第三十九話 蔓延る闇――黒涙(ブラック・ティア)
シグレ「……この任務は、国家勅命により発令された極秘調査任務だ」
シグレの声が、いつも以上に低く、硬質なものに変わる。
シグレ「数ヶ月前より、帝国各地で“ある禁制薬物”の痕跡が発見されている。名は――黒涙」
神「……黒涙……?」
リィナ「それって何なんですか…?」
シグレ「かつて“黒涙”は一つの国を内部から崩壊させた。飲むことで強力な幻覚作用と快楽作用を引き起こす。使用者の望むものを見せるという」
神「そんな…都合のいい…」
シグレ「そうだ、これには副作用がある。使用するたびに人の心は失われ、いずれ魔物へと変化する」
シグレの言葉に静寂が部屋を包む。
そして、俺の脳裏にはあの光景が浮かぶ―――。
フィーナと共に行った村、そこで見たあの――キメラ・アンデッドを思い出す。
俺は拳を硬く握り震える。
そんな俺をシグレは目を細めて見つめ、懐から一枚の封筒を取り出した。
その中から数枚の紙片を広げ、テーブルに並べる。
それは報告書のようだった。手書きで、細かく誰かの行動や取引の日時が記されている。
シグレ「この記録によると、“黒涙”の製造と流通には……ある組織が関与しているらしい」
神「組織?」
シグレ「闇人――表には出ず、裏社会で暗躍する集団だ」
その名前に、俺の眉がひくりと動いた。
そして――シグレは、淡々と、だが確実に口にする。
シグレ「その闇人の構成員の中に――ヴァル=クロノス・ドレイガという名があった」
神「……っ!」
一瞬で、全身の血が沸騰するような感覚が走った。
神「……今……なんて言った?」
シグレ「ヴァル=クロノス・ドレイガだ。知っているのか?」
神「……ああ。だったら、あんたの任務……俺にも関係あるかもしれないな」
シグレの琥珀色の瞳が、じっと俺を見つめる。
シグレ「……すべてを話すとは言っていない。ただ、今後の動きによっては、お前たちに協力を求める可能性もある。その覚悟があるなら――」
神「ああ、あるさ」
俺は、目を逸らさずにそう言った。
ヴァルの名が出た以上、引く理由なんて、一つもない。
リィナ「……そんな、恐ろしい薬が……また……」
リィナの声がかすかに震えていた。
黒涙――人を破壊し、国を滅ぼす薬。
その情報の重さに、彼女の肩が小さく揺れている。
シグレは視線を落とし、封筒をしまいながら、重々しい口調で続けた。
シグレ「この任務の本質は、黒涙の根を断つこと……その一環として、明日、帝都近郊の市場裏で行われるとされる“取引”の調査にあたる」
神「……了解。オレも行く」
その返事は、いつになく鋭く、静かな怒気を帯びていた。
リィナ「……神さん?」
リィナが、不安そうに俺の顔をのぞき込む。
俺の中にある怒りの感情を察したのだろうか。
シグレは、その変化を敏感に感じ取っていた。
だが、あえてそこには触れてこなかった。
シグレ「……明日、朝一で出る。準備は各自で整えておけ」
そう言って、彼女はソファから立ち上がる。
神「ああ……任せろ」
短く答えたその声に、リィナは胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
リィナの目は潤み今にも泣きだしそうだ。
だが、俺はその目を見ないようにした。
リィナ「……神さん……」
彼女は、何か声をかけようとしたが、言葉が続かなかった。
すまない、リィナ。
でも、俺はあいつを許すわけにはいかないんだ―――。
俺は、目を伏せる。
その時――
リィナ「……わたしも、行きます」
神「……え?」
リィナ「神さんだけじゃ、だめなんです。わたしも一緒に……」
震える声だったが、意志は確かだった。
リィナの中で固く決意し、出た言葉だ。
神は少しだけ目を見開いたあと、優しく笑った。
神「ありがとう、リィナ。心強いよ」
シグレは、その二人を静かに見つめ、口元だけをわずかに緩めた。
そして、再び琥珀色の瞳が鋭く光る。
シグレ「……明日、全ての始まりになるかもしれんぞ。それでも来る覚悟があるなら、歓迎しよう」
リィナは小さく、でも力強く頷いた。
朝。
帝都の空は高く、雲ひとつない青が広がっていた。
《白銀の鷹亭》のスイートルーム、ダイニングに並べられた朝食はまさに王侯貴族の宴のよう。
ふんわりと焼かれた卵に、香ばしいパン。果物は魔冷保存された新鮮なものばかり。
だが、それらの豪華さに反して、俺の心は妙に落ち着かなかった。
シグレはすでに姿を消していた。
「帝都ギルドに報告がある」と言って、早朝、無言のまま部屋を出て行った。
その間に朝食を――ということで、今、俺はリィナと並んでテーブルに座っている。
だが、リィナの手元もほとんど進んでいなかった。
フォークを持ったまま、視線は窓の向こうの空へと向けられている。
神「……リィナ」
俺が声をかけると、リィナは小さく肩を震わせ、はっとこちらを見た。
リィナ「……あ、はいっ、ご、ごめんなさい。なんか、ぼーっとしてて……」
神「無理もないさ。……黒涙のこと、闇人のこと……」
俺も、胸の奥に引っかかる感情がある。
けれど、リィナの表情を見れば、もっと深く何かを感じ取っているのが分かった。
リィナは少し黙ってから、ポツリと呟くように言った。
リィナ「……神さん、大丈夫ですか?」
神「……何が?」
リィナ「……昨日、ヴァルって名前が出たとき……すごく……怖い顔をしてました。怒ってるみたいな、悲しんでるみたいな……あんな神さん、初めてで……」
彼女の声には、揺れる思いがにじんでいた。
俺は少しだけ口元を緩めて、目を細める。
神「……たぶん、大丈夫だよ」
リィナ「たぶん、じゃ……だめです」
リィナが真っ直ぐに、俺の目を見て言った。
リィナ「……神さんがもし、何かに囚われて、見えなくなっちゃったら……それが、一番怖いんです。わたし……見てることしか、できないから……」
俺は言葉を失った。
リィナが、こんなふうに俺を見てくれていたなんて――
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
神「はは、ありがとう、リィナ。……本当に」
そう言って、俺は手を伸ばして、リィナの頭をそっと撫でた。
リィナ「……ふぇっ、え、えぇ!? な、な、なにしてるんですかっ!? もう、神さんっ……!」
頬を赤らめて身を縮めるリィナに、思わず笑みがこぼれる。
神「なんか、落ち着いたよ。……ほんとにありがとう」
その言葉に、リィナはしばらくもじもじしていたが、やがて小さく微笑んだ。
リィナ「……はい。わたしも、頑張りますから」
そんなふうに、俺たちは束の間の朝を、静かに、そして穏やかに過ごした。
シグレ「……行くぞ。時間だ」
その声に、俺たちはうなずいた。
キャラバン・ギアを降りると、そこは帝都から少し離れた港沿いの倉庫街だった。
重たい鉄骨造りの建物が並び、人の気配はほとんどない。
風が吹き抜けるたび、鉄扉がギィ……と軋んだ音を立てる。どこか、ひやりとする場所だ。
神「ここが……取引現場?」
シグレ「ああ。情報によれば、このあたりの倉庫で“黒涙”の受け渡しがあるはずだ。だが、取引そのものは夜――闇に紛れる時間帯に行われる可能性が高い」
神「じゃあ……今来たのは、何のために?」
肩をすくめて言う俺に、シグレは無言のまま腰元のポーチに手を伸ばし、小さなケースを取り出した。
ぱちん――と開いた蓋の中には、小型の魔導装置が整然と並んでいる。
黒曜石のようなレンズ付きのもの、針のように細い棒状のもの、そして魔符で封じられた紙片。
シグレ「……監視用の《魔導録視眼》と《感音結晶》。映像と音声を記録する装置だ。感知結界には触れないよう細工してある」
神「なるほどな、録画と盗聴ってわけか。……現行犯で押さえるために、か?」
シグレ「……あくまで“証拠”だ。現場に踏み込む判断材料にもなる」
リィナ「す、すごいです……こんなに小さいのに、録音と映像が撮れるんですね……!」
リィナが感心したようにそっと装置を手に取ると、シグレは頷いた。
シグレ「この倉庫街に十数箇所、可能な限り死角に仕掛ける。……手分けしてやるぞ」
神「よっしゃ、任せとけ!」
リィナ「わ、わたしもがんばりますっ!」
こうして俺たちは、それぞれ装置を手にして散開した。
古びたコンテナの陰、破れた屋根の梁、草の茂みや壁の亀裂――
神「っと、このへんがよさそうだな。見通しはいいけど、死角にもなる……よし」
俺は《魔導録視眼》を金具の隙間にそっと押し込み、封魔符で固定する。
同時に起動するよう術式も繋ぎ、万一の魔力反応でもばれないよう細工する。
一方リィナは、倉庫裏の物陰にしゃがみこみ、小さな結晶を植えるように土の中へ。
彼女なりの慎重さと丁寧さが光る。
リィナ(よし……これで、音もちゃんと拾ってくれるはず……)
そしてシグレは――まるで風そのもののような足取りで、屋根伝いに移動していた。
無音で飛び、無駄のない動作で装置を設置していく姿は、まるで忍者のようだった。
数十分後――
三人が再び合流したときには、すでに倉庫街の各所には十を超える監視装置が配置されていた。
神「……これで準備万端ってやつか?」
シグレ「ああ。あとは、夜を待つだけだ」
その言葉に、俺たちは一瞬、空を仰いだ。
青空は徐々に傾き始め、今日が確実に“なにか”に近づいていることを感じさせた。