第二十五話 少女の背負うもの――②
朝のエステリアには、澄んだ空気と商人たちの活気ある掛け声が満ちていた。
俺は冒険者ギルドエステリア本部の前、石畳の広場に立ち、腕を組みながら辺りを見回している。
約束の時間はとうに過ぎている。
神「……遅いな、リィナ」
昨日の彼女の笑顔と、無理に作った笑顔と「大丈夫」の言葉が頭をよぎる。
胸の奥に、何か引っかかるものがじわじわと広がっていく。
あいつは遅刻するタイプじゃない。
体は小さくても、礼儀正しい。だからこそ――嫌な予感がしてしまう。
ゆるふわ系の受付嬢が窓口からふわっと顔を出した。
受付嬢「あ、こんにちは〜♪ 何かお困りのことですか?」
俺はギルドの受付窓口へ歩み寄る。
神「おはようございます。ちょっと聞きたいことがあるんですが。昨日、俺とパーティー登録したリィナ・フェルストなんですが、約束の時間になっても姿が見えなくて。彼女が働いてる工房、場所はわかりますか?」
受付嬢は少し驚いたようにまばたきをしてから、端末を確認しながら答えた。
受付嬢「リィナ・フェルストさんですね〜……えっと、登録住所は中央西区の魔鉱細工通りで、旧第六工房の裏手にある“ガルゼ工房”ってとこみたいです〜」
神
「“ガルゼ工房”……」
俺は昨夜の男の顔を思い出す。
脂ぎった顔に怒声を浴びせる男の姿。
そしてリィナが笑って誤魔化した「慣れてるから」という言葉。
神「ありがとうございます。そこに行ってみます」
受付嬢「気をつけてくださいね〜。あの工房、あんまり評判良くないんですよ〜」
俺は静かにうなずき、ギルドを後にする。
迷わず西区の魔鉱細工通りへと足を向けた。
朝の光が降り注ぐ通りには、職人たちの作業音が響く。
金属を打つ音と魔鉱の鈍い光が交錯している。
しかしその奥、裏路地を抜けた先に見えたのは煤けた外壁とひび割れた看板が目立つ、古びた工房だった。
そこに刻まれたガルゼ工房の名。
俺は一歩、門扉に手をかける。
神「……リィナ。無事でいてくれ」
そうつぶやきながら、軋む扉を押し開け、俺は工房の中へと足を踏み入れた――。
ギィ……ギィ……。軋む音とともに、古びた扉がゆっくりと開く。
中は――ひんやりとした空気に満ちていて、まるで時間が止まってしまったみたいだった。
かつては火花と金属の音が鳴り響いていたはずの魔鉱工房。
でも今は、魔導炉の気配すらなく、しんと静まり返っている。
煤けた壁、ひび割れた工具棚、床に散らばった鉄屑。
明らかに長く手入れされてない、廃屋寸前の空間だ。俺は無言で足を踏み入れる。
神「……リィナ。いるか?」
返事はない。奥の作業場を覗いてみても、人影はどこにもない。
空の木箱に、破れた布、魔鉱の残骸……目に入るのはゴミと呼んでも差し支えないものばかりだった。
(……おかしい。ここで暮らしてたはずだろ)
胸の奥で、焦りがじわじわと広がっていく。その時――
ぽうっ……。
俺の胸ポケットの内側で、小さな光が灯った。
神「……灯りの種……?」
リィナからもらった、小さな魔鉱細工。夜になると、ほんのりと光る――ただそれだけの、彼女の“想い”がこもった作品。
だけど今、その種は明確に――“何かを導くように”輝いていた。
(……まさか、俺を導いているのか……)
迷いを見透かすように、揺れる光。
まるで「こっちだよ」と言わんばかりに、優しく、でも確かな意志を感じさせる。
神「……お前、飾りじゃなかったんだな」
俺はその灯りを頼りに、廊下の隅へと足を向ける。
外れかけた木の戸板、その奥にある――薄暗い倉庫のような空間。
光は、その場所で強くなった。そこにあったのは、錆びた錠が打ちつけられた小部屋。
灯りの種は脈打つように、その扉の前で淡く明滅していた。
神「ここか……!」
俺は扉の前に立ち、魔力を集中させる。
次の瞬間、バチィンッ! 火花とともに錠が弾け飛び、扉ががたんと揺れながら開いた。
そして――その中に、いた。
神「……リィナ……!」
壁際に、身体を小さく丸めて蹲る少女。頬には青あざ、腕や足にも擦り傷が見える。
背中の布は破れていて、かすかに上下する肩が、まだ生きている証だった。
神「リィナ! 大丈夫か――!」
駆け寄って、そっと身体を支える。その声に反応して、リィナがゆっくりと目を開けた。
リィナ「……ジン……さん……?」
か細い声。それでも、俺を見つけた安心からか、目元にはうっすら涙が浮かんでいた。
リィナ「……ごめんなさい……朝……行こうとしたら……閉じ込められて……」
震える声が、胸を締めつける。
神「やっぱり……あのクソ野郎か……!」
怒りが込み上げる。でも今はそれより、優先すべきことがある。
神「もういい、無理にしゃべるな。……すぐ出る。俺が連れて行くから、安心しろ」
リィナの身体をそっと抱き起こす。
彼女は小さくうなずきながら、俺の腕の中で身を預けてくる。
胸ポケットの中――灯りの種は、静かに、けれど確かに輝いていた。
まるで、迷いの先に“ちゃんと辿り着いた”と、証明するかのように。
リィナを抱きかかえ、今まさに工房を出ようとした――その瞬間だった。
ガンッ! 勢いよく開いた扉の向こうに、あの男――ガルゼが立っていた。
ガルゼ「……チッ、なんでてめぇが中にいる……って、は?」
神の腕の中にいるリィナの姿を見て、男の顔色が変わる。
ガルゼ「てめぇ、何してやがる……! それはオレのもんだろうが!」
神「“もの”? ……お前、本気で言ってるのか?」
神の声は低く、怒りを押し殺していた。
神「リィナは人間だ。お前の私物じゃない。傷つけて、閉じ込めて……お前に何の権利があるってんだ!」
ガルゼ「はッ! 口の利き方に気をつけろ、素人冒険者が!」
ガルゼは鼻で笑い、ねじれた笑みを浮かべながら吐き捨てた。
ガルゼ「こいつはもう使えねぇ。“壊れた細工師”なんざ、価値がねぇ。だったら別の使い道を考えるだけの話だ。オレは慈善事業で飯食ってんじゃねぇんだよ」
神「使い道……?」
思わず漏れた問いに、ガルゼは忌々しそうに神を睨みつけ、声を荒げた。
ガルゼ「そうだよ。南の闇商に話はつけてある。異能持ちのガキなんざ、高値で売れるだろうなぁ!」
神「……リィナは、“物”じゃねぇ!!」
怒りが爆ぜたようなその叫びに、リィナのまぶたがかすかに震える。
けれどまだ、目を開けるには力が足りなかった。
ガルゼ「そう吠えるってことは、買い取り希望ってわけか?」
肩をすくめてにやりと笑う。
ガルゼ「甘ぇんだよ、お坊ちゃん。ここは魔鉱文明の中心地、エステリアだ。魔鉱細工師の技術と発言力は、冒険者なんかよりずっと上。オレみてぇな登録工房の主を無断で妨害したら……“業務妨害”で捕まるのはてめぇの方だぜ?」
神は奥歯を食いしばる。正義も怒りも、今のこの国では“制度の外側”だった。
文明を支えるのは、魔鉱を扱える者。技術者の言葉が、力になる世界――それが現実。
ガルゼ「だから言ってやってんだ。“買う”か“引き渡す”か。選べよヒーロー気取り。口だけじゃ、誰も救えねぇぜ?」
俺は深く息を吸い、迷いのない目で、まっすぐガルゼを見据えた。
神
「……なら、俺が引き取る。正式に。リィナを、お前の元から……“俺の仲間として”迎える」
ガルゼ
「へへっ、いい度胸だな。じゃあ交渉成立ってことで……代金は――」
懐からメモ帳を取り出し、さらさらと何かを書きつける。
ガルゼ「――二十万グレム(200,000G)、明日の夕刻までに持ってこい。現金限定だ。そしたら所有権放棄書にサインしてやる。なぁに、お前みたいな“英雄気取り様”なら余裕だろ?」
神「……必ず、用意する。逃げるなよ」
ガルゼ「逃げねぇさ。むしろ楽しみにしてんだよ。支払いがなけりゃ――そのまま売り飛ばせるからなァ!」
下卑た笑い声が工房中に響く。その声を背に、スカーヴェルは無言でリィナを抱え直し、決意のにじんだ表情のまま工房を後にした。
重たい木扉を押し開けて、俺はリィナを抱えたまま冒険者ギルドエステリア本部に駆け込んだ。
中にいた冒険者たちが、一斉にこちらを振り返ってざわつく。
応対カウンターの奥にいた、ふんわりした雰囲気の受付嬢が目をまんまるにして、小走りで近づいてきた。
受付嬢「わ、わわっ!? リィナちゃん……!? どうしたんですか、その子……!」
神「すみません、治癒師っていますか!? この子、ケガしてて……とにかく早く治療をお願いします!」
受付嬢「わ、わかりましたっ! すぐに、医務室にっ!」
おっとりしていた口調が、一気に慌ただしくなる。でも動きは早かった。
治癒魔導士がすぐに呼ばれて、リィナは静かに担架に寝かされて運ばれていく。
俺はその背中を見送りながら、深く息をついてカウンターに戻った。
受付嬢――ピーチ色の制服を着た彼女は、さっきとは打って変わって真剣な表情でこっちを見上げてくる。
受付嬢「……あの、さっきのって……ガルゼ工房で……?」
神「はい。あいつがリィナを閉じ込めてたんです。しかも、暴力まで……。俺が連れ出したら、“金を払わなきゃ売る”なんて言い出して」
受付嬢「ひど……っ」
彼女はぎゅっと胸元を握りしめ、小さく震えていた。
神「明日の夕方までに二十万グレム。持ってこなきゃ、正式に“所有権”を放棄しないって。まるで人を物みたいに……」
怒りと焦りで、自分でも声が少し荒れてるのがわかった。
でも、今さら落ち着いてる余裕なんてない。
神「……だからお願いです。高額依頼で、すぐに稼げる案件、紹介してもらえませんか?」
受付嬢は一瞬戸惑ったあと、すぐに端末を操作し始める。
でも、画面を見たあとに困ったような顔で、申し訳なさそうにこっちを向いた。
受付嬢「……ごめんなさい。ジンさんって、今日登録されたばかり、ですよね……?」
神「はい、でもリィナはB級で、ちゃんと登録してて――」
受付嬢「うんうん、それは確認できてます〜! でも……」
彼女は言葉を選びながら、優しく説明しようとしてくれていた。
受付嬢「高額依頼って、ほとんどがCランク以上の信頼が必要なんです〜。
依頼主さんの信用とか、達成率とか、報告の正確さとか……そういう記録がないと、受けられなくて……」
神「……つまり、俺たちには“信用”が足りないってこと、ですよね」
受付嬢「うぅ……ごめんなさい……。ギルドのルールで……」
ゆるい口調はそのままだったけど、その声にはちゃんと責任と重さがこもっていた。
俺は、まだこの世界で“誰かを救う”ってことが、どれだけ難しいかを実感してた。
でも、諦める気はない。
神「……他に、何か方法はないですか? 誰かに借りるとか、特別な案件とか……。“非公開依頼”とか、裏ルートでも何でもいい。とにかく、リィナを助けたいんです」
受付嬢は「う〜ん……」と少し悩むように目を動かす。
そして、ふと思い出したように、ある方向をちらっと見た。
受付嬢「あ、えっと……情報管理官のカリナさんなら、なにか知ってるかも……です」
神「カリナさん?」
受付嬢「はいっ、ちょっとお堅いけど、すっごく頭の切れる情報官さんなんですよ〜。非公開の危険依頼とか、特別ルートの情報も扱ってるから……ご案内、しましょうか?」
神「……お願いします。頼ります」
頷いた俺に、受付嬢は安心したようにほっと笑みを浮かべて、案内に立ち上がった。
状況は最悪だ。
でも、まだ希望はある。
絶対に、リィナを取り戻してみせる。