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綱の上から  作者: 馬々通
10/12

裏切りと冒涜

 夢の実現に向け一歩ずつ着実に進む日々。エディターの人生がかくも充実していたことはなかった。

 本当に出版できるとなると俄然やる気が出るものだ。彼女はこれまでの趣味でも本気でライターの作品を翻訳してきたが、仕事ではそれ以上の責任が伴った。下手な誤訳をし作家の名誉を傷つけてはならない。彼女は出版までの残された時間を利用し、全身全霊で訳文をブラッシュアップしようとした。

 彼女がすでに訳文をほぼ完成させていることを知っているので、上司は彼女に通常通り、オンライン小説の翻訳をさせた。彼女はため息をついた。何も分かっていない、訳文を百パーセントに限りなく近づけるためには寸刻も惜しむべきではないのに、と。

 ポエムはライターのインタビューから戻った後、しばらくエディターを訪ねなかった。エディターは友の配慮がありがたかった。彼女は、神の魂を宿す肉体の特徴やその表面的な癖などは、作品の理解の妨げになるから絶対に知りたくなかった。

 退勤時間のチャイムが鳴ると、彼女は即座に席を立ち小走りで会社を出る。満員電車に揺られながらライターの処女作を器用に片手で開き、翻訳に工夫が必要な箇所の訳文を推敲する。スーパーに寄らず最寄駅から真っ直ぐ帰宅し、シャワーで外界の影響を洗い落とし、パンなどの箸やフォークを必要としない食べ物を片手に、新たな気分で小説の翻訳と向き合う。寝る直前まで集中力を絶やさず作業に没頭する。神の世界に片足を突っ込んだまま布団に潜り、夢の中で再びそこに戻る。すると翌朝、より良い訳文が自然と頭に浮かぶ。

 彼女はいわゆるゾーンに入ってしまったので、日常生活はおろか仕事にまで支障をきたすほどだった。

 会社では凡ミスを連発した。訳文は原文に引きずられた直訳調で、誤植も目立った。文化課の課長はサイトにアップされたそれを見逃さず、彼女を呼び出した。

「あなたがリーダーなんだから、ちゃんとチェックしてあげないと」

「すみません。その部分を担当したの、私です」

「らしくないわね。体調管理はできてる?」

「はい。今後は気をつけます」

 課長はあえて聞かなかったが、社員はみなエディターに何があったかを知っていた。

 彼女は最近、輝いていた。疲れていても目は明るく、うつむきがちだった顔も真っ直ぐ上げ、頬がほんのりと紅潮している。初々しく、ちょっとしたことでも笑みを浮かべ、恋する乙女のよう。妥協し望まぬ生活を送る大人たちは彼女に好感を抱き、できるだけサポートしてあげようと思った。

 オンライン小説翻訳チームのメンバーはミーティング中、彼女を励ました。

「エディターは休んでいて」

「あなたにはもっと重要な仕事があるんだもの。私たちが頑張らないと」

「エディターの翻訳小説の出版、楽しみにしているからね」

 課長も根は優しい人で、エディターの仕事ぶりに改善が見られないと、有給休暇の消化を促した。

「しっかり休んで元気だして」

 予期せぬ長期連休。彼女はなりふり構わず、神から己に与えられた試練に立ち向かった。彼女はトイレに立つ以外、ほとんど机の前から離れなかった。アパートの狭い部屋にはゴミが散らばり、夜になるとゴキブリが活発に動き回り、ページをめくるような音をたてた。

 たまにアパートを出ると、彼女は夢遊病者のようにふらつきながら歩き、横断歩道を辛うじて渡った。最寄りのスーパーの前まで来て、すでに営業時間を過ぎていることに気づいた。やけに冷えると思ったら、全身が雨でびしょ濡れになり、野良犬のような匂いを放っている。

 私ってやばい女じゃない? いいのよ、ついにここまで来ることができたんだから。

 シャワーを浴び、薄く化粧をし、一週間ぶりに仕事服に袖を通し、家を出る。ライターのために心身を捧げられた束の間の自由な日々に未練を残しつつ。

 彼女が社内を歩くと周りが言葉を失った。すれ違えば挨拶する仲の社員も「あっ」と言って立ち止まり、何を言うでもなく、彼女の離れゆく背中を見つめるだけだった。彼女が完全に視界から消えると、社員たちは「お気の毒に」とつぶやいた。

 文化課は葬式のような静けさだった。同僚たちは休暇を終えた彼女と目を合わせようともせず、忙しく働くふりをする。課長は打ち合わせで不在。やがて始業時間になる。

 十五分もすると、同じ文化課のファンキーはそろそろいいかと思い、彼女に声をかけに来た。

「残念なことになったけど、あまり落ち込む必要はないっすよ。あの作家に人を見る目がなかったんだから」

「?」

「あれ、ひょっとしてまだ聞いてませんか」

「なんのことかしら」

「いえ、あの、失礼します!」

 ファンキーが立ち去ると同時に課長が戻ってきた。エディターは不安になり、休暇明けのあいさつがてら、課長に何があったのかを聞きに行った。

「……例の小説の作家がね、翻訳者にポエムを指定したの」

 エディターは病院のベッドで目を覚ました。倒れた時に頭を打ったらしく、包帯が巻かれている。枕元には課長とポエムがいた。エディターは意志の力で身を起こし、ポエムの胸ぐらに掴みかかろうとしたが、課長に止められた。

「あなたを出し抜くような形になってごめんなさい」

 あの日の夜。ライターはポエムを彼の国の洒落たレストランに招待し、ワインを注文し、彼女にも飲ませた。仕事柄、常に創作の材料を求めている彼は、彼女に身の上話を求めた。酒で饒舌になった彼女はこう言った。

「その夜逃げした父が最近になって私の前に現れました。めっきり老けて。骨を折られたようで、足を引きながら。父はこう言いました。借金を返さなければ今度こそ殺されるって。とりあえず急ぎの分だけ私が肩代わりしましたが、まだたくさん残ってるんです。父は昔、私によくしてくれました。賭け事に手を出しさえしなければ本当はいい人なんです。私は借金を完済し、父を近くに呼び寄せたいんですが、今の会社の給料ではそれもいつになることか……」

 ライターは時おり自分の考えや助言を口にしながら、彼女の話を聞き終わった。

「それにしてもあなたはぼくらの言葉を流暢に話しますね」

 ポエムはやや棘のある声で、「え?」と聞き返した。

「いえごめんなさい。ただ勝手ながらこんなことを思ったんです。あなたはきっと文章も上手だから、ぼくの小説の翻訳者として適役なんじゃないか。ぼくの小説があなたの国で売れれば、あなたもその借金を返済できるんじゃないかって。これはぼくにとってもあなたにとってもいいことです」

「でも、でも……本当に私でいいんですか?」

「あなたがいいんですよ。ただ、ぼくはもっとあなたのことを知りたい。だから……」

 エディターはポエムの言い訳に完全に耳をふさいだ。しかし課長がしきりに眉をひそめるのが見えた。

 ついにポエムが帰った。エディターはベッドの毛布で顔をすっぽりと覆い、全身を震わせ泣くばかりだった。彼女の神が、親友によって、冒涜。

「傷が癒えるまでゆっくり休んで。無理して出社しなくてもいいから」と課長が言った。

 意外にもエディターはすぐ会社に姿を現した。家でじっとし気をもむよりは、今後の成り行きを近くで見守りたかったからだ。

 文化課の社員は一様に彼女に同情した。自分が叶えられなかった夢を託すように、彼女の成功を心から祈っていたからだ。トンビに油揚げをさらわれた彼女は悲劇のヒロインになった。

「友達を裏切っておいてのうのうと出社できるなんて」

「本当は翻訳なんてできないくせに。まぁお手並み拝見といこうかしら」

 エディターはそんな周りの声に反応せず、黙っていつもの仕事をし、ひたすら正しい訳文を作った。誤訳も誤植もなく、誰からも文句を言われないような。しかしそこからは感情が失われていた。わざとつまらなく翻訳しているのではと疑ってしまうような単調さだった。最上級のAI自動翻訳。

 課内の社員はライターやポエムについて口にしなくなった。それに関する話題がエディターを苦しめることを知っていたからだ。しかし翻訳出版の事業は着々と進んでいた。◯◯通信と提携する我が国の大手出版社は自社サイトやSNSで来年発売予定の、彼の国の実力派作家の処女作にして代表作である例の小説を大々的に宣伝した。エディターはそのキャッチコピーに失笑した。

 禁断の恋の物語? 恋愛要素なんかほとんどないだろう。

 彼の国社会の闇に光を当てる! って、ルポじゃないんだからさ。

 彼の国のイケメン作家が問う、彼の国で生きる意義とは? 作家だからってイケメンのハードルを下げるなよ。てかルックス関係ないし。

 彼女はそんな突っ込みを入れ、他人事として達観しようとしていた。

 いつまでも他人事ではいられなかった。◯◯通信の子会社である正しい声社も宣伝に協力するのは当然だ。社はサイトで、ポエムが翻訳した作品の冒頭部分を掲載することを決めた。その原稿は文化課の課長の元に回ってきた。課長はアップする前にエディターに心の準備をさせた。

「どうせ適当でデタラメな訳文です。そんなものライターとも私とも、なんの関係もありません」

 と知らぬふりを決め込もうとしたが、周囲は放っておかなかった。同じ翻訳チームの部下はパソコンの画面を見ながら「なにこれ」と大声を出し、会社のマウスをバンと叩きつけた。

「エディターの文章にそっくりじゃない!」

 それもそのはず。ポエムが以前エディターからもらった訳文を使ったのだから。

「ちょっとエディター見てよ」

 その部下は嫌がる彼女のパソコンを操作し、無理やりそれを見せた。冒頭の一文を視界に収めてしまった彼女の顔から血の気が引いた。次に、その目に殺意と狂気が宿った。彼女はもの凄い勢いで自分のバッグの中に手を入れた。その様を近くで見守っていた部下は、彼女が拳銃やナイフでも取り出しポエムを殺しに行くのではと恐れた。

 彼女が取り出したのは背割れし、ボロボロになった本だった。彼女は顔を小刻みに上下させ、本とパソコンに表示された訳文を見比べた。

「違う、違う、ここもあそこも違う、ぜんぶ違う!」

 ポエムがエディターの訳文を自分風にアレンジしたため、文体が乱れたり、意味が通らなかったり、完全な誤訳になっている箇所が散見した。彼女が何年もかけ、丹精を込めて築いた神聖な廟を、ポエムは乱暴にも一突きで崩してしまったのだった。

 翌日からエディターは会社に来なくなった。

 連絡がなく、退職扱いになった。

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