第三十四話 名もなき拳、焔を越えて――魔王を討った少年の拳
神「―――焔閃姫」
その名前が、思わず口から漏れた。
リィナ「え……?」
リィナがこちらを見るが、俺はそれどころではなかった。視線の先にいるその女は、まるで炎のような存在感を放っていた。
シグレは、まっすぐ前を見据え、静かな足取りで歩いている。誰かに見られている気配にも気づいていないかのように、まるで空気の一部のように溶け込んでいた。
だが――その気配は、明らかに“只者ではない”。
間違いない……あれが、S級冒険者《焔閃姫》――シグレ=アマカゼだ。
リィナ「ジンさん……あの人、もしかして……?」
神「うん。たぶん……あの人しかいないと思う」
俺はごくりと喉を鳴らすと、思いきって声をかけた。
神「すみません、そこのお姉さん!」
その瞬間―――。
ピタ、と足を止めた彼女は、ほんのわずかだけ視線をこちらに向けた。
琥珀色の眼が、俺を射抜くように見つめる。
まるで炎に包まれた刃を突き付けられたような緊張感だった。
シグレ「……何か用か?」
その声は低く、澄んでいて、どこか鋼のように硬質だった。
神「あなたは、シグレ=アマカゼさんですよね? 俺たち、あなたを探してて――」
シグレ「なぜ、その名を?」
神「ギルドで……いや、ここに来る前から、あなたの噂を聞いてました。仲間を探してるんです。戦える人を。……あんたみたいな、本物の冒険者を」
その言葉に、シグレはわずかに目を細めた。
そして一歩、こちらへと近づいてくる。
シグレ「お前……“何者”だ?」
その問いかけに、一瞬だけ迷う。
でも、今さら隠しても仕方がない。
神「……宿木 神って言います。この世界について、詳しくは知らないけど――」
そう言いかけたとき―――。
シグレ「――断る」
神「…え?」
シグレは冷淡に言い放った。
シグレ「弱き者に興味はない。それがたとえ、どれだけ綺麗な言葉を並べようと、だ」
琥珀の瞳が、まるで斬り捨てるような冷たさで俺を見下ろす。
神「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
去ろうとするシグレの背に、思わず声を上げていた。
神「……俺は、……あの魔王、《影の王 スカー・ブルート》を、倒したんだ!」
その言葉が、周囲の空気を凍らせた。
露店の店主、通りを歩いていた人々、リィナさえも息を呑んで動きを止める。
そして――
シグレの足が、静かに止まった。
振り返るその目には、明確な“敵意”が宿っていた。
シグレ「……今、何と言った?」
神「魔王を倒したって……影の王を、俺が……」
シグレ「そんな戯言を抜かすとはな。――貴様、命が惜しくないようだな」
その声音は静かだったが、凍り付くような殺気が込められていた。
神「俺は、嘘なんて……っ!」
シグレ「もし本当に魔王を討った者であれば、その名は国を超えて知られている。だが、お前は――」
琥珀の瞳が鋭く光る。
シグレ「名も知らぬ若造に過ぎない。大業を成した者が、なぜ今もこんなところで、“ただの無名”として存在している?」
その言葉に、俺は……反論できなかった。
確かに、俺の存在はどこにも知られていない。
誰も、俺が魔王を倒したなど信じていない。証拠も、名誉も、栄光もない。
けれど――
神「それでも、俺が……! 俺が倒したんだ。嘘じゃない!」
拳を握り、叫ぶ。
目の前の彼女が、誰よりも強さを信じる人間だからこそ――俺は訴えたかった。
シグレは数秒だけ沈黙し、ふっと鼻を鳴らした。
シグレ「……ならば、証明してみせろ」
神「え……?」
シグレは一歩前に出る。地面が、わずかに軋んだ。
シグレ「一撃でも、私に届くというのなら……その言葉を“信じてやろう”」
その言葉に、周囲の人間たちがどよめいた。
神「……!」
シグレ「――構えろ。命まで取る気はない。だが、舐めた口を利いた報いは受けてもらう」
くそ……やっぱり、一筋縄ではいかないか。
だが、退くわけにはいかない。
ここで逃げたら、誰にも信じてもらえない。
なら――やってやるよ!
俺は大きく息を吸い込み、四神の力を意識する。
神「……いくぞ、焔閃姫」
シグレ「来い、“無名の魔王殺し”――」
神「白虎――!」
その瞬間、俺は白虎の形態に変える。
俺の周りをふわっと円陣の煙が舞う。
シグレ「ほう。姿を変えて戦闘するスタイルか」
物珍しそうにはするが特段驚く様子がないシグレ。
神「いくぞおおおおおっ!!」
激しい踏み込み。膝を弾き、石畳を砕きながら神はシグレへと突っ込んでいく。
放たれる渾身の拳――!
だが。
シグレ「……ふん」
あくまで冷静な声が響いた。
ギリギリの距離で、シグレはその拳をすっと身体をずらして躱す。
直後、鋭く返された裏拳。
神「っ――!」
神は身をひねり、紙一重でそれを回避する。刹那のやり取りのあと、二人は距離を取った。
シグレ「ほう。……なかなかやるな」
神「そりゃ……どうも……っ」
冷や汗を額に浮かべながら、神は肩で息をする。
圧倒的な気迫。
シグレ「だが、この程度で魔王と討ったなど言えないな―――瞬華」
その瞬間。
――スッ。
空気が、揺れた。
神「……っ、消えた!?」
シグレの姿がかき消えたように視界から消える。
戸惑う俺―――。
……これは、動きそのものが――。
そして、一瞬にして背後を取るシグレに気付く。
神「――後ろか!!」
振り返った刹那、そこにはすでに拳を構えたシグレがいた。
神「くっ――!」
反射的に腕を交差してガードする。衝突と同時に、地面が震えるほどの衝撃。
だが、それは“囮”だった。
シグレ「十拳――壱ノ拳――幻霞」
その技名が紡がれた瞬間。
一瞬の視線の流れ、力の余波、風の動きさえも欺いたような踏み込みと構え――
そして、鋭い拳が神の左顎を貫いた。
ゴッ!!
神「が……はっ……!!」
クリーンヒット。顎が弾け、歯の裏から血があふれ、神の身体が弾き飛ばされる。
地面を擦りながらよろけ、膝をつく神。口から吐き出される血反吐が、石畳に赤黒く飛び散った。
リィナ「ジンさんっ!!」
遠くから叫ぶ声がかすかに聞こえる。
だが、今は振り向く余裕もない。
シグレは、表情一つ変えずこちらを見ていた。
シグレ「……お前の“力”は、確かに凡庸ではない。だが、“本物”に届くには、まだ遠い」
神「くそっ……」
ぐらつく視界の中、神は立ち上がる。
歯を食いしばりながら、拳を握る。
神「俺は……まだ、終わっちゃいねぇ……!」
その言葉に、シグレの眉が、わずかに動いた。
視界が揺れる。鼓膜が震え、骨にまで響く衝撃音。
――瞬華。そして幻霞。
神「ぐっ……くそっ……!」
見えない。読めない。シグレの連撃は、まるで幻のように襲いかかってくる。
白虎の力で膂力も速度も底上げしているはずなのに、それでも防ぎきれない。拳がかすり、頬が裂け、口の端から血が滲む。
シグレ「まだ立っているのは褒めてやろう……が、それだけだ」
神「チッ……!」
再び、同じ流れ。瞬華で間合いを詰め、幻霞で意識を削る。まるで連舞のような美しさにすら思えた。
白虎『何やってやがる』
白虎が急に話かけてくる。
何をやってるも何も、S級の力を目の当たりにしている最中なんだが―――。
白虎『おめーは俺達に選ばれた存在だ。こんなもんじゃねーだろ』
そんなことを言われてもと困る神。
白虎『お前にも解ってるはずだ。あの女の技の本質が――』
神「っ――!?」
幻霞に関してはまだよく解っていない。
しかし、瞬華に関してなら―――。
白虎『見せてやれ!俺達に選ばれた奴の力ってやつを!』
一呼吸置く、そして見据えるその眼には新たなる進化の兆しが差している。