ中学生だ。思春期前でまだ素直な子だよ」
「今のうちだけですよね。反抗期になって、中途半端に知識をつけると、親の言うことなんか聞く耳を持ちませんから」
午後は早速、課長から社員たちに本日の原稿が配られた。ニュートラルの顔が自然と引き締まる。今まではごまかしながら翻訳してきたが、今度からそんな甘えは許されない。昔ある若く気骨のある社員が、彼の国のふざけた主張をすべて訂正し内緒でアップしてから、チェック体制がいっそう厳しくなっている。意図しない誤訳であっても、内容によっては一発でクビになる可能性さえあるのだ。
想像したように、テックニュースとは比べ物にならないストレスとプレッシャーだった。まずは原文の内容の把握。我が国ではなく彼の国の人間として読み、理解し、そういう考え方もできるのかと一応は納得する。次に、その内容を我が国語に置き換える。その際に要約や省略は許されない。これは実に苦痛な作業だ。「一応は納得」したとは言え、我が国への誹謗中傷を我が国語で書き出すと、タブーを犯したような、我が国人の公敵になったような罪悪感が生まれる。
ニュートラルはついつい、毒々しい痛烈な表現をマイルドに訳出し、メールで課長に提出した。
約三十分後、彼は課長に呼び出された。
「いけないじゃないか、きみ」
課長はさっきの部分を決して見逃さなかった。
「あんなひどい書き方をしたら誰も読んでくれませんよ」
「読んでもらうことより、そのまま正しく伝えることが大事なんだ」
「はぁ」
「それに我彼とはどういうことだ?」
我彼とは「我が国と彼の国」の略語だ。
「我が国語で我が国人向けに発信するのですから、我が国の習慣に従うのは当然かと」
「だが原文では彼我と書いてあるではないか。原文に従いなさい」
「我が国の読み手の気持ちは考えなくてもいいということですね?」
「きみは余計なことを考えずそのまま中立的に翻訳すればいいんだ」
そんなのどこが中立的なんだ、とニュートラルは思った。彼は我が国人としての良心や常識に逆らい、非情に徹しつつ、「彼我関係」というこの世に存在しない我が国語で訳出した。
夕方、彼はサイトにアップされた記事を読んだ。喜びは一切なく、こんなものを世に送り出してしまった恥しかなかった。自分が見てもひどい記事を、ひどいと知りながら公開する。「自分がやられて嫌なことは人にもやるな」という人類共通の精神に背き、人の所業とは思えなかった。
退勤時間になり周りの社員が続々と後片付けを始めても、ニュートラルは自分の席から立ち上がることができなかった。体の芯の部分から疲れがどっと吹き出した。方向を見失ったかのように頭の中がグルグルした。
「どうかしました?」と、ノーマルが帰りがけに聞いた。
「慣れない仕事でちょっと疲れただけさ」
「私もです。ニュートラルはいつも私の三倍も翻訳してたそうですね。早く戦力になれるようがんばります」
彼はいつもよりやや遅め、八時過ぎに帰宅した。
「今日も食事が先?」
「疲れたから風呂にする。先に食べてていいよ」
妻も息子も待っていてくれた。ニュートラルはパジャマに着替え、ビールを一気に飲み干し、そこにいつもの家族がいるのを見ると、不覚にも涙を流してしまった。
「ゲホゲホ!」
「ゆっくり飲んでちょうだい」
彼の気持ちなど知らず、息子と妻は今日あったことを報告した。息子は学校で歴史の授業が始まったそうだ。彼は急に元気と希望を取り戻し、
「先生の言うことを聞き、しっかり勉強しなさい」と言った。
パート先で頼りにされている妻は、教育中の外国人のアルバイトについて話した。髪や目や肌の色が違っても同じ人間で、一緒に仕事をしていると自然と仲良くなるという。
「彼の国人もいるんだけど、テレビで見るより普通で驚いたわ」
「そうなんだよな。実際に交流したり、彼の国に行くと分かるんだけど」
「彼の国の対外的な印象が悪いだけなのよね。彼の国の政治家が最近、我が国の禁輸措置を批判したでしょう。店長がその件で彼の国の子を問い詰めたら、ぼくら庶民は関係ありませんって」
ニュートラルは、自分の仕事は我が国在住の彼の国人の立場を悪くするのだと思い、胸がチクリと痛んだ。
平日だというのに彼は珍しく深酒した。飲むほどに頭が冴え、自責の念が強まっていった。今日の訳文が次々と浮かび上がった。祖国を痛罵した後味はほろ苦かった。
「あなた、いい加減にそろそろ寝たら?」
「すまないけど少し放っておいてくれ」
テックニュースと違い、ニュートラルが政治と社会の翻訳にすぐに慣れることはなかった。彼は研修でマスターに言われたことを思い出した。中立的。今の彼にはそれが、しがみつける浮き輪とは思えなかった。
苦しい日が続いた。毎日翻訳する記事の半分は我が国批判、残りの半分は彼の国礼賛。踏み絵を嫌々踏みながら、踏ませている人を褒め称える日々。ニュートラルは歯を食いしばり耐えた。家族のために仕事を辞めるわけにはいかなかった。
彼が初めて彼の国語に接したのは中学時代だった。国語の先生が映画マニアで、昼休みに空いている教室を使い、好きな映画を上映した。その中にはテレビではめったに見ることのない彼の国の作品もあった。ニュートラルはその摩訶不思議な文字の形、聞き取れないが耳に快い言葉に惹かれた。彼の国の人々がそれらを使い育んだ文化、築き上げた生活にも興味を持った。
その後、彼は大学で彼の国語を専攻した。彼には、彼の国語には我が国語にはない率直さがあり、それが礼儀を重んじ体裁を先に整えようとする結果、何が言いたいのかよく伝わらなくなる我が国語より優れているように思えた。
大学在学中には彼の国に留学した。大学の教員、学生、周辺コミュニティの住民の皆が歓迎し、やさしく接してくれた。今でも連絡を取り合う友人ができた。一年と短い留学期間だったが、彼の国の大学は第二の故郷になった。
ところが今や彼は彼の国語を使い仕事をするのが少しも楽しくなかった。彼の国語の独特な表現やことわざを駆使した、我が国を批判する記事を自分の手で直訳すると、あんなに大好きだった彼の国語が醜く見えた。自分はこんな汚らわしい我が国語を生み出すため彼の国語を学んだのだろうか。それとも彼の国の親切な人々のイメージを落とすため?
ある日課長から送られてきた原稿に彼は激怒した。
数日前、首都から遠く離れた彼の故郷で、我が国では非常に稀な大震災が発生した。政府も災害対策当局も、この未曾有の事態への対応に追われ、大わらわになった。友好国が続々と我が国に緊急援助を申し出た。普段は敵対しているいくつかの隣国も寄付金や救援物資を集めてくれている最中だ。そんな中、彼の国だけは沈黙を守っていた。
昨日、痛ましい事故が発生した。生存者救出のタイムリミットとなる七十二時間が迫る中、救助隊が半壊した建物に突入したところ強い余震が発生し、建物が崩落し、被災者と隊員の全員が死亡した。その中にはニュートラルの小学校の級友も一人いた。
彼の実家も被災していた。年老いた両親は避難所で慣れない不便な生活を余儀なくされている。今は悪質なインフルエンザが流行する季節で、すでに避難所では災害関連死が出始めているという。父からはこんなメッセージが届いた。
「老い先短いのに家を失うとは思わなかったよ。これからわしらはどこで、どう生きていけばいいのだろうか」
ニュートラルは本日の原稿を読みながら、怒りや悔しさが極まり、涙を流した。原稿の要旨はこうだ。
震災が珍しく経験が乏しいとはいえ、今回の事故は天災ではなく人災である。にも関わらず我が国政府はメディアを煽り、隊員たちを英雄や殉職者と表現し、美談にしている。我が国政府がこのような体質では今後も同じような犠牲者が増え続けるだろう。人道的見地から、防災力が世界トップレベルの彼の国は一流の救助隊を我が国に派遣し、現地の人命救助活動を指導してやったらどうか。我が国はそれを素直に受け入れ、彼の国の善意に感謝すべきである。
ニュートラルは机をバンと叩き、周りの社員たちを驚かせた。彼は真っ直ぐ課長の席に向かい、「どういうつもりですか?」と聞いた。
「なんのことかね」
「とぼけないでください。私に送った原稿のことです」
「震災に関する本社の社説だね。あれが何か?」
「あんな書き方、あんまりじゃないですか」
「いつも通りの平常運転ではないか。きみは感情を交えず粛々と訳せばいいのだ」
「私はロボットではありません。私の知り合いが死に、家族が苦しんでいるんです。私にあんな記事は翻訳できません」
「きみがやらなければ他の者にやらせるしかないが、それでもいいのかな?」
他の社員はニュートラルに深海魚の白濁した目をぎょろりと向けた。
「老婆心から言っておくが、本社の指示に従えないとなると、きみの評価に響くからな」
今クビにされては、これから仕送りが必要になる両親を支援できない。彼は拳をぎゅっと握りしめ、「すみませんでした。私がやります」と答えた。
原稿を無理やり翻訳すると、彼の頭の中に毒虫が湧き、増殖し、脳を侵食していった。めりめりめりと音が鳴り、脳がスカスカになり、脆くも崩れ去った。それは朽ち果てた木と同じで、元通りになる見込みはなかった。
「ひ、ひひひ、ひひ……」と、ニュートラルの歯の隙間から笑い声が漏れた。訳文を課長に送ると、彼は机に打っ伏し、肩を震わせて泣いた。
涙が収まると彼はドリンクバーを利用した。死んだな、これで終わりだな、と思った。
「ニュートラル、だいじょうぶですか?」
振り返るとノーマルがいた。
「さっきの記事、読みました。辛かったでしょう」
「私は、人として最低なことをしてしまった」
「……生き方は人それぞれですから」
ノーマルはココアを作り、ニュートラルに手渡した。
「甘いものでも飲んで、心を落ち着けてください」
残りの原稿をどう翻訳したかは覚えていない。ニュートラルは帰りの電車で空席を見つけ、腰を下ろした後、ぴくりとも動けなくなってしまった。危うく降りる駅を乗り過ごすところだった。
帰宅すると浴室に直行した。最近はいつもそうで、妻ももう「どちらが先?」と聞かないようになっていた。それでなんとなく、家全体の雰囲気が暗くなった。
夕食中、息子は言葉数が少なかった。親に大切な話があることを知っていたからだ。
「実家のほうはどう?」
「相変わらずだ。まだ電気も水道も道路も復旧していない。父さんや母さんは今頃、真っ暗な体育館で何を食べているんだろうか。おれは実家がピンチだっていうのに、首都でのうのうと暮らしていていいのだろうか」
「テレビで言ってたけど、無秩序にボランティアが殺到してもかえって迷惑だそうよ。それよりも私たちは今できることにしっかり取り組まないと」
今できること? 会社の仕事? ニュートラルはまた感情の抑えを失いそうになった。
「ところで店長がまた彼の国人の子に嫌がらせをしたの。まったく見てられなかったわ」
「どうしたんだ?」
「いま話題になってるニュースがあるでしょう」
「いや、知らないな」
すると妻はスマホを操り、ポータルサイトのトップページの記事を彼に見せた。それは彼がさっき翻訳したもので、我が国の各メディアによって転載されていた。彼の記事がバズったのはこれが初めてだった。
「本当にひどい記事だと思うけど、バイトの子に当たっても始まらないわ。悪いのは書いた人なんだから」
「……」
いつもより早めに食べ終え、ベッドに横になったニュートラルは、恐る恐る自分のスマホでネットユーザーのコメントを見た。
「彼の国の連中はいったいどういう神経をしてるんだ」
「窮地に陥った人の傷口に塩を塗るなんて」
「自然な文章だけど、まさか我が国人が翻訳したのか」
世間の彼の国への反感が高まった。その影響を最も受けやすかったのは子供たちだ。彼らは学校の先生、インターネット、テレビなどからの情報を鵜呑みにした。
「ねえお父さん、彼の国って本当にクソなんだね」
息子の口からそんな汚い言葉を聞くのは初めてだったが、ニュートラルには痛快だった。
「そんなこと言わないの。中にはいい人だっているんだから」と妻が擁護した。
「だって我が国のことをバカにしてるんでしょう。許せないよ」
「その通りだ。絶対に許してはならない」
「ちょっとあなた」
「災害で多くの人が死んでいるのにそれをあざ笑う連中はゲスだ」
「そうだよ!」
「我が国は彼の国に屈してはならない。言論でも外交でも武力でも、決して彼の国に弱みを見せてはならない。そのためにお前はどうすればいいかな?」
「いっぱい勉強して彼の国に騙されないようにする。いっぱい運動して体を強くする」
「素晴らしい。しかし最も重要なことを忘れているな。それは我が国を愛することだ」