中立
リポーターが自宅のマンションに戻ったのは深夜の一時過ぎだった。
クラシックが言ったように、彼女は彼の国から来た重要人物の接待に駆り出された。中年男の粘ついた手の感覚がまだヒップに残っている。彼女はパンプスの音をカツカツ響かせエレベーターに入った。
「おかえりなさい」
同棲中の彼氏は寝ずに彼女を待っていた。
「食べてきたのか?」
「ううん。気分が悪くて何も口にする気になれなくて」
シャワーを浴び落ち着くと小腹が空いた。彼氏は作っておいた料理を温め直し、ダイニングのテーブルに並べた。
パジャマ姿に濡れた髪。彼氏は彼女が黙々と食事するのを眺めるのが好きだった。美しく着飾った彼女も良ければ、こんな飾り気のない彼女も良い。彼はスマホを操作しながら、「何かあったの?」と聞いた。彼女は延々とグチった。
「へぇ、あの人物にそんな一面があったとは。それもネタになるな」
「彼女がセクハラされてなんとも思わないの?」
「きみがそれだけ魅力的という証拠だ。それにおれは好きなだけ、きみに直に触れられる。優越感でいっぱいさ」
その夜、彼は彼女に精一杯奉仕した。二人ともそんな関係を好んだ。
彼は彼女より早起きし、朝食を作り始めた。家事はほとんど彼が担当している。時間を自由に支配しやすいからだ。
食事の準備が終わっても彼女に目覚める気配がないので、彼はパソコンを立ち上げ動画編集を行う。彼のチャンネル「まるっとわかる! 彼の国情報局」の登録者数は二十万人弱で、他の有象無象のチャンネルと比べ何桁も多いとは言え、経済的には鳴かず飛ばずだ。主な視聴者は我が国在住の彼の国人か、彼の国に興味を持つ数少ない我が国人で、そもそものパイが小さい。
彼はインターネットで彼の国に関する情報を調べまとめたり、首都にある彼の国料理店を紹介し、我が国で学ぶ留学生の取材を行うなど、なるべく中立的に彼の国の情報を発信した。
「どうしてそんなに彼の国が好きなの?」と、付き合い始める前にリポーターから聞かれたことがある。彼はこう答えた。
「彼の国が好きっていうより、我が国への反発みたいなものだと思っている。おれの父さんと母さんは我が国人なんだけど、どっちも厳しい人で、幼いころからこの国の常識やら価値観やらでおれを縛ろうとしてきた。おれは彼の国を見ることで、その束縛に背を向けているんだ」
リポーターは、やり方は違っても自分と似ていると思った。我が国に帰国したばかりの頃の彼女は、些細なことで同級生にからかわれ、先生からも服装や生活習慣について注意されたことがある。彼女は誰よりも我が国人らしくなることで周囲に反抗した。
「おれは我が国の人にも、彼の国を客観的に見ることで、我が身を振り返ってほしいんだ」
リポーターが起きた。彼らは簡単な朝食を食べながらテレビのニュースを見る。最近はこれといったネタがないようで、また彼の国が槍玉に上がっている。
「わざわざ悪いところばかりに目を向けて。もっと良いところを伝えればいいのにな」
「最初から悪いって決めつけてるのよ。悪人にも事情や美点があるなんて言っても、マトモな人は耳を傾けようとしないのと同じね」
「自分たちばかりが正義だと思い込めるなんて幸せだな」
「そうね」
リポーターは無難な旅番組にチャンネルを変えた。有名人が都内の人気スポットを紹介している。
「このレストラン行ってみたい! スイーツも美味しそうね」
「そうか? スイーツが食べたければ彼の国人が経営している人気のカフェがあるんだけど」
「あなたは本当に彼の国に夢中ね」
「この国のことは眼中にないよ」
「たまには我が国のことにも関心を持たないと。あなたは中立でいたいんでしょ」
「そうだった」
土曜日は溜まっていた家事をこなし、ごろごろしているだけで終わった。日曜日の午前中は都心の繁華街でショッピングを楽しみ、午後はやはり彼が行きたがっていた彼の国人のカフェに向かった。
それは雑居ビルの二階にあった。店内に入ると、彼の国人の店員から彼の国語で「いらっしゃいませ」と挨拶され、まるで別世界だ。彼は人気と言っていたが、混みやすい時間帯にも関わらず半分ほどは空席で、利用者も彼の国人ばかりだ。二人は円形のソファーが置かれた個室に通された。
コーヒーについてきたスイーツは本格的、つまり我が国人にとってはやや癖のある味わいだ。BGMは彼の国の民族音楽で、異国情緒が漂う。
「もっと我が国風にアレンジしないと受けないかも」
「彼の国本来の魅力を知っている人からすれば、もったいないけどな」
「まずは慣れてもらわないと。うちの会社と同じで、ただ向こうの主張を声高に叫んだって、そっぽを向かれるだけよ。会社のSNSアカウント、あなたのよりフォロワーが少ないの」
彼はさっそくスマホを取り出し、短文投稿型のSNSで「正しい声」の公式アカウントをチェックする。最新の投稿は動画付きで、我が国の観光客や留学生が彼の国の伝統衣装を着せられ、不自然な笑みを浮かべている。字幕はこうだ。
「憧れの彼の国美女に大変身!」
彼は顔をしかめ、「確かにこれはキツイな」と言った。
「でしょう。あなたのやり方が正しいのよ」
「おれもチャンネル登録者をもっと増やさないと。会社には戻りたくないから」
彼は半年ほど前に会社を辞めた。職場では上司や同僚とうまくいかなかった。これといった経歴、技能、資格もなく、社会復帰は難しそうだった。
「そうだ、きみの会社におれのことを紹介してもらえないかな。こういう地味な活動で彼の国に貢献してますよ、って」
「いいけど、今のところフォロワーがようやく四桁の弱小アカウントだから、期待しないでね」
翌日の勤務時間。リポーターはめったに上がらない三階に上がった。噂に聞いていた通り、多くの人が自分の作業以外には目もくれず、近寄りがたい雰囲気だ。彼女は文化課のファンキーに声をかける。
「へぇ、あのチャンネルの配信者はきみの彼氏だったんだ。なかなかお似合いのカップルじゃないか」
「お世辞はいいから、どうなの?」
「実はおれたちが自主的に投稿したり、誰かをフォローすることは認められてないんだ。ただ本社の担当者に提案するぐらいならできる。こういう熱心な我が国人もいます、せっかくだから注目してあげてくださいって」
報道部に戻ると、リポーターは急に上司から彼の国への出張を命じられた。取材対象は、我が国と彼の国の貴重な合作映画に出演した女優。我が国での公開を控えインタビューを行うというのだ。リポーターはその女優のファンで、一も二もなく同意した。
数日後、彼女は彼の国に飛んだ。
幼少期の長い時期を過ごした彼の国で、彼女は水を得た魚になった。彼女には彼の国の方がおおらかで、開放的に感じられた。我が国とは政治体制が異なるが、そのせいで我が国より不自由というわけではない。人々も我が国よりも率直で活発に見える。
かつて自分を温かく受け入れてくれた社会に戻った彼女は身も心も軽くなった。タクシーを使っても良いのだが、地下鉄などの交通機関を乗り継ぎつつ、もう一つの祖国の変化を観察する方を選んだ。彼の国語のシャワーを浴びながら、彼女は自分をスムーズに周囲に同化させていった。
約束の時間より早めに芸能事務所に到着した。待合室の面々をざっと見渡したところ、我が国から来ている記者は彼女一人のようだ。合作映画の話題性は彼の国での方が圧倒的に高かった。彼の国人は我が国の文化を愛してくれる。それなのに我が国人は、同じぐらい魅力的な彼の国の文化に関心を持たない。リポーターにはこの温度差が歯がゆかった。
彼女の順番になり、事務所のスタッフに案内され、次の部屋に進んだ。中央の椅子には画面上で何度も見たことのある女優が座っていた。その人はわざわざ立ち上がり、握手で彼女を迎えてくれた。
「遠路はるばるようこそ。なんてメディアだったかしら」
「正しい声です」
「?」
「国営◯◯通信の我が国子会社です」
女優の顔がみるみる曇り、ヒロインの彼氏の浮気相手を演じるような表情になった。
インタビューは険悪ムードで始まった。
「両国の合作ということで、得られた特別な経験はありますか?」
「両国友好を記念して、撮影中は出演者の誕生日を祝うことが慣例化してたんだけど、私の誕生日って実は十一月二十日なの。あなたはまさか、何の日か知っているでしょうね」
「……ええ。我が国と彼の国の国境地帯で小競り合いがあり、大規模な戦闘に発展し、両国に多くの死傷者が出た日です」
「なにそれ、あなた洗脳されてるの?」
女優は彼の国の教育と見解に従いこう言い返した。発端は偶発的な衝突ではなく我が国からの奇襲であり、それに彼の国が正当防衛したことを口実に我が国が軍事侵攻し、国境地帯の非戦闘員を虐殺し、今も彼の国の領土を不法占拠しているというのだ。
ちなみに我が国の見解は真逆で、戦闘の全責任は彼の国側にあり、いわゆる彼の国の領土というのも元々は我が国領で、それを取り戻したに過ぎないという。リポーターはどちらにも偏らず、国際的な通説を唱えたのだった。
彼女はムキになり反論する女優を見ながら、この人もプリンスと同じだなと思った。彼女はインタビューということもあり、議論するのを諦め、さっきの話の続きを促した。
「それで、その日に何があったんですか」
「向こうの誰もそんな不都合な歴史を覚えているわけないから、何も知らず私のために大きなケーキを用意して、盛大にクラッカーまで鳴らしてくれたわ。私たちのスタッフは、私の誕生日だからと必死に我慢したの。私のためにみんなに悔しい思いをさせて申し訳ない、でもそもそも悪いのはあっち、人の痛みも想像できない無神経な国のせいよ……」
リポーターは無難な質問で残りのインタビューを終えた。去り際に、彼女は女優に呼び止められた。
「あなた外国人にしては会話が流暢だけど?」
「はい、子供のころはこっちで暮らしてたんです」
「道理で。◯◯通信の子会社って言ったわね、私たちの正しい声をしっかり伝えてちょうだい。それがあなたみたいな立場の人が真っ当に生きるための唯一の道なんだから」