第四十三話 開かれたのは、異界か災厄か
五国会議における“勇者召喚”――それが、いよいよ現実となる。
勇者召喚には五つの国の承認と、各国が保有する召喚用クリスタルの同調が必要だったが、既にアルグレア帝国はエステリア公国以外の二国に根回しを済ませていたという事実が明らかになった。
つまり、エステリアが反対しようと召喚は止まらない。
形式上、五国の承認という形をとっていても、クリスタルが揃い、術式が発動されれば、それで成立するのがこの儀式の仕様だった。
――エステリア公国・宰政塔〈大円卓の間〉
重厚な扉が静かに閉じられ、五国の代表が揃う。
中央の均衡の席に座るのは、中立国エステリア宰相――クラヴィス=エステリア。
その視線の先、帝国の〈征王の玉座〉に腰掛けるレオン皇帝は、既に勝者の風格を漂わせていた。
背筋は微動だにせず、肘掛けを軽く指先で叩きながら周囲を見回す。
その表情には、会議の結末を予め知っている者の余裕があった。
……もう、手は打ってある……か。
帝国が手を結んだのはバリム王国、そしてセリュア神聖国。
この会議で勇者召喚を承認するためには、五国のうち三国の同意が必要。
すなわち、すでに条件は満たされている。
レオンがゆるやかに口を開く。
レオン「諸君――影の王の死、虚界の顕現、闇人の暗躍。もはや事態は待ったなしだ。我らは“勇者”を必要としている」
バリム王国の老王ザハド三世が重く頷く。
セリュア神聖国の大司教マリエルも、静かに両手を組み合わせたまま「神の意志に沿うならば」と口を添える。
クラヴィスは表情を変えずに、指先で机の縁をなぞる。
……このままでは、勇者召喚は承認される。だが……本当に、それでいいのか?
言葉にできない不安が、胸の奥にじわりと広がっていく。
虚界の干渉、巫女の存在、ヴァル=クロノスの動き――
全てがまだ見えないまま、世界は新たな均衡を壊す一手を踏み出そうとしていた。
……胃薬を多めに持ってくればよかったな。
彼は静かに息を吐き、次に来る投票の瞬間に備えた――。
重い沈黙を切り裂いたのは、レオン皇帝の声だった。
レオン「では――議題に入ろう。勇者召喚の是非について、各国の意見を述べてもらう」
声は低く、しかしよく響いた。
その響きに、バリム王国の老王ザハド三世が口を開く。
ザハド三世「……ワシは賛成じゃ。今の均衡は、脆い氷の上を歩くようなもの。影の王が消えたことで、その氷はすでに割れ始めておる。勇者は、その割れ目を繋ぐ楔となろう」
続いて、大司教マリエルが穏やかに両手を組む。
マリエル「神殿も同意いたします。勇者の召喚は神意に適う行い。今は迷う時ではなく、祈りと行動を一つにする時です」
クラヴィスは心中で舌打ちした。
やはり、二つは確実に帝国の手の内か……。
残るはリュエル連邦代表、リュミナ。
薄く目を伏せ、長い沈黙の後、風のように言葉を紡いだ。
リュミナ「……森は告げています。“風はまだ行き先を決めていない”と。私たちは中立。勇者という重荷を背負わせるより、まずは風向きを見極めるべき」
わずかながら、クラヴィスの胸に安堵が広がる。
リュエル連邦は即断を避けた――つまり、反対票ではないが、賛成票でもない。
しかし、この場の空気は既に帝国側が握っている。
レオンは迷いなく、クラヴィスへ視線を向けた。
レオン「……さて、最後はエステリアだ。クラヴィス宰相――君の答えを聞こう」
重い視線が、円卓の中心に集まる。
クラヴィスは短く息を吸い、内心のざわめきを押し殺す。
巫女の件も、虚界の干渉も、ヴァルの動きも……まだ全貌は見えていない。だが、今ここで承認すれば、もう引き返せなくなる
クラヴィス「……我が国は、拙速な召喚に反対する。勇者召喚は世界律を歪め、未知の災厄を招く恐れがある。まずは各国の情報を持ち寄り、対策を練るべきだ」
レオンの口元がわずかに吊り上がる。
レオン「つまり、時間稼ぎか。だが、君がどう否定しようと、三国の同意はすでに得られている」
クラヴィス「それでも――反対を記録に残す。それが中立の責務だ」
円卓の上で、沈黙が波紋のように広がった。
すでに結果は見えている。
しかし、この場でクラヴィスが反対を表明した事実は、のちの政治戦で使える“足掛かり”になる。
レオン「……では、投票を」
五つの椅子に設けられた魔術式が淡く光り、各国代表の意思を示す光が浮かぶ。
赤――帝国、バリム、セリュアが賛成。
青――エステリアが反対。
白――リュエルは保留。
レオン「勇者召喚、条件を満たしたため――承認とする」
その宣告と同時に、クラヴィスの胃の奥が重く締め付けられた。
……もう、止まらないのか。
会議の終わりを告げる鐘が、大円卓の間に響き渡った。
だがクラヴィスは知っていた――この音は、新たな均衡の崩壊を告げる“始まりの鐘”だと。
会議の終了を告げる鐘が止み、各国の代表がそれぞれの随員を連れて帰途につく。
大理石の廊下を通り過ぎる足音と、礼儀ばった別れの挨拶が次々と遠ざかっていった。
クラヴィス=エステリアは、宰相私室の扉を内側から施錠すると、机の引き出しから黒い通信魔晶を取り出した。
通常の通信魔石では感知される恐れがあるため、魔晶には中立都市の機密術式――完全秘匿回線が組み込まれている。
……勇者召喚は避けられなかった。ならば、召喚“後”にどう動くかが全てだ。
そのためには、一人でも多くの味方が必要だった。
今回、唯一賛否を保留したリュエル連邦代表――リュミナ。
彼女の立場は中立に近い。だが、風向き次第で協力を得られる可能性はある。
低く呟きながら、魔晶に魔力を流し込む。
クラヴィス「……こちらクラヴィス。単独回線で繋げ」
魔晶の中に、淡く虹色の光が揺らめいた。
やがて、風の囁きのような声が響く。
リュミナ「……珍しいわね、あなたからの連絡は。鐘が鳴ったばかりでしょう?」
クラヴィス「表向きの挨拶は要らない。……単刀直入に言おう。今回の会議、君が保留を選んだ理由を聞かせてもらいたい」
リュミナ「風はまだ行き先を決めていないから、と言ったはずよ」
クラヴィス「その風向きを、こちらに傾けてほしい。勇者召喚は決まった……だが、その後の動き次第で、事態は幾らでも変えられる」
通信の向こうで、わずかな沈黙。
やがて、リュミナの声が低く、しかしどこか愉しげに返ってきた。
リュミナ「……つまり、あなたは勇者が現れた後の“風景”を、自分で描こうとしているのね」
クラヴィス「その通りだ。召喚された者が本当に“世界の希望”になるかは分からない。だが、少なくとも操り人形にはさせない。それには、君の立場と情報網が必要だ」
リュミナ「面白い……けれど、それだけじゃ風は動かないわ。私が動くには、もっと確かな理由がいる」
クラヴィス「理由なら作る。……勇者が現れたその瞬間から、この世界の均衡は別の段階に入る。虚界、闇人、そして魔王――すべてが動く。君もそれを感じているはずだ」
また短い沈黙。
今度は、葉擦れの音のような小さな笑い声が返ってきた。
リュミナ「……いいわ。あなたの“絵”の続きを、少しだけ見てあげる。けれど、風は自由よ。束ねようと思わないことね」
クラヴィス「……感謝する」
通信が途切れ、部屋に再び静寂が戻る。
クラヴィスは魔晶を机に置き、深く息を吐いた。
……これで、最悪の時に支えられる手が一本は増えた。後は――勇者が現れた時、どう動くかだ。
彼の視線は机上の地図へと向かう。
そこには、五国とその外縁、そして〈虚界干渉領域〉を示す黒い印が、いくつも刻まれていた。
後日。
再び五国のトップが、エステリアへと集結した。
今回は会議ではない――勇者召喚の儀式のためだ。
儀式の詳細は、各国のトップ以外には一切明かされない。
この宰政塔の地下、一般の地図にも記されない場所。
石造りの回廊を抜け、幾重にも重ねられた封印結界を越えた先に、その場所はあった。
五国のトップ以外、存在すら知らぬ禁断の空間。
厚い封印扉を三重にくぐり抜け、さらに螺旋階段を延々と降りた先に、それはあった。
地上の光は一切届かず、壁も床も天井も黒曜石のような魔鉱石で覆われている。
魔術式と古代文字が緻密に刻まれ、そのすべてが淡い燐光を放ち、空間全体を異様な静寂で満たしていた。
中央には、円形の巨大な祭壇――直径十メートルはあろうかという黒の石盤。
その縁を囲むように、五つの台座が等間隔で配置されている。
それぞれの台座には、各国の象徴たる〈国晶石〉を嵌め込むための窪みが彫られていた。
この五つが揃わぬ限り、召喚の儀は決して起動しない。
空気は重く、わずかに耳鳴りがする。
足元の魔鉱石が微かに脈動しており、まるで世界の理そのものがこの一点に集まっているかのようだった。
歪み――そう形容するほかない感覚が、肌の下を這い、骨まで震わせる。
やがて、重々しい足音とともに五国のトップが入場した。
アルグレア帝国皇帝レオン=アルグレア、バリム王国国王ザハド三世、セリュア神聖国大司教マリエル、リュエル連邦代表リュミナ、そして中立国エステリア宰相クラヴィス。
一人ずつ、無言のまま台座へ歩み寄り、それぞれの国晶石を設置する。
金色に輝く帝国の〈征王晶〉、純白の神聖国〈聖印晶〉、琥珀色に輝くバリムの〈獣王晶〉、虹彩を宿すリュエルの〈精霊晶〉、そして銀黒の輝きを放つエステリアの〈均衡晶〉――五色の光が祭壇上に集まり、絡み合い始める。
レオン皇帝が中央の黒石盤に立ち、右手を高く掲げた。
その声が、地下深くの空間に反響する。
レオン「――五国の名において、世界の彼方より勇者を招く。来たれ、“異界の魂”!」
台座のクリスタル群が一斉に強く発光し、光が祭壇中央へと収束する。
同時に、足元から震動が走り、空間の中心に漆黒と白光が交互に渦を巻く巨大な魔法陣が浮かび上がった。
重く、鈍く、しかし確実に世界が揺らいでいる――
その感覚を、場にいた全員が肌で感じ取っていた。
祭壇中央の魔法陣は、轟音と共に眩い光を吐き出していた。
魔力が集中し、奔流となって渦を巻き、次元の壁をこじ開けようとする。
アルグレア帝国の席では、レオン皇帝が鋭い眼光でその中心を見据え、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
(これで……世界は我が帝国の手の中に)
長き計画が結実する瞬間を、彼は待ちわびていた。
一方で、均衡の席に座るクラヴィス宰相は、眉間の皺を深く刻み込んでいた。
(……この魔力の揺らぎ……ただの召喚儀式じゃない。何かが……)
胸の奥に広がる不安が、警鐘のように脈打つ。
その時だった。
――ゴウッ!
渦巻く魔力の流れが、突如として逆回転を始めた。
それはあたかも、開けたはずの扉の向こうから、何かがこちらへ手を伸ばしてきたかのようだった。
「な……っ!?」
「魔力が……引き込まれて……いや、押し返されている!?」
各国のトップがざわめき、狼狽の色を隠せない。
魔力の奔流は一層激しくなり、召喚に用意した以上の力が、底なしの泉のように溢れ出す。
空気は裂けるような轟きを上げ、床の魔鉱石が悲鳴をあげて軋んだ。
クラヴィス「全員、離れろ――ッ!」
その叫びとほぼ同時、祭壇中央の光が一瞬、極限まで収束し――
――ドォンッ!!!
耳を劈く爆音と共に、光の柱が炸裂した。
衝撃波が召喚の間を駆け抜け、台座ごと五つのクリスタルが粉々に砕け散る。
破片が宙を舞い、衝撃で壁の古代文字が一瞬消し飛んだ。
ただ一つ確かなのは――この召喚は、誰も想定していない“何か”を呼び寄せた、ということだった。