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一話:神のご意思

 静謐。

 それは、世界が息を潜めるような、深遠なる沈黙だった。天穹は無窮の蒼を湛え、どこか遠く、人の手の届かぬ高みで、存在そのものが脈打っていた。


 その中心に立つ少年は、名を持たぬ平凡な魂。否、平凡であるがゆえに選ばれた魂。

 彼の前には、神と呼ぶべき存在が在った。光とも闇ともつかぬ、ただ圧倒的な「何か」。言葉を超えた威光が、そこにはあった。


「よく来たね。さっそく用件だけど、君には神の使徒になってもらいたい」


 声は柔らかく、しかし抗えぬ重みを帯びていた。

少年の瞳が揺れる。驚愕も、恐怖も、歓喜も、そこにはまだ形を成さず、ただ純粋な「受容」が彼の心を満たしていた。

 神の言葉は、まるで運命そのものが少年の肩に降り注ぐかのようだった。


「はい」


 短く、しかし迷いのない返答。

 少年の声は、どこか自分自身を確かめるような響きを持っていた。

 彼は知っていた。この瞬間が、己の人生を永遠に変える分岐点であることを。


「何故か、と言われればこちらの選定要項に合致したからだ。その顔とルックスに派手な雷魔法。民衆の共感を得られやすい平民という出自と、真面目に生きる誠実さ。凄く良い」


 神の声は、まるで少年の存在を解体し、吟味するように響く。

 顔。出自。魔力。誠実さ。

 それらは少年を形作る欠片であり、しかし神の目には、ただの道具として映るのか。

 いや、少年は感じていた。

 この言葉の裏に、冷徹な計算を超えた「期待」が潜んでいることを。

 神は、少年をただの駒とは見ていない。


「光栄です」


 少年の声は静かだった。だが、その奥には、燃えるような決意が宿り始めていた。

 光栄。それは、選ばれたことへの感謝か、それとも己を試す運命への覚悟か。

 少年自身にも、その答えはまだ朧げだった。


「君に与えるのは不老不死の肉体と、莫大な魔力だ。仕事をしてくれる限り、金も女もなんでも与えよう」


 神の言葉は、あまりにも直截だった。

 不老不死。魔力。富。欲望。

 それらは人間の心を惑わす甘美な果実であり、しかし少年の心は、なお揺らがなかった。

 彼の瞳は、ただ神を見つめていた。

 与えられるものよりも、与えられる「意味」を、彼は求めていたのかもしれない。


「嬉しいです」


 その言葉は、どこか空虚に響いた。

 嬉しい。だが、それは本心か。少年の胸の奥では、喜びと同時に、名もなき不安が芽生えつつあった。

 不老不死の肉体は、果たして祝福か、それとも呪いか。

 彼はまだ、知る由もなかった。


「君に求める仕事は、アイドル……神の広告塔だ。人間達に神の威光を分かりやすく伝えること。それが君の役目だよ」


 アイドル。

 その言葉は、少年の心に奇妙な波紋を広げた。神の威光を伝える使徒が、なぜ「アイドル」と呼ばれるのか。

 それは、崇高なる使命か、それとも俗なる仮面か。

 少年の脳裏に、民衆の歓声と、神の視線が交錯する。

 彼は、その狭間で何を為すべきなのか。


「承知しました」


 少年の声は、なおも静かだった。だが、そこには確かな意志が宿っていた。

 彼は知っていた。この道が、己をどこへ導くのかはわからない。

 それでも、彼は歩むことを選んだ。

 神の使徒として。アイドルとして。


「ありがとう。では、新しい名前を与えよう。そうだな、ブレイバー、今から君はそう名乗りなさい」


 ブレイバー。

 その名は、少年の魂に刻まれた。

 名は呪いであり、祝福であり、運命の楔だった。

 少年――いや、ブレイバー――は、静かに目を閉じた。その瞬間、世界が僅かに色を変えた。

 彼の背後で、雷鳴が轟くかのような幻聴が響く。


「ブレイバー。拝命します」


 少年は、ブレイバーとして生まれ変わった。

 神との対話は終わり、彼の物語は始まる。

 その先に待つのは、栄光か、破滅か。

 あるいは、まったく別の何かか。

 ブレイバーの瞳は、ただ前を見据えていた。



 空気は重く、まるで無数の視線が織りなす網に絡め取られるようだった。

 クレスト神国の学園――白亜の尖塔が天を穿ち、陽光を冷たく反射するその姿は、神の威光を誇示する碑であり、同時に貴族の傲慢を象徴する牢獄だった。

 その中心に、ブレイバーは立っていた。

 男として。

 神の使徒として。

 平民の血を引く者として。

 彼の背は真っ直ぐで、雷鳴を宿す瞳は、揺らぐことなく前を見据えていた。だが、講堂に集う貴族の子女たちの視線は、まるで彼を解体するかのように鋭かった。

 絹の衣装に身を包み、宝石で飾られた彼らの姿は、ブレイバーの簡素な装いと対照的だった。

 その差は、単なる外見以上のものを示していた。

 貴族と平民。支配と従属。神の使徒と、ただの「道具」。

 彼らの囁きは、毒を含んだ風のようにブレイバーを包む。


「平民が神の使徒?」

「神も見る目がないものね」

「雷魔法? ただの派手な見世物でしょ」


 値踏みする声と視線が、ブレイバーの全身を舐め回す。だが、彼の心は動じなかった。いや、動じないと決めたのだ。神から与えられた名と使命を、彼はすでに己の骨髄に刻み込んでいた。


「はじめまして。神の使徒であるブレイバーです。よろしくお願いします」


 その声は、静かでありながら、講堂の空気を切り裂いた。まるで雷が一瞬にして雲を裂くように、ブレイバーの言葉は貴族たちのざわめきを沈黙させた。

 彼の瞳は、誰とも交わらず、ただ真っ直ぐに前を見ていた。

 そこには、屈辱も、誇示もなかった。

 ただ、己を肯定する意志だけがあった。

 だが、沈黙は一瞬だった。

 貴族たちの嘲笑が、まるで群れを成す鳥の羽音のように再び響き始める。


「神の広告塔? 滑稽だわ」

「平民ごときが、この学園に立つなんて」

「神の使徒? ふん、せいぜい道化として楽しませてくれると良いわね」


 ブレイバーは、ただ黙ってそれを受け止めた。

 彼の胸の奥で、何かが燻っていた。

 それは怒りか、決意か、それともまだ名前のない何かか。

 講堂の中央に立つ教官が、厳かに手を挙げる。

 授業が始まった。

 その声は、まるで古の経典を読み上げるかのように、重々しく響いた。


「クレスト神国。この国は、神の意志と貴族の血によって成り立っている」


 ブレイバーの耳に、教官の言葉が刻まれる。

 クレスト神国。

 貴族社会。

 魔法文明。

 そして、芸術主義。


「戦いは醜い。血と泥に塗れた蛮行は、神の威光に背くものだ。この国では、芸術こそが尊い。魔法は、ただの道具ではない。それは、神の美を体現する術であり、貴族のみがその真髄を極めることを許される」


 教官の視線が、一瞬、ブレイバーを捉えた。

 そこには、明らかな軽蔑があった。


「平民は、貴族の所有物だ。戦いの道具であり、神の意志を体現する貴族を支える存在に過ぎない」


 講堂に集う貴族たちが、くすくすと笑う。

 彼らの視線は、ブレイバーを突き刺す。

 平民。道具。神の使徒という名は、彼らにとってただの皮肉でしかなかった。

 ブレイバーの拳が、僅かに握られる。だが、彼の顔には、なおも感情の揺らぎはなかった。

 彼は知っていた。

 この場で怒りを爆発させれば、それは彼らの思う壺だ。神の使徒として、アイドルとして、彼に求められているのは、ただ耐えることではない。

 民衆の心を掴み、神の威光を伝えること。

 そのために、彼はここにいる。

 彼の雷魔法は、ただの派手な見世物ではない。

 それは、神の意志を体現する力であり、彼自身の魂の証明だった。

 ブレイバーの瞳が、静かに燃え上がる。

 貴族たちの嘲笑を、視線を、軽蔑を、彼は受け止める。そして、それを力に変える。


 学園の訓練場は、まるで神の審判の場だった。

 広大な円形の場は、白亜の柱に囲まれ、貴族たちの魔法が放つ光と音が、空気を震わせていた。

 クレスト神国の魔法は、ただの戦闘技術ではない。

 それは芸術だった。

 貴族の嗜みであり、神の美を体現する行為。優雅に、洗練された魔力の流れが、まるで絵画のように場を彩る。だが、ブレイバーはその中心に立っていた。

 平民の出自を背負い、神の使徒という名の重みを抱え、雷鳴を宿す瞳で。


 彼の存在は、この場において異物だった。貴族たちの視線は、嘲笑と好奇、そしていくばくかの不安を孕んでいた。

 訓練の開始を告げる教官の声が響く。


「魔法とは、神の意志を映す鏡だ。貴族たる者、その美を極めなさい。平民は――」


 教官の目は、一瞬、ブレイバーを捉えた。


「――その道具として、役目を果たせばよい」


 ブレイバーは、静かに息を吐いた。

 彼の手に、雷が宿る。

 それは、貴族たちの洗練された魔法とは異なる、荒々しく、奔放な力だった。

 訓練の順番が彼に回ってきた。

 貴族たちの視線が、彼を突き刺す。期待と軽蔑が交錯する中、ブレイバーは一歩踏み出した。

 瞬間、天地が裂けた。

 雷鳴が轟き、訓練場を白熱の光が覆う。

 ブレイバーの雷魔法は、まるで神の怒りを体現するかのように激しかった。地面が焦げ、空気が震え、貴族たちの優雅な魔法が一瞬にして色褪せるほどの圧倒的な力。

 それは、この場にいる誰よりも鮮烈で、誰よりも破壊的だった。だが、その輝きは、貴族たちの心を動かすには至らなかった。


「下品だわ」

「野蛮な力ね」

「あんなものは芸術ではない。ただの暴力よ」


 貴族たちの声が、冷たく響く。一部の者は、その力に息を呑み、認めるような視線を投げた。しかし、大多数は彼を否定した。

 平民の魔法は、所詮、道具に過ぎない。

 ブレイバーは、黙ってそれを受け止めた。

 彼の拳は握られ、胸の奥で燻る感情を押し殺した。

 神の使徒として、アイドルとして、彼は耐えることを選んだ。だが、その瞳の奥には、静かな炎が燃えていた。


 訓練が終わり、汗と焦げ臭さにまみれたブレイバーは、控室へと向かった。体操着から制服に着替えようとしたその瞬間、彼は凍りついた。

 彼の制服――簡素ながらも神の使徒としての誇りを象徴する衣――には、赤と黒のインクで落書きがされていた。

「平民」「道具」「道化者」


 無数の侮辱が、まるで彼の存在を否定する呪いの言葉のように、布地に刻まれていた。

 ブレイバーの指が、僅かに震えた。だが、彼は声を上げなかった。怒りを爆発させることも、涙を流すこともなかった。

 彼はただ、制服を手に取り、黙って外の水場へと向かった。

 昼休み。

 学園の裏庭にひっそりと佇む水場は、静寂に包まれていた。

 ブレイバーは、冷たい水をかけて制服を洗い始めた。

インクが水に溶け、赤と黒の汚れが流れ落ちる。だが、その行為は、まるで彼自身の屈辱を洗い流すかのようだった。

 彼の心は、静かだった。いや、静かであることを強いていた。神の使徒として、アイドルとして、彼は民衆の心を掴まねばならない。

  そのために、こんな小さな侮辱に屈するわけにはいかなかった。

 水音だけが、静寂を破る。

 その時、背後から足音が聞こえた。

 ブレイバーが振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。長い黒髪が風に揺れ、青い瞳が陽光を映して輝く。彼女のドレスは、貴族の気品を漂わせていた。

 お嬢様。

ブレイバーの胸に、警戒の波が広がる。


「君は?」


 ブレイバーの声は、静かだが鋭かった。

 少女は、柔らかく微笑んだ。その笑みは、貴族の嘲笑とは異なる、温かなものだった。


「サーシャ・ハヤミ。サーシャって呼んで。これ使って。インク落とし買ってきたから」


 彼女の手には、小さな瓶が握られていた。

 ブレイバーは、一瞬、言葉を失った。

 なぜ、貴族の少女が、平民である自分にこんなことを?

 彼の瞳に、疑念と驚きが交錯する。


「ありがとう。しかし、なぜこれを?」


 彼の声には、わずかな棘があった。

 この世界で、貴族が平民に無償の優しさを示すことなど、あり得ないと彼は知っていた。だが、サーシャの青い瞳は、まっすぐに彼を見つめていた。


「だって、可哀想じゃない。平民というだけで馬鹿にされるなんて」


 その言葉は、ブレイバーの胸を突いた。

 可哀想。

 その言葉は、屈辱的であるはずだった。

だが、サーシャの声には、純粋な共感が宿っていた。

彼女は、嘲笑うでもなく、同情するでもなく、ただ彼を「人」として見ていた。

 ブレイバーの心に、名もなき感情が芽生える。

 それは、感謝か、戸惑いか、それとも何か別のものか。


「……そう言ってくれて、ありがとう」


 彼の声は、静かだった。

 だが、そこには、初めての温かみが宿っていた。

 サーシャは、軽く笑って手を振った。


「またね、ブレイバーくん」


 彼女の黒髪が、風に揺れて消えた。

 ブレイバーは、しばらくその場に立ち尽くした。

手に握られたインク落としの瓶が、冷たく、しかし確かな重みを持っていた。

 彼の瞳に、静かな決意が宿る。

 貴族社会の冷酷さも、平民への侮辱も、彼を止めることはできない。

 神の使徒として、アイドルとして、そしてブレイバーとして、彼は歩み続ける。

 この出会いが、彼の物語に何をもたらすのか。

 それは、まだ誰も知らない。



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