3話:ブレイバー①
戦場の雷鳴から一夜明け、ブレイバーの足取りは軽かった。テロリストを一掃し、平民の軍人たちから讃歌を浴びた記憶が、彼の心に僅かな熱を灯していた。
神の使徒として、戦場のアイドルとして、彼は民衆の心を掴んだ。
その輝きは、貴族社会の冷笑を一瞬だけ忘れさせるほどだった。
学園の白亜の尖塔が、朝陽を浴びて輝く。
ブレイバーは、いつものように講堂へと向かった。
豪華な鎧はなく、簡素な制服に身を包んだ彼の姿は、平民の出自を静かに物語っていた。しかしその瞳には、雷鳴の残響が宿っていた。
講堂に足を踏み入れた瞬間、彼の視線は、ひとりの少女に釘付けになった。
サーシャ・ハヤミ。
長い黒髪と青い瞳のお嬢様。
彼女の顔は、半分が包帯とガーゼで覆われていた。その白い布は、まるで彼女の気品を汚す傷のように、ブレイバーの胸を刺した。
彼の足が、思わず止まる。
サーシャの青い瞳が、彼を捉えた。その瞳は、いつもと変わらぬ温かみを帯びていたが、どこか翳りを宿していた。
「何があった?」
ブレイバーの声は、静かだが、抑えきれぬ懸念が滲んでいた。
サーシャは、僅かに微笑んだ。
その笑みは、まるで痛みを隠す仮面のようだった。
「何でもない。大丈夫だから」
彼女の声は、軽やかだった。だが、その軽さは、ブレイバーの心に重く響いた。彼女の言葉は、まるで彼を遠ざける壁のように感じられた。
「……そうか」
ブレイバーは、それ以上問い詰めなかった。彼の瞳は、サーシャの包帯に一瞬だけ留まり、すぐに逸らされた。だが、彼の胸の奥で、何かが軋んだ。
サーシャの笑みは、彼に初めての温もりを与えたものだった。
『可哀想じゃない。平民というだけで馬鹿にされるなんて』
彼女の言葉は、戦場の孤独の中で彼を支えた光だった。
その彼女が傷ついている。
ブレイバーの拳が、静かに握られる。
彼は、サーシャの痛みを共有することはできなかった。だが、彼女を傷つけた者を許すことは、できなかった。
ブレイバーは、サーシャを問い詰める代わりに、静かに情報を集め始めた。学園の廊下、貴族たちの囁き、平民の使用人たちの怯えた視線。
彼は、雷鳴を宿す瞳で、それらを一つ一つ拾い上げた。貴族社会の表面は、芸術と気品に彩られている。だが、その裏には、冷酷な序列と暴力が潜んでいた。
やがて、断片的な情報が一つの真実を形作った。
サーシャの許婚、バルド・ヴァルド。
ヴァルド家は、クレスト神国でも有数の名門貴族。その後継者であるバルドは、傲慢と残忍さで知られていた。
彼の手が、サーシャの顔に傷を刻んだ。
理由は、些細なものだった。
サーシャが、ブレイバーにインク落としを渡したこと。平民に施しを与えたことが、バルドの誇りを傷つけたのだ。
「平民ごときと関わるなど、ヴァルド家の名に泥を塗る」
その言葉が、貴族たちの間で囁かれていた。
ブレイバーの胸に、怒りが燃え上がった。それは単なる怒りではなかった。サーシャの傷は、彼女の優しさの代償だった。彼女がブレイバーに示した温もり――平民というだけで蔑まれる彼への共感――が、彼女を傷つけたのだ。
彼の雷鳴は、戦場では民衆の希望を灯した。だが、今、彼の心は、別の炎で燃えていた。
バルド・ヴァルド。
その名は、ブレイバーの魂に刻まれた。
ブレイバーは、静かに決意した。
バルド・ヴァルドを討つ。だが、それは単なる復讐ではない。
サーシャを救うため。そして、貴族社会の冷酷な秩序に、一撃を叩き込むため。
クレスト神国では、決闘は貴族の嗜みだった。
芸術としての剣戟、魔力の競演。平民であるブレイバーが、貴族に決闘を挑むこと自体、掟破りだった。
だが、彼は神の使徒だ。
戦場のアイドルとして、民衆の心を掴む存在。
彼の雷魔法は、貴族の洗練された芸術を凌駕する力を持っていた。バルドを討つことは、サーシャを救うだけでなく、平民の誇りを示す機会でもあった。
ブレイバーの瞳に、雷鳴が宿る。
彼の心は、なおも揺れていた。
神の使徒として戦うことは、正しいのか。
サーシャを救うことは、彼女の望むことなのか。だが、彼は振り払った。戦場でテロリストを一掃したように、今、彼は自らの道を切り開く。
神剣を握る手が、静かに震える。
「バルド・ヴァルド。貴様を討つ」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。学園の廊下は、まるで貴族の傲慢を凝縮した回廊だった。白亜の壁に刻まれた装飾、絹のカーテン、貴族たちの囁き。
すべてが、ブレイバーを異物として拒絶する。
彼の足音は、静かだが、怒りの予兆を孕んでいた。
バルド・ヴァルドの教室は、学園の最上階にあった。そこは、貴族の中でも選ばれた者たちが集う聖域。平民のブレイバーが足を踏み入れること自体、冒涜に等しかった。
扉を開けた瞬間、奇異の視線が彼を突き刺した。貴族たちの瞳は、嘲笑と敵意、そしてほんの一握りの好奇心を帯びていた。
教室の中央に、バルド・ヴァルドがいた。
金髪を優雅に撫でつけ、深紅の制服に身を包んだその姿は、貴族の気品を体現していた。
だが、その瞳は、冷たく、残忍だった。
ブレイバーの存在を一瞥しただけで、彼は鼻で笑った。
「なんだ。貴様」
バルドの声は、まるで虫を払うような軽蔑に満ちていた。教室に集う貴族たちの笑い声が、波紋のように広がる。
ブレイバーの胸が、僅かに軋む。しかし、だが、彼の瞳は揺れなかった。雷鳴を宿すその視線は、バルドを真っ直ぐに捉えた。
彼は、サーシャの顔を覆う包帯を思い出した。彼女の青い瞳、僅かな笑み、そして「何でもない」という言葉。その裏に隠された痛みが、ブレイバーの心に火を灯す。
「お前がサーシャさんの顔に傷を与えたのか?」
彼の声は、静かだが、雷の刃のように鋭かった。
教室の空気が、一瞬にして凍りついた。貴族たちの囁きが止まり、バルドの眉が僅かに上がる。そして、彼は笑った。その笑みは、まるで獲物を弄ぶ獣のようだった。
「あん? サーシャ? ああ、あいつの顔は殴りやすいからな」
バルドの言葉は、軽薄で、しかし底知れぬ残酷さを帯びていた。貴族たちの笑い声が、再び響き合う。
サーシャの傷を、まるで娯楽のように語るその態度に、ブレイバーの拳が握られた。
彼は怒りを爆発させなかった。戦場のアイドルとして、神の使徒として、彼は民衆の心を掴むために存在する。そして今、サーシャを救うために、彼はここにいるのだから。
「そうか」
ブレイバーの声は、静かだった。
その静けさは、嵐の前の静寂だ
彼は、ゆっくりと手を伸ばし、ポケットから革の手袋を取り出した。
貴族たちの視線が、疑惑と嘲笑に変わる。
ブレイバーは、手袋をバルドの足元に投げつけた。
それは、クレスト神国の貴族社会における決闘の宣戦布告だった。
教室に、緊張の波が広がる。
「決闘だ。貴方の持っているもの全てを賭けてもらう」
ブレイバーの声が響いた。
貴族たちのざわめきが、驚愕に変わる。
平民が、貴族に決闘を挑む。
それは、クレスト神国の秩序を揺るがす行為だった。
バルドの瞳が、初めて真剣にブレイバーを捉えた。だが、その口元には、なおも嘲笑が浮かんでいた。
「何? 嫌だね、そんなの」
バルドの声は、軽薄だった。
彼は、手を振ってブレイバーを払うように笑った。貴族たちの笑い声が、教室を満たす。
ブレイバーは尚も堂々としている。
一歩踏み出した。雷鳴が、まるで彼の背後に響くかのようだった。
「平民から逃げるのか? 貴族もたいしたことないな」
その言葉は、まるで雷が教室を切り裂くように響いた。バルドの笑みが、凍りついた。貴族たちのざわめきが、静寂に変わる。
ブレイバーの煽りは、バルドの誇りを直撃した。
ヴァルド家の後継者として、貴族の名誉を背負う彼にとって、平民からの挑発は許されざる侮辱だった。
バルドの瞳に、怒りの炎が宿る。
「貴様……!」
彼の手が、剣の柄に伸びる。ブレイバーは動じない。
サーシャの傷。
彼女の笑み。
そして、平民として蔑まれる自分自身の存在。すべてが、彼の決意を燃え上がらせていた。
「決闘の場で、貴様の傲慢を砕く」
「身の程知らずが」
神の使徒として、戦場のアイドルとして、そしてサーシャを救う者として。
ブレイバーは宣戦布告した。
学園の裏庭、陽光が木々の隙間を縫って地面にまだらな影を落とす。水場の近く、ひっそりと佇む石のベンチに、ブレイバーは一人で立っていた。
バルド・ヴァルドへの決闘の宣戦布告は、すでに学園中に波紋を広げていた。
平民が貴族に挑む――それは、クレスト神国の秩序を揺さぶる冒涜だった。
彼の瞳には、雷鳴が宿っていた。
サーシャの顔を覆う包帯。
彼女の青い瞳に潜む翳り。
そして、バルドの軽薄な嘲笑――「あいつの顔は殴りやすいからな」。
その言葉が、ブレイバーの魂に火を灯していた。
神の使徒として、戦場のアイドルとして、彼は民衆の心を掴むために存在する。だが、今、彼の戦いは、もっと個人的なものだった。
サーシャ・ハヤミ。
彼女の温もりが、彼の孤独な心に初めて触れた。その彼女を傷つけた者を、許すことはできなかった。 背後から、急ぎ足の音が響いた。
振り返ると、そこにはサーシャがいた。長い黒髪が風に揺れ、顔の半分を覆う包帯が、陽光の下で痛々しく白く輝く。
彼女の青い瞳は、怒りと不安に揺れていた。ブレイバーが口を開く前に、彼女の声が鋭く響いた。
「正気ですか! 殺されますよ!」
その言葉は、まるで雷鳴を切り裂く刃のようだった。
サーシャの声には、怒りと同時に、抑えきれぬ心配が滲んでいた。
彼女の手が、ブレイバーの腕を掴む。
その指は、細かく震えていた。
ブレイバーの瞳が、サーシャを見つめる。彼女の包帯の下、隠された傷が、彼の胸を締めつけた。
「いくら神の使徒でも勝てません! 平民と貴族は、その肉体構成がそもそも違うんです!」
サーシャの声は、切迫していた。彼女の言葉は、クレスト神国の冷酷な真実を突きつける。
貴族は、神の血を引くとされる存在。
その肉体は、魔力の流れを最適化し、常人を超えた力を宿す。
平民は、所詮、道具。
肉体も、魂も、貴族に劣るとされる。
サーシャの瞳には、ブレイバーを失う恐怖が宿っていた。だが、ブレイバーの表情は、なおも揺れなかった。
彼は真っ直ぐと見つめる。
「勝つ負けるではなく、ここで動かなければ私ではない。神の使徒でなくとも、俺は君のために戦っただろう」
その言葉は、静かだが、雷の如く確固とした意志を帯びていた。
サーシャの瞳が、大きく見開かれる。
彼女の唇が、震えた。
ブレイバーの言葉は、彼女の心を突き刺した。
彼は、神の使徒としてではなく、ただのブレイバーとして、彼女のために戦うと言った。
その純粋さが、サーシャの胸を締めつける。
「ば、ばか! 私なんかのために!」
サーシャの声は、怒りと涙が混じっていた。
彼女の手が、ブレイバーの腕を強く握る。
彼女の青い瞳が潤んでいた。彼女は、貴族の娘でありながら、平民であるブレイバーに共感を示した。
その小さな優しさが、彼女に傷を負わせた。
ブレイバーの心に、サーシャの痛みが響く。
彼は、彼女の傷を、まるで自分のもののように感じていた。
「殴られて泣き寝入りする場面を見せられて、黙っていられない」
ブレイバーの声は、静かだが、抑えきれぬ怒りを帯びていた。
彼の拳が、握られる。
サーシャの傷は、単なる肉体の痛みではない。それは、貴族社会の冷酷さ、平民を蔑む秩序の象徴だった。
ブレイバーは、神の使徒として選ばれた。
戦場のアイドルとして、民衆の心を掴むために。だが、今、彼の戦いは、もっと深いところに根ざしていた。
サーシャを救うこと。そして、人間としての誇りを、貴族の傲慢に叩きつけること。
サーシャの手が、ブレイバーの腕から離れる。
彼女の瞳は、なおも不安に揺れていたが、そこには、僅かな光が宿っていた。
ブレイバーの決意が、彼女の心に届いたのだ。
「ブレイバー……」
彼女の囁きは、風に溶けた。
ブレイバーは、振り返らずに歩き出した。
彼の背には、雷鳴が響いていた。
決闘の場が、彼を待っている。
バルド・ヴァルドを討ち、サーシャを救うために。
そして、クレスト神国の秩序に、雷の一撃を刻むために。