変わった我が国人たち
「きみのコードネームはニュートラルだ」と、マスターが言った。
「なぜかって? それがきみの仕事で必要になるからだ。己の感情を捨て中立的になるように」
「それからきみ。きみは……」
マスターは会議室に集まった新入社員に手際よくコードネームを付与していった。
「彼の国」の本社で初日の研修が終わると、「我が国」から来た五人の同期入社の社員たちは街に繰り出した。小綺麗で感じの良い居酒屋に入り、苦味の強いビールで喉を潤した五人は、改めて自己紹介する。
「おれはファンキー! SNS公式アカウントの中の人になります。どうぞよろしく!」
「私はリポーター。芸能とスポーツの取材をします。今から有名人に会えるのが楽しみ!」
「ぼくはクラシック。古典、歴史、民族文化などの紹介を任されました。やっと自分に合った仕事が見つかり、ほっとしています」
「わ、私はエディター。現代の小説を翻訳します。よ、よろしくお願いします」
ニュートラルはニュース記事の翻訳担当だ。三十代後半で最年長の彼は、彼の国の事業に携わることを決めた理由を語る。
「私は大学で彼の国語を専攻したのですが、それを活かせる職が見つからず、しばらく別の仕事をしていました。これといったスキルも身につかないうちに、不況の煽りでクビになり、妻子のある身でほとほと困り果てていたところ、ネットで今回の採用情報を目にしたわけです」
五人はあっという間に意気投合した。彼の国に関心がある、我が国に疑問があるという稀有な共通点があったからだ。
「私、彼の国からの帰国子女だからって、我が国ではずいぶん変な目で見られたの。陰湿な嫌がらせも受けたし」とリポーター。
「うちは母さんが彼の国人の父さんと離婚して我が国に戻ってきたんだけど、おれより母さんのほうが大変そうだったよ。ろくな仕事は見つからず、今も独身で」とファンキー。
「ぼくは小さいころから彼の国の歴史や文化に興味があったんだ。神秘的な雰囲気に魅了されて。そう友達に言ったら、我が国にだって歴史や文化はあるじゃないかって怒られたっけ」とクラシック。
「分かる分かる! 私も彼の国語なんか勉強して何の役に立つんだってよく馬鹿にされました」とニュートラル。
そこでしばし会話が途絶えた。自分のことを語り終えた四人は空になったグラスに手を添え、エディターに目を向ける。彼女は咳払いしてから、小さな声でこう言った。
「私は大学で彼の国文学を選んだのですが、我が国文学専攻の先輩から、彼の国に鑑賞に堪える文学作品なんて一つもないと断言されました」
エディターはまだ半分ぐらい入っているグラスを取り、飲み干した。彼女の声が次第に熱を帯びる。
「でも自分で勉強を続けるうちにそれが間違いだと分かりました。とりわけ彼の国の若い世代が書くものには、我が国にはない個性的で深みのある作品も少なくありません。私はこの事業によって、我が国の人に少しでも彼の国の人のことを、同じ時代に生きる同じ人間なんだって理解してほしいんです」
研修二日目の午前の講師はプリンスだった。彼の国のエリート一家で生まれ育ち、自身も一流大学を卒業しこの国営メディア「◯◯通信」に就職した彼は、我が国からやってきた落ちこぼれの五人組を見下した。
「すでに面接で聞いているとは思うが、きみらには上層部からの通達に従い、我々の国のポジティブな情報を自国に向け発信してほしい。きみらのマスコミが我々の国を公平かつ客観的に報じればいいのだが、そんなことには期待できないからな。きみらは自国のマスコミの偏向報道を是正し、本来あるべきバランスを取り、ひいては両国の相互理解と友好を促進する。我が国よりもきみらの国にとって有意義なことだから、気を引き締めて真剣に取り組むように」
平たく言えば、彼の国の我が国に対するプロパガンダに協力しろ、ということだ。
プリンスは緊張し固くなっている五人に早口でまくしたてる。彼の国で何不自由なく育った、絵に描いたような愛国者の彼は、自国の数々の優れた点を挙げることで、そんな自国を中傷する諸外国を批判した。ニュートラルはこの生意気な若者に反論したかったが、ここに来た時点でその資格はないと思い、奥歯を噛み締めぐっとこらえるしかなかった。
プリンスが会議室を去り休憩時間になっても、口を開こうとする者はいなかった。どこに盗聴器が仕掛けられているか分からず、またプリンスに気圧されたばかりで、自然に談笑するのも難しかったからだ。彼らは悶々と各自の思いにふけった。
次に会議室に現れたのは四十代女性だった。プリンスとは打って変わって感じの良い人で、主に給与、待遇、福利厚生について話をしてくれた。
勤務先は我が国の首都にある現地法人。給与はそこを通じ我が国の通貨で支払われる。年に一度の賞与が出る。昇給制度あり。一部の記者を除く一般社員の勤務時間は午前十時から午後七時まで。これは両国の間に一時間の時差があり、現地時間午前九時から始業する彼の国に合わせるためだ。残業は基本なし。勤務日と休日は彼の国の暦に準ずる。
希望者は勤務時間前に彼の国語会話講座を無料で受講できる。ドリンクバーあり。社員食堂では彼の国各地のバラエティ豊かな料理を味わえる。社員旅行や彼の国の年間行事などの楽しいイベントも充実。
一通り聞き終えたニュートラルは、「我が国に人為的に作られた、彼の国の閉鎖的なコミュニティのようだな」と思った。
午後は担当する業務別に研修が行われた。ニュートラルとエディターが小さな部屋に入ると、そこにはマスターがいた。
「ここに盗聴器の類はないから安心してくれ」
マスターは我が国人の五十代男性で、スキンヘッドにしていた。目の下がたるみ、鼻の下とあごに白いひげが生え、凄みがある。しかし声は至って穏やかだ。
「きみたちに実務経験は?」
「ありません。ただ、実用彼の国語技能検定の最高級に合格しました」とニュートラル。
「なるほど。きみは?」
「私もありません。ずっと趣味で彼の国語の小説を翻訳しているだけで」とエディター。
「それはいい。小説はぜひとも趣味で翻訳すべきだから。これからは仕事になるが、自分の楽しみのために翻訳することを忘れないでくれ。心配なのはニュートラルだな」
「どうしてですか? ビジネス彼の国語の読解力なら誰にも負けませんよ。しっかりした我が国語への翻訳もできますし」
「きみには最初に、感情を捨て中立的になれと言ったが、あれは実際にはちょっと違ってね。この仕事に慣れれば自ずと我が国人、いや、人としての感情が失われていき、中立的という浮き輪にしがみつかなければ溺れてしまうようになる。そんな状況にきみは耐えられるか、私はそれが気がかりなんだ」
「仕事では、我が国にとって耳が痛いことを翻訳せざるを得ない場合もある、ということですね」
「それもあるが……」
「私には特別な思想傾向はありません。右でも左でもなく、ただ彼の国を誤解もしない、変わった我が国人なだけです。私は単純に、大学で学んだ彼の国語を使う仕事ができ、しかも平均的な我が国人を上回る給料をもらえ、それで一家の生活を維持できれば御の字なんです。多少嫌なことがあっても目をつぶりますよ」
二日目の研修が終わると、同期の五人は昨日と同じ居酒屋に集い、本日の印象を語った。
「あのプリンスって男ほんと嫌な感じ!」とリポーター。
「明日からの研修旅行の引率が女性のほうで助かったよ」とクラシック。
「でも国民の祝日に休めないって地味にキツいな。季節感もクソもない!」とファンキー。
「……いよいよ非国民じみてきましたね」エディターがぼそりとつぶやき、薄笑いを浮かべた。
その不気味な一言で場がかえって和んだ。五人の間で共犯意識が生まれた瞬間だった。
「みんな午後はどんな内容だったの?」とニュートラル。
「古典研究の権威と呼ばれる教授が来てくれて、たいへんためになる話を聞かせてもらえました」とクラシック。
「おれは彼の国の生活情報の投稿を任されたけど、責任が軽くて助かりました。政治関連だとちょっとした間違いで首が飛ぶかもしれませんから」とファンキー。
リポーターは先輩記者から聞いた、彼の国の芸能人に関する話を口にした。表では愛国者ぶりお堅いイメージだが、裏では我が国に好意を示してくれる人もいるそうだ。五人は「なんだ自分たちと同じではないか」と安心した。
研修旅行では、彼の国の有名な観光地や都市をめぐった。旅行先で目にする彼の国の一般人は皆ほどほどに豊かで、現状に満足しており、我が国のメディアが盛んに喧伝する「政府の強権」「国民の抑圧」「貧困問題」などは影も形もなかった。五人は彼の国への見聞を大いに広げ、帰国の途についた。