第二十九話 少女の夢の第一歩
魔王の幻影体との戦闘を終えた俺たちは、疲労困憊のまま、魔動式装甲馬車でエステリアへ戻ってきた。
あの一撃……ゼロ・バニッシュの余韻がまだ体に残っている気がする。
体中が鉛みたいに重い。
アークの顔も珍しく疲労の色が濃く、途中からはほとんど口を開かなかった。
ギルド本部の情報管理室前、俺はすでに落ち着かない気持ちで立っていた。
夕刻まであとわずか。リィナを救うための時間は、残り少ない。
アーク「落ち着いて。まずは報告を済ませる。時間は守るよ」
カリナの部屋へ入ると、彼女はすでにこちらの到着を察知していたようで、端末を閉じて立ち上がった。
カリナ「お帰りなさい。虚界の調査、ご苦労でした。……何があったのです?」
アーク「“破壊の王”の幻影体が出たよ。南方第七断層帯、ゲート周辺に強い波動と魔力の残留も確認した。座標と影響範囲、魔力痕跡データは端末に送る」
カリナは目を細め、即座に手元の端末に情報を取り込む。その表情は一切変わらないが、ほんの一瞬だけ、唇がわずかに引き締まった。
カリナ「……この波形、間違いありません。“虚界の兆候”の主因はその幻影体。間違いなく魔王クラスの……」
アーク「実体ではなかった。でも力は本物だった。ジンがいなければ、少なくとも僕一人では突破できなかっただろうね」
その言葉に、カリナが一瞬こちらを見る。その目には冷静さの奥に、かすかな敬意の色が浮かんでいた。
アーク「さて――ジン」
名前を呼ばれて振り返ると、アークが穏やかに微笑んでいた。
その笑みに、どこか少しだけ疲れと、達成感のようなものが混じっている気がした。
アーク「今回はありがとう。危険な調査だったけど、君がいてくれて助かったよ」
神「……こっちの方こそ。あんな奴と戦うことになるなんて……お前がいなかったら、無理だった」
アーク「ふふ、そう言ってくれると嬉しいよ。さて、約束は約束だからね。カリナ、例のものを」
カリナは無言で机の脇から小さな黒革のケースを取り出してアークに手渡した。
アークはそれを受け取り、こちらに差し出す。
アーク「君の働きに対する報酬だ。200万グレム、ギルド信用付きの魔導貨幣石で用意してもらった。もちろん、僕の依頼でね」
スカーヴェル「……これで……間に合う……!」
俺は思わず拳を握った。これでリィナを――あの腐った工房から、確実に救い出せる。
アーク「あと一時間ある。さあ、行っておいで。君の戦う場所は、まだ続いている」
その言葉に、俺は強く頷いた。
足元に力が戻っていく。
あとは、あいつのもとに――間に合えばいい。
俺はギルドを飛び出し、黒革のケースを握り締めて街を駆け抜けた。もう日は傾きかけている。
心臓が喉まで上がってきそうなほど脈打つ中、リィナの工房――あの錆びた鉄扉の建物が視界に飛び込んできた。
中に入ると、鼻をつく油と酒の匂いが一気に押し寄せてきた。
工房の奥、ガルゼは椅子にもたれかかりながら安酒を煽っていた。
ガルゼ「……なんだ、また来たのか。どうせ泣きつきに――」
神「違う。約束の金だ。受け取れ」
俺は迷いなく、黒革のケースをガルゼの前に叩きつけた。
その勢いでガルゼの酒瓶が少し揺れる。
ガルゼ「……ほぉ? 本気だったのかよ、お前」
ガルゼは面倒そうに身を起こすと、乱暴にケースを掴んで開いた。
中を覗き込むなり、その目が一瞬で変わった。
ガルゼ「……魔導貨幣石……しかも高額取引用……間違いねえ、これは本物だな。へっ……まさか本当に持ってくるとはなあ……!」
にやりと口角を吊り上げて、満足げに笑う。
あの腐った奥歯が覗く笑い方に、俺は一切笑えなかった。
ガルゼ「いいだろう。約束だ。リィナは解放してやるよ。これで文句はねえな?」
神「ああ……文句なんかあるもんか」
ギルドに戻り、医療室の扉を開けた瞬間、薬草と消毒の匂いが鼻をかすめた。
俺はまっすぐ、カーテン越しのベッドに歩み寄る。
そこには、リィナがいた。
顔色はまだ少し青白いけど、上体をゆっくりと起こして、俺の方を見て微笑んだ。
リィナ「……ジンさん」
神「……よかった。もう起き上がれるのか」
胸の奥に詰まってた何かが、ふっと溶けていくのを感じた。
リィナ「はい。ギルドの治療師さんが、とても丁寧に処置してくれて……もう、大丈夫です」
神「無理すんなよ。まだ顔、ちょっと青いぞ」
リィナ「……本当に、ご迷惑をおかけして……申し訳ありませんでした」
ベッドの端で、リィナが小さく頭を下げた。
神「気にすんなって。無事ならそれでいい」
俺は苦笑しながら、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
神「それに、俺一人じゃどうにもならなかった。ある人に、助けられたんだ」
リィナ「……助けられた?」
神「ああ。アーク=レヴァンティスっていう男だ。変わったやつだけど、頼りになる」
その瞬間、リィナの目が大きく見開かれた。
リィナ「……えっ!? アーク=レヴァンティスって、あの……S級冒険者で、“王命任務”にも関わってる特例の人ですよね!?」
神「……は?」
間の抜けた声が勝手に漏れた。
リィナ「だ、だって、わたし記録で見ました! ギルドに籍はあるけど、普通の依頼は受けず、王都直属の命令でしか動かない……そんな特例指定の冒険者です! S級の中でも、ほとんど姿を見せない人で……幻獣級討伐歴もあるとか……!」
神「……マジかよ……。本人、“ただの旅人”って言ってたぞ……?」
リィナ「たぶん、それは身分を隠すための方便ですよ。関係者以外には素性を明かしちゃいけないって、聞いたことあります」
スカーヴェル「……おいおい……俺、そんな大物と……」
頭を抱えたくなる。
そりゃ、魔王の幻影相手に微塵も怯まなかったわけだ。
神「……旅人ってのは、謙遜か……いや、隠しすぎだろ、あの野郎……」
リィナ「でも、そんなすごい人がスカーヴェルさんを助けてくれたなんて……やっぱり、ジンさんってすごいです」
そう言ってリィナが少し笑った。その笑顔に、複雑な気持ちも少し和らいだ。
リィナの顔色はまだ完全とは言えないが、少しずつ血色が戻ってきているのが分かった。
リィナは少し間を置いてから、小さく口を開いた。
リィナ「……あの、ジンさん」
神「ん?」
リィナ「わたし……ずっと、夢があったんです。小さな頃からずっと」
その声はかすかに震えていたが、どこか覚悟を決めたような色も含んでいた。
リィナ「……魔鉱細工師になりたかったんです。師匠に憧れて……魔鉱を使って、人を助けられる道具や、癒しの装置を作りたくて。でも……村がなくなって、師匠もいなくなって、わたし……何もできなくなって」
神「……」
リィナ「それで……中立都市に出て、工房で働かせてもらえるって言われて。……でも、それは違ったんです。才能があるって……言ってくれる人は誰もいなくて。ただ、都合よく使われるだけで……」
リィナは膝の上で小さく拳を握りしめた。
リィナ「それでも、いつか――もう一度、自分の手で……誰かを助けられる細工を作りたい。……わたしの作るものが、誰かの心を救えるなら、きっと……」
言葉の最後は震えて、喉の奥に飲み込まれてしまった。
俺は、言葉を探して少しだけ沈黙した。
神「――それなら、もう始まってるじゃないか」
リィナ「え……?」
神「リィナの“灯りの種”、俺はこれに助けられた。リィナを探した時も心に迷いがあった時も光――道を指し示してくれた。それは、リィナの人を想う心で作ったからだと思う」
リィナは驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと笑った。
今度は、少しだけ涙をにじませながら。
リィナ「……ありがとう、ございます」
その笑顔は、たしかに“夢”を持つ者のものだった。