我が神、我が聖域
エディターは定時退社し、まっすぐ帰宅した。
今日も忙しい日だった。彼女のように小説を趣味で翻訳していた人は珍しく、先輩社員の全員が経験無しだった。小説を一冊読み通したこともないような人までいた。
文化課のオンライン小説担当者たち四人は、訳文の統一化を図るため定期的にミーティングを開いた。その中でエディターはいつの間にかリーダーになっていた。新入りとはいえ、年齢も三十代前半と最年長だった。彼女は人生で初めて輝きを放ち、頼りにされた。
「エディターって本当にすごいのね」
「こんな自然で素晴らしい表現を思いつけるなんて天才だな」
彼女は学生時代から住み続けている古いアパートの二階の部屋に帰った。楽な部屋着に替え、氷を入れたコップに酸っぱい炭酸飲料を注ぎ、粗末なデスクチェアに座る。パソコンを立ち上げるのではなく、デスクの本棚からボロボロになった本を取り、開く。ページには蛍光ペンや赤ペンでびっしり書き込みがされている。彼女はそれを左に、ノートを右に、電子辞書を奥に置き、ペンを取る。数分もしないうちに彼女は慣れ親しんだ世界に溶け込む。自分の愉しみのため翻訳をする至福の時が訪れる。
彼女はもうこの三百ページもある本を二回通して翻訳している。初めてこの本に出会ったのは大学時代だった。彼の国文学を専攻する彼女は勉強のため、彼の国の同世代の人々が書く純文学を読み漁った。彼の国の一部の若い作家は我が国と同じく、自身の暗い体験(たいていは学校でのいじめや家庭での虐待)に基づく、被害の描写だけ過度に細かい私小説的なものばかりを書き殴り、あまり感心しなかった。
しかしそうでない作家もいた。特に彼女が傾倒しているライターは鋭い感性と知性で彼の国の現代社会で生じている問題の核心をえぐり出し、それを皮肉が効いた軽妙な筆致で寓話的に表現し、一つの面白い物語に仕立て上げることに長けている。その社会で弱くも必死に生きる人々に温かい目を向け、そっと寄り添うことも忘れない。彼女は彼の意欲的な処女作に魅了された。卒業の記念に翻訳してみようと思った。
翻訳を進める間、彼女はライターの情報を集めた。新進気鋭の作家として彼の国ではすでに有名だった。自分よりいくつか年下の男性で、なかなか端正な顔立ち。ブログやSNSは使わず、新刊発売前にごく稀にメディアの取材に応じる程度で、謎に包まれている。
彼女は彼の私生活に迫ろうとは思わなかった。先に創作者の人間的な癖や政治的傾向が鼻につくと、作品そのものを楽しめなくなることが多いからだ。彼女は一読者と一作家の距離を保ちながら、彼の考え方やプライベートを想像するだけで満ち足りた。
彼女はまだ、ライターを神として崇めていることを自覚していなかった。
卒業前に順調に翻訳を終え、なんとか就職先も決まった。彼女は大学生活に別れを告げるように、その本を目につかない所にしまった。
最初の職場は大きな工場だった。彼の国との取引があるので、彼の国語ができる通訳が必要とされた。最終面接を担当した工場長は「若いからなんとかなるだろう」と言った。実際にはそうならなかった。
通訳者とは外国語さえできれば誰でもなれるものではない。立場も考え方も利害も異なる双方の間に立ち、その円滑なコミュニケーションを図るなど、人に自分から話しかけることさえできないエディターには土台無理な話だった。それに彼女は新人で、製造業に関する知識がなく、我が国語でも理解できない専門的な話を通訳するなど到底不可能だった。
工場長に最後にかけられた言葉は、「きみは何を考えているか分からんな」だった。その通り。彼女は工場の仕事についてなどこれっぽっちも考えたことがなかった。
工場長から見放された彼女は事務棟の片隅に追いやられた。たまに文書の翻訳の仕事があるだけの閑職。通訳としての仕事ができないのに待遇はそのまま。当然、他の社員は面白くない。彼らは裏で彼女の悪口を言い、次第にエスカレートし、面と向かって言うようになった。
「いつまでこの会社に残っているつもりかしら。図々しい」
彼女には、すぐに会社を辞めれば転職の時に悪印象という思惑があった。だからしばらく我慢しようとしたのだが、工場長は彼女の代わりに新たに通訳を雇った。彼女の失敗を活かし、実務経験を持ち、押しが強い性格の、真夏の太陽のようにギラギラした女性だった。彼女はその女性の眩しさと熱に耐えられず、溶けてしまう前に逃げ出した。
坂を転げ落ちるように職を転々とした。待遇はぐんぐん悪化し、いつでも切られる派遣社員になった。時おり「彼の国の文学を専攻して何になる?」という、不採用になった会社の面接官の言葉が頭をよぎった。
彼女は久しぶりにあの本を取り出した。本の丁寧な書き込み、ノートの幼稚だが熱意あふれる訳文を見ながら、彼女は昔の自分が輝いていたことに気づいた。自分の本領を思い出した。彼女はたまらずペンを手にし、ノートに訳文を書いた。するとどうだろう。大学時代よりも上手に翻訳できるではないか。
本の世界により没入することで、自分の価値を認めてくれない社会から目をそらす必要があった。
その世界を創り出したのは紛れもなくライター。彼は彼女に居場所を作ってくれた。その作家の声をもっと広く我が国の、自分と同じような境遇の人々に届けたい。それが彼女の新たな生き甲斐になった。
派遣で働きながら、彼女は例の作品の翻訳をやり直した。ノートに手書きし、それをパソコンに入力し、原文と画面を比較し誤訳をチェックしてから印刷し、赤ペンで誤植を修正し我が国語表現を工夫し、さらに大学時代の訳文と比べ相互補完し、もう一度パソコンに清書する。一年ほど放置し、この新しい訳文を見つめ直し、訂正を加える。最後に、久しぶりに大学の恩師にメールで連絡し、監修を依頼する。教授はざっと目を通した後、彼女を大学の教員用の食堂に呼び出した。
「せっかく素晴らしい訳文ができたのだから、出版とかは考えてないのかね?」
「え、いえ、その、そんなだいそれたことは……」
教授は彼女があてもなく取り組んでいたことに呆れ、「私が代わりに出版社を当たってみよう」と強引に持ちかけた。
そうは言ったものの教授は忙しいのか、なかなか彼女に結果を報告してくれなかった。彼女はただ期待しながら待った。
数カ月後、教授からは「私の知り合いがいる、ある出版社なら出してもいいとのことだった」という主旨のメールが届いた。それは本好きの彼女も聞いたことのないような小さな会社で、たとえ出版にこぎ着けた所で反響は得られそうになかった。それではライターとその傑作に申し訳ない。
彼女は意を決し、「私の方でも当たってみます」と返信した。
こうして彼女の出版という夢を抱く日々が始まった。彼女は働きつつ大手出版社をめぐり、困惑する担当者に訳文を押し付けた。会社の面接の時よりも念入りに準備し、自己紹介よりも詳しく、よどみなく作品のことを紹介した。返事がなければ何度でも訪問した。ほとんどの人から相手にされなかったが、一人だけある意味親切な担当者は彼女にこう言った。
「彼の国の現代小説なんて売れっこないのさ。逆に専門のあなたに聞くが、近年我が国で最も売れた彼の国の翻訳小説を挙げてほしい」
皆無だった。
「話題性がなく、売れる見込みもない本を出すわけにはいかない。慈善事業じゃないんでね」
「じゃあどうすれば……」
「例えばその作家が反体制派だったり、我が国に都合のいい友人の場合は話がだいぶ変わってくるな」
「いえ、その本の作家は彼の国を愛しています」
「それじゃあ翻訳家のほうにネームバリューがあるかだ。有名人だったり、人気作家だったり」
その日から彼女は作家になることを志した。
他人の小説を何度も本気で翻訳するという、作家になるためには最高の修行を思いがけず行っていた彼女は、すでに自分で書く力を手にしていた。習作としていくつか自伝的なものを書いた後、彼女は本格的に自分の創作を開始した。読む人が読めば素晴らしい作品が次々と仕上がった。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる的に、彼女は聞いたことのある新人文学賞に何度も応募した。が、良くても一次選考どまりだった。
そこで彼女は手段を変え、また出版社が集中するオフィス街に戻った。自費出版を除けば、持ち込みの原稿を受け付けている所はなく、門前払いを食った。
失望した彼女は街の中をさまよった。また書けばいいではないか、いつかは人気作家になれるかもしれないではないか。でもそれはいつ? 時間は無駄にできない。人類にとって不滅の価値を持つ作品の紹介は一日も早い方がいい。私はそのためにすべてを、魂さえも捧げなければならないのだ。
ふと、彼女の耳に彼の国語が入った。聞き間違いではないかと思ったが、明らかに彼の国人と思われる男性と女性が話をしながら歩いていた。彼女はなんとなく、導かれるようにして彼らの後を追った。彼らは大通りから暗い裏通りに曲がり、薄汚れた背の低いビルに入っていった……。
「エディター、聞いてる?」
「え、えぇ。ですからこのオンライン小説の作家の個性を考えるならば、我が国語には例えば、こんな風な文章に翻訳すればいいと思います」
「本当だ、すごく感じが出ている」
「これで随分よくなった。ありがとうエディター!」
ミーティングが終わり自分の席に戻った後、彼女は自嘲した。あんなことを言いながら、サイトで連載中の小説の作家を心底バカにしているくせに、と。
彼女は今担当しているような小説は翻訳したくなかった。ネットで更新という性質上、原文は洗練されておらず、冗長で、お粥のように薄味だ。地の文がなく会話ばかりで、行数で原稿料が決まるのではと疑うほど改行が多い。読み手も書き手も不真面目な、ただ暇つぶしに書いては暇つぶしに消費されるだけの、誰に何の印象も留めない空気のような小説。
こんなものよりライターの作品を取り上げればいいのに。
エディターがこの会社に入社したのは、職権濫用とばかりに彼の小説を紹介し、あわよくば自分の翻訳で出版してもらうためだった。
彼の国は近年、対外プロパガンダの一環として、彼の国を代表する文学作品の海外出版に力を入れている。実際に◯◯通信の担当部署は我が国の大手出版社と提携し、ライターではない別の作家の代表作を初版で一万部も出したことがある。売れ行きはさんざんだったが、彼の国側はまったく諦めておらず、次の出版を検討している。
エディターは◯◯通信の担当者にライターを推そうとした。彼女は食堂でさっさと昼食を取ると席に戻り、ライターの紹介と作品の魅力を短い文章にまとめ、担当者にメールで送った。
「彼の作品ならば我が国の人々の心に響き、彼の国に親近感を持つようになるはずです」
午後も小説の翻訳に励んでいると、背後から「あの、すみません」という蚊の鳴くような声がした。振り返ると見知らぬ女性が立っていた。
「報道部のポエムといいます。あなたがエディターですね、噂には聞いてますよ。小説の翻訳がとてもお上手だって」
「いえ、そんな……」
「わたし今度から、彼の国の本の売れ筋ランキングと、各作品の内容紹介をすることになったんだけど、実は彼の国の本なんてぜんぜん読まないから困ってたの。それでネットの情報を参考に一応、原稿を作ってみたから、エディターにチェックしてもらえないかなぁって」
エディターはジャンルを問わず、彼の国のベストセラー本ならほとんど目を通しているということで、報道部でも知られているそうだ。
エディターはメールで送られてきたその原稿を読ませてもらった。ランクインした本を実際に読まなくても、彼の国語のあらすじを我が国語に翻訳するだけでいいはずだが……
「これでは我が国ではなく、彼の国の読者向けの紹介になってますね。ややお堅い感じで、セールスポイントもズレている気がします」
「そう、それで困ってたんです」
「ちょっと待っててください」
ライターの作品を我が国の読者に紹介する時の練習になると思い、エディターは熱心にキーボードを叩き、容赦なく修正を加えた。それはみるみるうちに、我が国の書店の熱心な店員が書いたような、キャッチーな文章に変わっていった。
「わぁすごい! これならバッチリですね」
それからポエムはよく文化課を訪れるようになった。報道部の花形は政治や経済の記者で、文化関連の記事や取材はポエムのような、自分から仕事を取りに行かない地味な人に回ってきた。
「でも私、彼の国の文化なんてちんぷんかんぷんなの。これから色々教えてください!」
ポエムはエディターが社会人になってから初めての友達になった。仕事中の関係に留まらず、プライベートな時間も共に過ごすようになった。二人は趣味、性格、波長などが一致し、一緒にいて無理なく付き合えた。年齢はポエムの方が八つほど若く、ぱっと見ると二人は姉妹のようだった。「妹」の方がルックスが上だったが。
ポエムは我が国の漫画やアニメを好んだ。イラストも得意で、会社のさまざまな人の特徴をつかみ、似顔絵にすることができた。絵が上手ならば漫画を描きたかったエディターには、ポエムが貴い才能を持っているように見えた。
「エディターは、おすすめの作品とかってある?」
彼女はこの人ならばと思い、ついに他者を自分の聖域に招き入れた。ポエムはエディターの敬虔ぶりに打たれ、「あなたがそんなに言うのなら、私も頑張って彼の国語で読んでみようかな」と言った。するとエディターは間髪を入れず、バッグからライターの処女作(予備用)を取り出した。
「どうぞ。この本にはね、人の人生を変える力があるの」
「え、ええ……」