突如終焉
同期の飲み会はやはりエディター不在で開かれた。
思えば彼らが入社してからもう、しばらくたつ。彼らはもはやフレッシュな新入社員ではない。それは一口目のビールの後に出る重いため息からも明らかだ。
「本社での研修を終えたばかりの部下の姿がまぶしくって。羨ましくも煩わしい気分になったよ」とクラシック。
「やたらやる気があるんすよねあいつら。この会社で何か社会の役に立つことができるって勘違いしてるから」とファンキー。
「一カ月もしないうちに目が虚ろになっていくのよね。むなしさの埋め合わせをしようと取材に奔走するようになってからが本番ね」とリポーター。
ニュートラルは三人の話を聞きながらうなずくだけだった。表情がなく、乾いたセミの抜け殻のようだ。
「だいじょうぶ?」とリポーターが心配そうにたずねた。
彼はようやく微笑み、「うん、聞いてるよ」と答えた。
「おれ実は最近、会社を辞めようと考えてるんです」とファンキーが言った。三人は目で続きを促す。
「これだけ働いても得られるものはなかったし、まだフットワークが軽いうちに環境を変えないと、将来きついかなぁって」
「そうしたほうがいいと思うよ。きみは社交性があり、仲間からも好かれるタイプだから、どこに行っても生きていけるさ」とクラシック。
「辞めた後の当てはあるの?」とリポーター。
「貯金があるから、実家に帰って店を開こうと思ってる。独り身の母さんが手伝ってくれるし。母さんは彼の国人と離婚した過去が響いて、今まで仕事でも生活でも苦しんできたけど、そろそろ息子のおれが居場所を作ってあげないとな」
「店の宣伝にSNSも活用してね。少しでもこの会社にいたことに意義を持たせるべきよ」
「ぼくはもう若くないから今の職場にしがみつくとして、リポーターはどうするんだい?」とクラシック。
「分からない。まだ自分がどう生きていくべきか見極めがつかない。でもファンキーのやり方は正しいと思う。そう、この社会から受け入れてもらえないと嘆くよりも、自分の力を周りに認めさせるほうが積極的よね」
「ニュートラルは?」とファンキー。
「……成るようにしか成らないだろうなあ」
飲み会がお開きとなり、四人は店を出た。
ニュートラルの足は自ずとノーマルの家に向いた。が、辛うじて引き返し、いつもの電車に乗った。
彼は不倫によって何とか持ちこたえ、飲み会に参加できる状態まで回復した。今の彼にはノーマルという癒やしがあった。仕事に慣れた彼女はよき助手になり、彼の負担を減らしてくれた。二人ならば残業も苦ではなかった。彼らはマウスやキーボードの上で手を重ね、異性のぬくもりを伝えあった。そうしながら相手の耳元でささやき、仕事を甘美なひとときに変えた。残業を終え事務所の電気を消すと、二人は警備員の足音に警戒しつつ、闇の中で抱き合い一つになった。
珍しく残業がなければ、二人は前後して会社を出て、彼女のマンションで合流した。部屋に入ると彼は彼女の胸に顔を埋め、泣きじゃくった。彼女は彼の肩の震えが収まるまで背中を軽く、一定のリズムで叩いた。そうすると彼は睡魔に襲われ、彼女の甘い匂いが染み込んだベッドで眠った。彼女は服を脱ぎ、添い寝した。遅くならないうちに夢から醒ますため、彼女は彼をそっと揺り起こし、現実にある別の夢にいざなった。
家は家らしくなかった。妻は彼が帰ってくる前にすべての用事を済ませ、今は彼女の部屋となっている夫婦の寝室から一歩も出ようとしない。思春期の息子も子供部屋にこもり、何をしているのか分からない。ニュートラルは、身を削る思いで働いた代償がこれかと呆れた。
休日は家族バラバラで行動した。妻は何かと口実を設けては家から離れた。息子は友達の家に遊びに行き、逆に家に呼ぶこともあった。ニュートラルは家にいてもすることがなく、外出した。昼から公園のベンチに座り酒を飲み、仲の良い家族連れを見ながら昔の日々を偲んだ。仕事で失ったものはあまりにも大きかった。彼は遊具で元気に遊ぶ子供を見ながら、せめて息子を立派な社会人にしなければと思った。
彼は酒を飲み終え、街を歩いた。酔いは外界からの刺激を増幅させた。人々の話し声がいやに耳についた。彼の国に関する言葉を聞くと、自分のことを話しているのではと恐怖した。誰もが彼という裏切り者を憎み、探しているようだった。彼はもうこの国の一般社会に復帰できそうになかった。
どんなに苦しくても日常は過ぎていく。それはエディターも同じだった。
あの会社を早退した日、彼女は衝動的に、自宅のアパートで首を吊ろうとした。押入れからはロープやベルトなど手頃な物ではなく、大学時代の大量の教材、使いすぎでキーボードの表面が擦り切れている電子辞書、ライターの作品やその訳文を記したノートなどが出てきた。彼女はその一つ一つを手に取り、眺めながら、あの頃の情熱と純粋さに驚かされた。
これらをぜんぶ捨て去り、何一つ活かすことなく、人生を終えるのか。
否。本当に神を愛しているならば自殺など許されない。自分の都合を一切顧みず、ただただ献身的に神に尽くすべき。ポエムに翻訳する権利を奪われたことなど神にとってはどうでもいい。そんなことで泣き、死のうとした自分を蔑み、嘲笑え。
「バカ! バカ!」とエディターは連呼しながら、両手で両頬を叩いた。手も頬も火のように熱くなり、全身の毛が逆立った。
「お前の権利など死ね! お前の名前など死ね! 神の作品を自分のために利用しようとしたことを恥じよ!」
彼女はその日のうちに、神の処女作のもう何回目になるか分からない翻訳を開始した。滅私奉公の境地に達した彼女の訳文はこの上なく研ぎ澄まされた。もし、同業者が批判的な態度で彼女の訳文と原文を見比べたなら、赤を一つも入れられないうちに訳文に引き込まれていくことだろう。語学の確かな基礎、ムラなく持続する情熱、推敲に推敲を重ねたため読者に何の負担もかからない自然な文章。同業者だからこそ訳者の真価を理解し、自分ではとてもじゃないがここまでできないと畏怖し、そっとペンを置くことだろう。
彼女はついに最後の翻訳を終え、家を出た。
エディターは久しぶりに会社に戻ってきた。彼女は他の社員と同じように堂々と社内を歩き、三階に上がった。彼女は多くの社員に見守られながら、かつての自分の席に座っているポエムに後ろから「ちょっと」と話しかけた。意表を突かれたポエムは「ひっ」と声をあげ、「ど、どうして……」と続けた。
「どうしてだと思う?」
「私に訳文を盗まれて会社を辞めたはずなのに」
「どうしてだと思う?」
「ショックで寝込んでいたはずなのに」
「どうしてだと思う?」
「もう立ち直れないと思ってたのに」
「見くびるな!」
エディターはそう言うと右手を振り上げた。ポエムは覚悟し目を閉じた。その手はポエムの頬ではなく、彼女のデスクに落ちた。手の下にはUSBメモリが置かれていた。
「出版まで残された時間をフル活用するため、会社に来ないで家で翻訳してたのよ。すべてはライターのため。人から盗んだ訳文を勝手に書き換えてるあなたに分かる?」
「……」
「勘違いしないで。私はあなたに奪われた仕事を取り戻そうとしているわけじゃない。本の翻訳者はあなたのままでけっこう。印税もあなたがそっくりもらいなさい。でも一つだけ条件がある。私が今回持ってきた訳文を一字一句変えることなくそのまま使うこと。これを使わないならば盗作だって訴えてやる。私に失うものは何もない。玉砕覚悟よ」
エディターの部下だった人が控えめに拍手をすると、それはあっという間に三階全体に広がり、二階にまで伝わっていった。ポエムはUSBメモリを手に取り、がくりとうなだれ、「分かりました」と消え入りそうな声で答えるのがやっとだった。
永遠に続くと思っていた惰性の日常はある日、あっさりと終わりを告げられた。
彼の国で政権交代が起きた。与党が数十年ぶりに下野し、最大野党が与党になった。新政権は経済を最優先し、後に「骨抜き」と揶揄される骨太の改革を行った。行政のスリム化で省庁が再編された。文化、スポーツ、教育、宇宙など、経済への即効性が低いとされる事業のコストが削減された。それにはもちろん対外プロパガンダ事業も含まれた。将来性あるAI技術を活用し、海外への情報発信や翻訳を行うことになった。それに伴い、正しい声社の本年度末での閉鎖が決まった。
社内に衝撃が走った。しばらく遊んでいなかった玩具を捨てられそうになった子供のように、社員たちは今の環境を惜しむようになった。彼らの多くは始業時間より一時間も早めに出社し、一階の会議室で細々と開かれていた彼の国語会話講座に出席し、今のうちにスキルを磨こうとした。適当な仕事をしていたニュートラルの部下たちも、よく彼の所まで質問に行き、丁寧に翻訳するようになった。
会社の閉鎖を前に、AIの導入が本格的にスタートした。報道部の社員が社内システムでそれを使い、取材で得た情報を入力すると、それらしい記事が出力された。クラシックもこのツールをフル活用し、彼の国の古代思想家の格言を用いた、新政権や新首脳を褒め称える歯の浮くような文章を生成した。文章作成アシストとしては十分使えそうだった。
対照的に翻訳はひどかった。ニュース課には午後、本社からニュースの原文とAIによる訳文が送られてくるようになった。一見したところ普通の記事と比べても遜色ないが、原文と見比べると時制や固有名詞などが怪しく、また我が国語らしくない直訳調も多く、いちいちチェックが必要だ。ニュートラルは本社の担当者とビジネスチャットツールで連絡した。
「これなら最初から自分で翻訳したほうが早いですよ」
「それでは意味がない。きみたちは校正を行い、フィードバックし、AIに学習材料を提供するのだ」
年度末に首を切られる運命の社員たちはAIの養分になるしかない。ニュートラルは悔しかった。嫌いなニュースであっても、彼はプロとしての誇りを持ち仕事に取り組んでいたからだ。
彼とは違い、AIのサポートは部下たちから好評だった。彼らは「へぇ、こう翻訳すればいいんだ」と言い、人工知能を師と仰ぎ、熱心に勉強した。
ニュートラルはヤケクソになり、部下たちの訳文をチェックせず次々とサイトにアップした。退勤時間になり他の社員が出払った後、彼は恐る恐る自社サイトをチェックした。ぎこちないタイトルの記事がずらりと並び、思わず目を覆う。部下たちのものをクリックして開くと、本当に校正したのかと疑うほどの出来栄えで、原文と比べるまでもなく重大な誤訳をいくつか確認できた。昔ならばすぐ本社の方から厳重注意が入ったのに、今やAI様のお陰で一切お咎めなし。あれほど神経をすり減らし、己の人間らしい感情を犠牲にしてまで翻訳していた日々は何だったのか。
「馬鹿らしくなるわね」と、ノーマルが彼の心境を察して言った。
「結局、何もかも無意味だったんだ」
二人はすることもなく、ドリンクバーでコーヒーを飲みながら今後の身の振り方を考えた。ノーマルは引く手あまたの介護職員になるつもりだった。
「私おじいちゃんっ子で、お年寄りが好きなの。何一つ恩返しできないうちにおじいちゃんが亡くなったから、他のお年寄りのお世話をしようと思ってる。お給料は少ないけど私一人生きていくには十分よ」
「きみには向いている仕事だと思うよ。本当に有意義な仕事だし」
「ニュートラルはどうするの?」
同期との飲み会の時と同じく、彼はまだ何も決めていなかった。
「とりあえず家族にまた言い訳しないとだな。できればそれを最後の嘘にしたい」
仕事が楽になると二人の関係は沈静化していった。どちらもいい大人だった。必要な時に助け合った友として、彼らは互いに感謝した。
彼の国の政権交代によって最も直接的な影響を受けた我が国人はインフルエンサーだろう。彼は底なしに激減する再生回数を見ながら、うろたえるばかりだった。
なぜこうなったのか。彼の国の事情に詳しい彼が知らないはずがない。新政権になると、講演などの仕事の依頼がぱたりと途絶えた。彼に関する報道もなくなった。彼の国の人々は前政権によってもてはやされた彼のことを都合よく忘れた。忘却は徹底的で、彼の動画チャンネルの登録を解除する手間さえかけなかった。だから再生回数とは不釣り合いな何百万人もの、実体を持たず何も生み出さないフォロワーだけが残された。
彼はSNSで率直に彼の国の人々に聞いた。自分のことをどう思っているのかと。
「単純に飽きた」
「賞味期限切れ」
「露骨に媚びすぎなんだよな。おれたちが喜ぶとバカにしてんだろ」
「たとえ敵国の人間であっても売国野郎は憎い」
急にそっぽを向かれた彼は拗ねた。彼は動画チャンネル名を「まるっとわかる! 彼の国情報局」に戻し、リベンジポルノのように彼の国の内情を晒し、批判した。すると今度は我が国人のフォロワーが増えていった。彼の過去を知る人も知らない人も彼を好意的に迎えた。
「利用されていただけだとようやく分かったらしいな」
メディアも彼を放っておかなかった。朝の報道番組は彼を「彼の国情勢に詳しい専門家」として呼び、コメントを求めた。彼には豊かな学識、深い思考力や鋭い分析力などはないが、庶民感覚だけは異様に発達しているので、視聴者から注目されやすい、彼らが浅く納得しやすい観点を提供できた。彼は普段から自分の動画チャンネルやSNSアカウントでさまざまなコメントをまめにチェックしているので、ネット民の声をまとめ、代弁することができた。彼は他の番組からも出演依頼を受け、動画の再生回数も持ち直していった。
彼は午後の情報番組で自分のコーナーを持った。ネタは番組側が用意してくれるのだが、自分から出すこともあった。彼はある日、彼の国の対我が国プロパガンダの出先機関、正しい声社の事業について詳しく紹介した。人々はそれで初めて、我が国の中心地にそんな危険な機関が浸透していること、にも関わらず放任されていることを知り、震撼した。
後はもうインフルエンサーの出る幕ではなかった。テレビ局や週刊誌のプロの記者が正しい声社に殺到し、取材を試みた。会社側は警備員を増やし彼らを追い返した。業を煮やした市民が会社前で抗議集会を開いたが、警察から厳しい姿勢で解散を命じられた。
「いったいどっちの国の警察なんだ!」
「我が国の警察まで買収されたのか!?」
記者たちは粘り強かった。彼らは会社の周辺で張り込み、出てきた社員をつかまえた。社員の多くは後ろ暗いことがあり口を開こうとしなかったが、ある人はカネの魅力に負け、ある人はもう閉鎖されるのだからと破れかぶれになり、記者たちが必要としている情報を提供した。
サイトに掲載される記事は我が国人が翻訳し、執筆していたこと。
それと引き換えに、我が国の一般的な会社員を上回る給与を得ていたこと。
社員名簿と、彼らが記事の署名に使っている仮名。
これらの情報は直ちにネット上で出回った。人々はそれを元に個人情報を割り出し、公開した。人々の怒りの矛先が向けられたのはニュートラルだった。彼の本名、顔写真、家族構成、担当記事。さらにはノーマルに惚れ彼に嫉妬する他部署の社員が社内で盗撮した不倫現場の写真。
「禁断の情事! 国と家族を裏切った男、背徳の肉欲に溺れる」
ニュートラルの家庭が崩壊した。妻は彼を下劣な嘘つきとして見下した。息子は立派だと思っていた父が魂を敵国に売り渡した非国民だったと知り、自暴自棄になり家を出て非行に走った。離婚し、彼には彼の国から得た「汚いカネ」だけが残された。
いよいよ会社が閉鎖されるまで一週間を切った。
今や社員の半分は次の職探しに勤しみ、会社を休んでいた。正しい声社に関するネガティブな報道のためそれは難航した。
出社している残りの半分は就職先を決めたか、この会社で長く働きすぎたため腰を上げられない、一般社会に適応できなくなった者だった。
リポーターはある我が国企業の彼の国語通訳者として採用された。面接官からは、彼の国企業で働いていたようだが、我が社のために働けるかと聞かれた。
「私はお給料をいただく以上、御社のために働きますが、彼の国を過度に敵視し貶めることはしません。彼の国の人を理解し、彼らの立場になって考えられることは、きっと御社のためにもなると思います」
出社しても報道部に残されている仕事はなかった。彼女は通訳の専門書を読んで勉強するか、会社のパソコンやスマホを使い暇つぶしをした。彼女はもう、元カレに関する情報をほとんど目にしなくなった。我が国の人々は早くも彼に飽き始めていた。彼は「ライフ・イズ・コンテンツ」とばかりに、しょうもない自伝と自己啓発本を一冊ずつ出したが、どれも売れず、今やすっかり鳴りを潜めている。カネの切れ目は縁の切れ目というやつで、あれほど彼を崇めていたスタッフも消えたという。どれも彼女には関係のないことだが。
彼女は同じ部のクラシックに声をかけた。彼もやる仕事がなく、会社の本を読んでいるところだった。
「お邪魔だったかしら?」
「とんでもない。就職先が決まったって聞いたよ。おめでとう」
「ありがとう。クラシックは彼の国に移住するんですってね」
「そうなんだ。このままでは妻は我が国を嫌いになり、娘も妻を本気で嫌うようになるから。向こうに行けば妻は活き活きとし、娘も妻を見る目が変わる」
「仕事はどうするの?」
「分からない。ぼくは彼の国では専門を活かせる仕事が見つからないから、単純作業しかできないだろうね。でもいいんだ、ぼくが我慢すれば。それよりも心配なのはニュートラルだよ。あんなことになってしまって」
「本当ね。彼の立場を思えば同情しかないわ。ただの人、いいえ、平均以上に責任感ある強い人なのに、関係ない人たちが寄ってたかって彼を批判するなんてありえない」
「まだ仕事見つかってないそうだよ」
「我が国のまともな会社では無理でしょうね。ファンキーみたいに独立するしかないかしら」
ニュートラルは地下の安宿で寝泊まりしていた。ノーマルは地元の介護施設に就職を決め、すでに首都を出ていた。今や彼は完全に一人きり。外に出れば石を投げられ、面接にも行けないほどだった。身軽になったのに不自由な彼は汚いベッドの上に座り、考え事をし、時を過ごした。
彼は帽子、サングラス、マスクの姿で、久々に地上に出た。今日は最終出社日。ファンキーの企画で、ささやかなお別れ会が開かれる予定だった。
彼が午前十一時ごろに入ると、社内はすでにどんちゃん騒ぎになっていた。彼の国人の口うるさい上司やお偉いさんがいないと知ると、社員たちは買い出しに行き、酒やつまみなどを持ち寄った。参加者は多く、一部のOBも駆けつけ、この職場への名残を惜しんだ。
ニュートラルはこの会社で最も長い時間を過ごした三階の自分の席に座った。最初は一人で回想にふけっていたが、やがて周りに人が集まってきた。仕事中にいつもムスッとふくれっ面をしてた部下たちは、顔を真っ赤にしながら彼に酒を勧めた。
「さぁ、今日は飲んでください!」
酔った部下たちは人間らしく、また率直だった。彼らはニュートラルが自分たちをかばい、矢面に立たされたことを恥じ、「すみませんでした」と謝った。その一言だけで彼らの間の隔たりが消えた。ニュートラルは缶ビールを一口飲み、「もう過ぎたことだよ」と言った。
彼らが打ち解け、盛り上がってきたころ、意外な人物が姿を現した。
「課長!」
正しくは元課長で、カジュアルな私服姿だと一瞬、誰だか分からなかった。彼は昔一度も見せたことのない笑みを浮かべ、ニュートラルの肩をぽんと叩き、「大変だったな」と言った。
「課長、体調はもういいんですか?」とニュートラルが聞いた。
「なんとかね。しかしうちの最近の記事はひどいな!」
元課長はスマホを取り出し、「正しい声」のトップページの記事を開いた。それは彼の国の首脳の発言を要約したものだった。言い間違い、文法上のミス、さらには事実誤認まで何の忖度もなく訳出するので意味が取りづらく、中学生が背伸びして難しい言葉を使って話しているような印象さえ受ける。
「いちおう本社の我が国語ができる人間がチェックしているらしいですよ」
「AI以下のあいつらなんかに何が分かるか」
現課長と元課長はプロとして意気投合した。彼らは最近の記事を肴に酒を酌み交わした。本格的に酔う前に元課長がこう提案した。
「どうだい、ここは一つ、本気で翻訳してみないか? 彼の国の手先としてではなく、我が国人として」
二人は同じ、我が国の社会を批判する社説を翻訳し、見比べた。しばらく会社を離れていた元課長の方が自然な文章で、毒々しい表現は無難に訳されていた。ニュートラルの訳文は仕事中とほぼ変わらない、原文の表現に引きずられたものだった。
「きみが我が国人らしい感覚を取り戻すには時間がかかりそうだな」
「今さら取り戻せませんし、取り戻すつもりもありません。実は午後、国を発つつもりです」
「発つって?」
「本社で我が国人の翻訳者を募集しているんです。さすがに一人はネイティブが必要らしく」
「そうか。今となってはそれがベストな選択かもしれないな」
「はい。家族も感情も、この国で生きる場所も失った私にとっては」
「……がんばれ、とは言わないよ」
「ありがとうございます。課長には本当にお世話になりました」
彼はニュース課の社員たちに別れを告げ、二階に下りた。そこには残された同期、リポーター、クラシック、ファンキーの三人がいた。
「行くんですってね」とリポーター。
「うん。みんなで研修を受けた本社に戻ることになるとは思わなかったよ」
「お気をつけて」とファンキー。
「きみこそ。うんと稼いで、親孝行してあげるんだよ」
「ぼくも向こうに着いたら連絡する。たまには会ってお酒でも飲もう」とクラシック。
「ありがとう。自国の元同僚が近くにいてくれるだけで心強いよ」
「それではニュートラルの新たな門出を祝って乾杯しましょうか」とリポーター。
四人は手元のアルコールを適当に手にし、万感の思いを「乾杯」の一言に込め、一気に飲み干した。
外に出ると午後の日差しが眩しかった。ニュートラルは慌ててサングラスをかけた。飛行機に乗り、彼の国に降り立つまで、彼は周りの人に顔を見られてはならない。彼はこそこそと祖国から逃げ出したが、心の中は少しだけ温かかった。
翌日。彼は◯◯通信の会議室で面接を受けていた。面接官はマスター。
「きみの仕事ぶりは本社から見ていたよ。しかしここに流れ着いたとなると、中立ではいられなくなったんだな」
「両国から打ち寄せる荒波の間では、中立という浮き輪はあまりにも無力でした」
「それを捨てれば偏るしかなくなるぞ。それでもいいのか」
「私にどうして生きろと? 私は我が国、いや、彼の国に捨てられたんです。この新しい我が国に厄介になるしかありませんよ」
「ここで骨を埋める覚悟、と?」
「覚悟なんて大げさなものではありません。私は人としてはもう終わっている、ただそれだけです」
「きみの採用は見送るつもりだった。しかしどうやら私は良きパートナーを見つけてしまったようだ」
「……」
「本当に残念だよ」
「……」
「ようこそ、こちら側へ」




