4話:ブレイバー②
水場の近く、石のベンチに腰掛けたサーシャの声が、風に溶けるように途切れた。
彼女の青い瞳は、地面に落ちたまま、まるでクレスト神国の重い秩序に押し潰されるかのようだった。
包帯に覆われた頬が、陽光の下で痛々しく白く映る。
ブレイバーは、彼女の隣に立ち、雷鳴を宿す瞳で虚空を見つめていた。
貴族社会の価値観――芸術至上主義、貴族の神聖性、平民の道具としての役割。
それらは、サーシャの傷を正当化し、バルド・ヴァルドの傲慢を許す土壌だった。
「貴方の意見もわかる。だけど、私も、結局はその一部なのよ」
彼女は、疑問を感じながらも、その秩序を受け入れていた。だが、ブレイバーの心は、受け入れることを拒否していた。
彼は、戦場でテロリストを一掃し、民衆の希望を灯した。神の使徒として、戦場のアイドルとして、彼は輝くことを求められた。だが、今、彼の戦いは、もっと個人的なものだった。
彼女の青い瞳に宿る翳り。そして、平民として蔑まれる自分自身の存在。
ブレイバーの拳が、静かに握られる。
彼の声が、怒りの予兆を帯びて響いた。
「サーシャ、君は本当にそれでいいのか? この世界の価値観が、君を傷つけ、平民を道具と呼ぶことを許す。それでも、ただ受け入れるだけでいいのか?」
サーシャの瞳が、ブレイバーを見上げる。
その青い瞳には、葛藤が渦巻いていた。
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「ブレイバー、貴族の価値観は、クレスト神国の根幹なの。芸術は神の意志を体現し、貴族は神の血を引く者として、その美を追求する。それが、私たちの世界のルールよ。平民が……道具とされるのは、確かに残酷だと思う。あなたのことも、初めて会った時、ただの平民として見下す人たちがいるってわかってた。それでも、私には変えられない。この秩序は、誰も抗えないものなの」
彼女の声は、静かだが、重かった。
それは、貴族として生まれ、ヴァルド家の許婚として縛られた者の諦観だった。彼女の包帯が、微かに揺れる。バルドの暴力もまた、この秩序の一部として、彼女は受け入れていた。
ブレイバーの胸が、軋んだ。
彼は、サーシャの言葉の裏に潜む痛みを感じ取った。
彼女は、疑問を抱きながらも、その疑問を押し潰し、従うことを選んだ。
だが、ブレイバーは違う。
「抗えない? それは、君がそう思い込んでいるだけだ。サーシャ、君は自分の傷を『仕方ない』と受け入れた。だが、俺は違う。俺は、平民として生まれ、貴族に蔑まれても、立ち上がることを選んだ。神の使徒として選ばれたからじゃない。俺自身を守るためだ。君を守るためだ」
ブレイバーの声は、まるで戦場を切り裂く雷のようだった。
サーシャの瞳が、大きく見開かれる。
彼女の手が、包帯に触れる。
その指が、細かく震えていた。
「自分を守る……? ブレイバー、あなたはバルドに決闘を挑んだ。貴族の肉体は、平民とは違う。魔力の流れ、身体の強さ、すべてが……あなたは、殺されるかもしれないのに。私のために戦うなんて、愚かすぎる!」
サーシャの声は、怒りと不安に震えていた。しかしブレイバーの瞳は、なおも揺れなかった。
彼は、一歩踏み出し、サーシャの前に立つ。その姿は、まるで戦場で神剣を掲げる英雄のようだった。
「愚かでもいい。サーシャ、君が傷つけられ、泣き寝入りする姿を見せられた俺は、黙っていられない。貴族の価値観が、君を縛り、俺を道具と呼ぶなら、俺はその価値観に刃を叩き込む。自分を守るためにも、君を守るためにも、俺は立ち上がるべきなんだ」
彼の言葉は、静かだが、魂の奥底から響く声だった。
サーシャの瞳が、潤む。
彼女は、貴族として生まれ、秩序に縛られた者として、立ち上がることを知らなかった。だが、ブレイバーの言葉は、彼女の心に小さな波紋を広げた。
「ブレイバー……あなたは、なぜそんなに強いの。私には、そんな勇気はないのに」
彼女の囁きは、風に溶けた。
ブレイバーは、微笑んだ。
サーシャの唇が、僅かに震える。
彼女は、ブレイバーの決意の深さを理解しながらも、その無謀さに戸惑っていた。
バルド・ヴァルドへの決闘は、平民であるブレイバーが貴族の肉体に挑む、命懸けの戦いだ。
彼女の青い瞳が、ブレイバーを捉える。
その声は、か細く、しかし切実だった。
「どうして、出会って間もない私を助けようと?」
サーシャの言葉は、まるで彼女自身の存在を疑うかのようだった。貴族の娘として生まれ、ヴァルド家の許婚として縛られた彼女は、誰かに救われる価値などないと、どこかで思い込んでいた。
ブレイバーの瞳が、サーシャを見つめる。
その視線は、どこか温かかった。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「君が俺を助けてくれたからだ。そこに大小はない。その心が大切なんだ」
その言葉は、静かだが、まるで雷が天地を裂くように響いた。
サーシャの瞳が、大きく見開かれる。
彼女の脳裏に、あの日の記憶が蘇る。
水場で制服を洗うブレイバーの姿。
インク落としの瓶を差し出した自分の手。
『だって、可哀想じゃない。平民というだけで馬鹿にされるなんて』
あの時、彼女はただ、ブレイバーの屈辱を少しでも癒したかった。それは、貴族社会の冷酷な視線の中で、彼女にできる小さな反抗だった。
ブレイバーは、その小さな優しさを、決して忘れなかった。
彼の言葉が、サーシャの心を突き刺す。
彼女の手が、包帯に覆われた頬に触れる。
その指が、細かく震えていた。
「でも……私のしたことなんて、ほんの小さなことよ。あなたは命を懸けてバルドに挑もうとしている。そんなの、釣り合わない……!」
サーシャの声は、涙に濡れていた。
彼女は、ブレイバーの決意を理解しながらも、その重さに耐えきれなかった。
ブレイバーは、微笑んだ。
「釣り合うかどうかは、俺が決める。サーシャ、君の心は、俺に希望を与えた。平民として蔑まれ、貴族の道具と呼ばれるこの世界で、君は俺を『人』として見てくれた。その心が、俺をここまで動かしたんだ」
サーシャの瞳が、潤む。
彼女は、貴族として生まれ、秩序に縛られた者として、自分の小さな行動がブレイバーにこれほどの影響を与えたとは思わなかった。彼女の心に、初めての温もりが広がる。だが、同時に、恐怖が彼女を締めつけた。
「ブレイバー……もし、あなたがバルドに負けたら……私は、どうすればいいの?」
「負けない。俺は、神の使徒として、戦場のアイドルとして、民衆の心を掴むために戦う。だが、今、俺はただのブレイバーとして、君のために戦う。君の心を守るために、俺はバルドを討つ」
サーシャの瞳が、ブレイバーを見つめる。その青い瞳には、不安と、しかし僅かな希望が宿っていた。
彼女は、なおも貴族社会の秩序に縛られていた。だが、ブレイバーの言葉は、彼女の心に小さな灯を響かせた。
「ブレイバー……お願い、死なないで」
彼女の声は、か細かった。
ブレイバーは、頷いた。
「死なない。俺は、君のために勝つ」
決闘の場が、彼を待っている。
バルド・ヴァルドを討ち、サーシャを救うために。そして、貴族の価値観に、一撃を刻むために。