「正しい声社」
「はい、これお土産」
「パパありがとう!」
ニュートラルは首都郊外のマンションに帰った。ちょっと離れていただけなのに妻と息子の顔が妙に懐かしい。
リビングのソファーに座ると妻がお茶を淹れてくれた。
「研修はどうだった?」
「オフィスとホテルの間を行き来するだけで、観光する時間もなかったよ」
ニュートラルは新しい就職先について、家族に本当のことを告げていなかった。給料がいいとは言え、わざわざ彼の国のために働くのは後ろめたかった。彼は、空港で買った国内の観光地のお菓子を美味しそうに食べる息子を見ながら、今後こんな嘘をつくことが増えるのだろうなと嫌な気持ちになった。
彼は家族を愛していた。妻は彼にはもったいないほどの美人で性格もよく、教養がなくても利発で、パート先から重宝されている。小学六年生の息子は勉強ができる素直な子だ。ニュートラルにとっては、息子が学校であったことを報告してくれる夕飯が最も幸せな時間だった。この家庭を守るためには、多少の不満には目をつぶらねばと思えた。
子供が寝静まると夫婦はリビングで話をした。彼女の職場で最近、年配の男性が採用されたが、仕事を覚えるのが遅く愛想も悪いという。
「元はそこそこ大きい企業で働いていたんだけど、AIやロボットの導入でリストラされちゃって。うちでもしょっちゅうロボットとケンカしてるわ。それに比べあなたはいいわよね、先進技術に淘汰されない力を持っていて」
「まぁね」
彼は以前も、妻に自分の仕事について話したことがほとんどなかった。妻はただ、彼の方が学歴が上で、会社で頭を使う有意義な仕事をし、その見返りとして給料をもらっていると思うだけで満足だった。
しかし最もAIに代替されそうな、人の手による翻訳という仕事が生き残るとは皮肉だ。単純作業と思われがちだが、「少し気を利かせて」「さまざまな方向に配慮し」翻訳するというのがAIには苦手らしく、公文書などの慎重を期す文書や文芸作品の翻訳は、最初から人間がやる方が速くて確実だ。ただしニュートラルにはまだ、彼の国のニュースにそれほどの重要性を認められなかった。
翌朝、彼はやや早めに家を出た。面接がリモートで、勤務先のビルに実際に行くのが初めてだからだ。
彼の国のさまざまな情報を我が国語で伝えるニュースサイト「正しい声」を運営する「正しい声社」は、都心の裏通りの四階建てビルにある。我が国の報道各社や出版社が入居する高層ビル群の陰に彼の国のプロパガンダ機関が隠れているとは、まさに灯台下暗しだ。あまりに目立たないので、ニュートラルたち新入社員は始業時間ぎりぎりにようやくたどり着いた。
ビルは想像したよりも小さく、汚く、薄暗かった。一階にはエントランス、会議室、応接室、食堂などがあり、社員は一様に正面から見て右手にある階段に向かう。ビルのエレベーターが使えないからだ。二階は記者や執筆者たちの「報道部」で、ニュートラルは翻訳者が集まる三階の「翻訳部」を目指す。
階段を上る途中、彼はファンキーから挨拶された。
「おはようございます」
「おはよう。きみも三階か。でも彼の国語をあまり読めないんじゃなかった?」
「ええ。おれは本社がSNSで投稿した内容を機械翻訳にかけて、それを我が国の親しみやすい言葉に変えるのが仕事っす」
記者たちが忙しく動き回る二階と異なり、三階は誰もが自分に与えられた備品のデスクに張りつくため、空気がどんよりと淀んでいる。パソコンの画面を見つめながら高速でキーを叩くか、いい表現が思いつかず天を仰ぎ放心するか。誰もが自分の作業に没頭し、近寄るな、声をかけるなとオーラを発する。あちこちでカタカタカタとタイプ音が鳴り、犬の遠吠えのように連鎖し、紛争地帯の最中にいるような錯覚が生じる。ニュートラルはこの雰囲気に怯み、邪魔をしないようゆっくり慎重に歩き、自分の席を探す。
やっとのことで着席しても、「ニュース課」の社員たちはこの新入りに何ら関心を示さず、一言も声をかけなかった。ニュートラルは自分がすべきことが分からないので、一人だけ離れた席に座っている上司と思しき人に近寄り、
「今日からここで働くことになりましたニュートラルです」と言った。
その人はちらりと彼に目を向け、「あそ」とつぶやいた。
「あの……」
「そうか、私がここでの働き方を教えてやらないとだな」
課長は平均的な社員の一日を紹介した。彼の国の本社から本日翻訳する原稿が送られてくるのは向こうの昼休み前(我が国の午後一時前)なので、午前中は溜まっていた不急の原稿に取り組む。午後は本日の原稿を、質を保証しつつリアルタイムで翻訳する。疲れたら窓際のドリンクバーで休憩する。夜七時には一斉退社する。
「原稿の分配、訳文のチェック、サイトへのアップは私が担当する。課長って言っても権限はその程度だ」
「それで私は何を翻訳すれば」
「そうだなぁ、きみは何が得意だ?」
ニュートラルは自分にそれがないことに気づいた。政治も経済も芸能もスポーツも興味がなく、これといった趣味もない。つまり精通している分野が何一つない。
「ではとりあえずテクノロジー関連を担当してもらおうかな」
ニュートラルは午前中、社のサイトを閲覧した。まずはテックニュース。彼の国が最新のロケットの打ち上げに成功した、彼の国の科学者が執筆した論文が国際的に認められた、彼の国の工事現場で珍しい恐竜の化石が見つかった、彼の国の内陸部の大型ガス田の掘削で使用される重要設備が国産化された、彼の国で画期的な工法によるトンネルが完成したなどなど。文系の彼にはちんぷんかんぷんな内容で、課長に別の原稿を回してもらおうとしたが、政治や社会のニュースを見て考え直した。
我が国からの先端技術の禁輸措置について国際貿易組織に提訴、我が国の閣僚による彼の国の体制への不適切発言に厳重抗議、我が国発のマルウェアに要注意、我が国の人権問題について国際社会が憂慮。我が国の若者が彼の国での留学生活を満喫中、我が国で彼の国のネットドラマが大流行、高齢化が進む我が国は彼の国の経験を参考にせよ、彼の国の農村は近代的で外国人も羨望……
すべてが彼の国にとって都合のいい一方的な主張か自国礼賛で、我が国の公平で客観的な報道スタンスと異なるため、それを我が国語に翻訳すると一層グロテスクになる。ニュートラルは、誰が、どんな神経でこんなゴミクズのような記事を翻訳しているのかと恐ろしくなり、思わず辺りを見回した。生きている目をした人は一人もいなかった。誰もが深海に潜む太古の生物の抜け殻のようだった。
十二時になると、彼の国でよく使われるチャイム音が鳴った。化石していた人々は椅子のバネの勢いを借りて立ち上がり、一階に下りた。
食堂の料理は事前に聞かされていたほど選り取り見取りではなかった。というよりA、B、Cの三択のみ。しかも我が国人の好みに合うAランチは早々に売り切れ、遅れてやってきたニュートラルにはやや冷めたBとCしか残されていなかった。彼はトレーを持ちながらきょろきょろし、一人で着席したばかりのクラシックを見つけた。
「ご一緒してもいいかな」
「どうぞどうぞ」
クラシックもAを取りそこね、Cの鼻水のようなあんかけがかかった白身魚を口に運び、「ちょっとしょっぱいな」と言った。
「報道部はどんな感じ?」
「半分ぐらいが取材に出てました。でも活気があり、体育会系みたいです」
「じゃあうちとは真逆だ。翻訳部はみんな石にこびりついた苔みたいに動かず、暗くジメジメした空気だよ」
「羨ましいなぁ。ぼくは取材が少なく、本やパソコンで調べ物をし、執筆することが多そうだから、むしろ翻訳部のほうがやりやすそうです」
「ところで社のサイトはもう見た?」
「ええ。カルチャーショックを受けました」
「確かに。普通に我が国で生きていたら絶対に触れることのない価値観、独特な世界観があるね」
「でもぼくは助かりました。政治とは無縁ですから。しばらくは古典の名著のコラムを書くことになります」
ニュートラルはそれを聞き、ほっとした。同期にだけは、翻訳部の古参の社員のように、人間性を失ってほしくなかった。
「そういえばきみは奥さんが彼の国人なんだっけ」
「ええ。五年前に結婚して、娘はもう幼稚園に上がります。早いものですね」
「奥さんにはどこで働いているか教えた?」
「はい。妻は移住してきたぐらいだから我が国に好意を持っていますが、やはり彼の国を愛し、彼の国の人間としての誇りを忘れていません。だからぼくが彼の国や、我が国との友好のためになる仕事をするのだと喜んでくれました」
「それは羨ましい。うちは妻が我が国人だから本当のことは言えないよ」
「あのサイトを見れば売国奴と思われても無理はありませんからね」
午後になり、翻訳部の仕事がようやく本格的に始まった。
ニュートラルにも課長から原稿が回ってきた。さっきサイトで見たような内容で、彼がこれまで接してきたことのないような名詞が多く、調べるのに時間がかかった。一般人向けのニュースのため、理解しやすいよう浅く書かれているのだが、翻訳に高度な専門知識が必要な部分もあり、四苦八苦した。彼は仕方なく課長に質問に行った。
「あぁ、分からなければ、それらしく書いておきなさい」
「えっ? でもたぶん誤訳になりますよ」
「じゃあその部分は省略したほうがいいね。科学関連の記事は重要度が低いんだ。誰も問題にしないよ」
なるほど。政治ニュースで彼の国の主張を省いたり曲解して訳出すれば大目玉を食らうだろうが、テックニュースは無害だ。ニュートラルは新入りの自分にこの仕事が与えられた理由を察した。すると、ぐんと気が楽になった。
環境保護に関する原稿の翻訳を終えると、彼は席を立ちドリンクバーを利用した。
社員が談笑する憩いの場かと思いきや、そこの利用者の多くはピリピリしていた。ニュース課の社員たちは窓辺のテーブルにコーヒーなどの飲み物を置き、高いカウンターチェアに座り、眉間にしわを寄せながら外を眺めている。三階から面白い景色が見えるはずもなく、ただ翻訳のゾーンに入ったまま頭を休めているだけだ。
そこにファンキーが文化課の先輩たちと賑やかに入ってきた。先輩に失礼にならない程度に軽口を叩き、笑いを取ることができ、もうだいぶ気に入られているらしい。彼らは自分の飲み物を注ぐと散らばり、ニュース課の知り合いの肩を叩き、こっちの世界に無理やり引き戻す。
「お疲れっす」と、ファンキーがニュートラルに言った。
「やあ。仕事の調子はどう?」
「意外と難しくて困ってます。だって彼の国の政治やら文化やらを大真面目に褒めちぎる投稿を、自然でとっつきやすい我が国語にしろって言われても限界がありますから」
「そっか、ニュースとは違った難しさがありそうだね。ところでエディターは元気にやってる? 姿を見かけないようだけど」
「あぁ、あそこにずっと座ってますよ」
ファンキーの指の先にはエディターがいた。彼女はやや猫背になり、仕事に集中している。
「なんか入社早々、サイトで公開するオンライン小説の翻訳を任されて、大変らしいです。毎日相当な量で更新されるから、彼女だけじゃなく同僚たちとチームになって忙しく働いてます」
「一人で好きにやるより苦労しそうだ。それと比べると、私の仕事なんて楽なほうなんだろうな」
「おれのも。あんまり文句言わず自分の仕事を頑張りましょう」
夜七時になり、仕事から解放された社員たちが一斉退社した。一時間の時差のおかげで電車はさほど混んでいない。ニュートラルは前の会社よりも通退勤に疲れないことをありがたがった。
八時前にマンションに戻ると、息子がリビングから玄関に飛び出してきた。
「おかえりなさい! 遅かったね」
「これでも定時退社なんだ」
パートから帰り夕飯を作り終えていた妻も出てきて、「お風呂と食事、どっちにする?」と聞いた。ニュートラルは待っていてくれた家族のために、「先に食事にしよう」と言った。
夕飯が始まると、いつものように息子が学校であったことを話した。まだ小学生なので難しいことは習わず、勉強が楽しいそうだ。ニュートラルはうなずいて聞きながら、この子には自分と違う、創意工夫を発揮できる職についてほしいと願った。
息子の話が落ち着くと、今度は妻が彼に質問する番になった。
「新しい職場はどう?」
「なんだか気疲れしちゃったよ。業務自体は大したことないんだけど」
「最初は仕方ないわね。そのうち慣れるわよ。ところで来月のスポーツの日に学校で運動会あるんだけど、あなたも来れるよね?」
「ご、ごめん。その日は仕事があるはずなんだ」
「だって国民の祝日よ?」
今後も休めないことを考えると、ここで言い訳をしておく必要がある。
「うちの会社の重要取引先が彼の国にあって、向こうの暦で働かなきゃいけないんだ」
「なんで彼の国に合わせてあげるのよ? まるで非国民みたい」
妻はふざけた口調でそう言ったが、ニュートラルはぎくりとした。
「あなたまさか、我が国に進出した彼の国企業に潜入する産業スパイとかじゃないわよね?」
「アニメやドラマの見過ぎだって」
妻と息子は大笑いし、ニュートラルだけが苦笑いだった。今夜も彼ら一家がこれまで日々繰り返してきた、楽しく幸せな団らんのひとときが終わろうとしていた。
彼ら新入社員が新しい環境で働き始めてから三週間ほど経過した。仕事に慣れ落ち着いてきた彼らは、同期だけで外で集まり話をする必要性を覚えた。そこでファンキーが幹事になり、金曜日の仕事帰りに飲み会が開かれた。
彼の国で酒を酌み交わしてからまだ一カ月にもならないはずなのに、我が国で同期全員が顔を揃えると隔世の感があった。彼らはあの時と同じように居酒屋に入り、ドライなビールで一週間の労働の疲れを吹き飛ばし、盛んに話し始めた。
「翻訳部って社内結婚が多いらしいわね」とリポーター。
「めったに外に出ないからな。うちの課で、イケメンの先輩が彼女募集中なんだけど、リポーターはどう?」とファンキー。
「わたし彼氏と同棲してるの。何年も前から交際中」
「意外と一途なんだな。じゃあエディターは?」
「あの、その私はまだ交際とかよりも、仕事をしっかりやらないと」
「忙しいらしいね。新入りなのに即戦力だって評判だよ」とニュートラル。
「もともと小説を読み、文章を書くのが好きで、それしか取り柄がありませんから」
「ぼくなんかはもっぱら読むだけで書いてこなかったから、今になって苦しんでるよ」とクラシック。
「私も。取材は楽しいんだけど、それを記事にまとめるのが面倒で」とリポーター。
話が途切れ、五人はまたビールを一口飲んだ。
「ところでみんな、仕事や会社のことをどう思ってる?」とニュートラルが聞いた。
「今のところ気に入ってます。我が国の普通の会社と違う時間に、変わった仕事をしているだけで、給料はいいっすから」とファンキー。
「ぼくも。勉強になるだけでなくお金までもらえるし、こんなに恵まれた環境には感謝だね」とクラシック。
「私も趣味がそのまま仕事になったみたいでありがたいです。ただ、もう少し面白い小説を選んで紹介してほしいとは思います」とエディター。
「そうだねぇ。私も暇な時間にちょっと目を通したけど、エディターたちが心を込めて丁寧に翻訳する価値のある作品とは感じないな」とニュートラル。
やや間があった後、四人は一斉にリポーターに目を向ける。
「仕事自体や待遇には満足してるけど、嫌なこともあるのよねぇ……ほら来た」
彼女は振動するスマホをチェックし、「またか」とため息をついた。
「部長からでしょう」とクラシック。
「そうなの。今日は用事があるって言っておいたのに、まったくもう」
リポーターはそう言うと、渋々席を立った。明るい彼女がいなくなると座が白けた。
「ほら、彼女若くて綺麗だから、よく酒の席に呼ばれるんだ。報道部は、彼の国の偉い人をもてなすことが多いから」と、クラシックが弁解するように言った。