第66話「炎神・祝融」
「あ、あの、祝融さん……」
「うるっせェ、帰れったら帰れ!」
祝融が青筋を立てながらしっしと手を振るうと、チャンパオの広い袖が勢いに乗って分厚い旗のように揺れる。
完全にキレている。
外方を向いてこちらを見ようともしないし、言葉全てに怒気が乗っている気がする。
いつもこうなのか、はたまた今日に限って機嫌が悪いのか。やはり今日はやめておいたほうがいいか……。
だが、先ほどの経津主の言い分も理にかなっている。
彼は悩みを巡らせながら400年も待ち続けたんだ。2度の濡れ衣をかけられ、時には命の危機に瀕しながら進んだ道の中、遂に訪れた好機を逃すほどの苦汁を舐めることがどれだけ悔しいことか。
もちろんやり直す選択にある。だがここまで来たんだ。
ベルも鎧銭で待っている。
ここで引き下がるのは情けないというもんじゃなかろうか。
意を決し、口を開こうとしたその時。
「祝融さん、お願いします。せめてお話だけでも聞いていただけませんか」
なんと、俺よりも先にジュリアーノが言葉を発したのだ。
「ああ?ンで突然来た見ず知らずの餓鬼共の話に、俺が耳を傾けなにゃならねぇんだ」
祝融は相変わらず機嫌が悪そうに外方を向き、こちらを見ようとしもしない。
相当シビアな状況。だがジュリアーノは怯むことなく、そのまま深々と頭を下げた。
「仲間の運命がかかってるんです!長い間我慢を強いてやっと見えた光が、あなたの力で掴めるかもしれないんです!」
「かもしれねェんなら……」
「俺からもお願いします!」
「ボクも!」
ジュリアーノに続くように、俺とガイアも頭を下げる。
すると、今まで目を合わせようともしなかった祝融の赤い瞳が、やっとこちらを向いた。
少々無理やりだが、彼の興味がこちらを見た。良い展開だ。
後方にいた経津主は怒涛の勢いで懇願し頭を下げた俺たちに驚くが、ひと呼吸を挟み自身も頭を下げようとした。
とその時。俺は突然胸ぐらを掴まれ、そのまま前へ引き上げられた。
あまり唐突だったせいで状況理解が追いつかず、俺は胸を掴む手に自分の両手をかけ、宙ぶらりんの状態で脚をバタつかせる。
祝融だ。祝融が胸ぐらを掴んで引き寄せ、吊り上がった眉と鋭い瞳で俺をじっと見ている。
「手前ェ!」
「待って!」
拳を握り振りかぶる経津主をジュリアーノが制止する。
おおおおおおおお怖ぇぇぇえええええええ!!!!
なんだ、なんなんだ?まさか怒らせてしまったのか?
黒く深い祝融の瞳孔に、冷や汗を滲ませた顔が映る。
彼は俺の瞳を十数秒見つめると、開口一番に
「お前、どこかで会ったか」
と静かに問うた。
理解できないかった。そんなはずないじゃないか。
「いいいいやぁ……??し、初対面だと思われますが……」
「そうか……」
そうかとは言いつつも、燃えるような赤い瞳と力んだ腕はいまだに俺を離そうとしない。
良い加減服が食い込んで苦しくなってきた頃、祝融は何かに気がついたように前方遠くを見た。そして同時に聞こえ出したのは、豊かな自然の中に重く響く十数の足音。
徐々に近づくそれが気になって後ろへ首を捻ろうとするが、引っ張られる服に遮られ上手く向くことができない。
祝融は不機嫌に舌打ちをしたかと思うと、胸ぐらにかけた手をパッと離した。
案の定尻餅をついた俺は、じんわり痛む腰を摩って労わりながら足音の方を見た。
緑生い茂る中の石畳の先から、少しずつ足音の正体が見えて来る。
金髪の青年を先陣に2人1組、縦へ綺麗に整列した十数の兵士が、寸分のズレもない歩みでこちらへ向かって来る。
最善の青年は見るからに高潔で、腕にはめられた防具や左肩の黄金の甲冑から戦士を思わせる。
背筋を立てて胸を張り、鋭利な碧眼でこちらを見据える姿は、まさしく規律高い凱藍の文化を体現しているかのよう。
青年の姿と後ろに引き連れた兵士たち、そして豊かな自然の中に漂う物々しい雰囲気から察せられる彼の身分、そして名前。
「河伯……」
祝融の呟いた名前には、確かな覚えがあった。
この凱藍神国を治める厳格かつ高尚な河の神。500年前の毒災で亡くなった美神木花之咲耶姫の子息であり、鎧銭を治める紅嬋姫の兄。
「河神さまが直々にご足労なさるなんてな。何の用だ」
「炎神祝融。貴様に黒氾戒への関与の容疑がかかっている」
コクハンカイ?人名?それとも何かの組織名か?
河伯の態度から見るに、どちらにしろ良い名前ではないのは明白だ。
「あーはいはい。どうせ俺が薬師だからってんだろ。調合に詳しいからって、三下の根も葉もないタレ込み信じてわざわざこんな山奥まで来たんなら同情するぜ。無能な部下と手前ェの短慮さにな」
祝融は一切引くことなく嫌味混じりに否定してみせる。
しかし相対する河伯は冷静で、眉ひとつ動かすことはない。
「覃甘迅は知っているな」
河伯の発した名前に、祝融の瞳が動く。
「貴様が働いていた孤児院出身の者だ。今は黒氾戒の幹部となっている」
「……だったらなんだよ」
「甘迅だけではない。その孤児院出身の子供の多くが黒氾戒の構成員として日夜犯罪を起こし、我々に捕らえられ罰せられている。それも、貴様が直接的に育てた者たちばかりだ。これで疑いをかけぬなどは甚だしい愚行。純然たる規律と平和を重んじる凱藍のいち民として、己の潔白の証明の為、家宅捜索へ応じることを願う」
「願う」とは言ったが、この状況は半ば強制的だ。
断れるはずないじゃんか。だって、目の前にいるのは自分の国のリーダーだ。それも、その身が脅迫材料になるほどの強者。
祝融は腕を組んで眉間に皺を寄せ、数秒黙る。
だが
「嫌だね」
実にあっさり、そして淡白な口調で断ってみせたのだ。
「ンでいきなり押しかけた手前ェらの都合で、俺が家に上げてやらにゃいけねぇんだ。断固お断りだね。そもそも、薬師の工房は繊細なんだよ。蛮人供の錆と雄臭ェ手で引っ掻き回されたらたまったもんじゃねぇ。理解ったら帰れ。仕事の邪魔だ」
な、なんてねちっこくはっきりした物言いだ。
ここまでデリカシーのカケラもないのは経津主以上だぞ。
「ケンゴォ、手前ェ今失礼なこと考えてただろ」
「あ、え、い、いや別にっ」
「いい、とりあえず下がっとけ」
経津主が広げた腕に押されて、俺たちは数歩後ろに下がる。
「応じれぬと言うか。ならば仕方がない」
そう言って河伯が右手を真横にやると、そばにいた兵士が抱えていた長い箱を開けて差し出し、河伯は箱の中から何かを取り出す。
ヌンチャク……?いや、少し違う。
それは、歪な双節棍であった。
二つ折りで持ち上げているのに鎖部分が地面に垂れるほど長く、2本ある持ち手には金と紺の冷涼な模様が刻まれている。
見てくれはとても美しいしかっこいいのだが、ブルース・リーに憧れた時期もあった俺としてはちょっとだけ違和感。
河伯は双節棍の両端を両の手で持つと、青い瞳で祝融を静かに見据えた。
「貴様を捕らえ、抵抗の気を削ぐまで」
応えるように、祝融も片足を引き構える。
「言うぜ。ハナからそのつもりのくせによ」
瞬間2人の足元の地面に魔法陣が展開され、目の前が光に包まれたかと思うと、辺りの景色が一変した。
桃色がかった青空は薄紫の雲に覆われた夜空へと変わり、草の生い茂っていた地面はいつのまにか黒く乾いた土に変わっていた。
「亜空間!?」
「チッ、巻き込みやがって……!」
「ジュリアーノ!結界だ!」
ガイアの声を合図に、ジュリアーノは杖のカバーを剥いで地面に突き立て、魔力を注ぎ緑色の結界を張った。
同時、祝融と河伯が地面を蹴る。
河伯は双節棍を握る左腕を後ろへ下げ、鎖の中程を掴む右腕を横に薙いだ。
金属の擦れる音と共に右腕を追う長い鎖の波と柄が、前方祝融の顔面に襲いかかる。
祝融はそれを身を引いてかわしつつ、手のひらに生成した炎の球を河伯めがけて発射した。
しかし河伯はそれを余裕でかわし、左手の柄をその勢いに乗せて投げた。
祝融は空を裂き炎の壁を作って防ぎ、その裏から小さな火の玉を何発も発射する。
ハンドガンのペースで離される火の玉を河伯は地面を蹴って避け、頬を掠める温もりを感じながら距離を詰めていく。
そして彼は、聳え立つ炎の壁を真正面から体当たりで突き破った。
「キメぇンだよォ!!」
怒りの乗った拳を左手で受け流し、間髪入れずに双節棍の柄で祝融の腹部を突く。
だが彼はそれを寸前で握って止め、目線にいた河伯の顔に口から火を吹いた。
しかし河伯は膝で祝融の顎を蹴り上げ、勢いのままバク宙で後ろへ跳んで距離を取る。
砂埃を立てて着地すると、遅れて向かった双節棍の片柄を顔の前で受け止めた。
「しがないお薬屋さんが相手だってのに、容赦がねェなァ」
祝融は口元から滴る血を親指で拭き取り、河伯を睨みつける。
どうやら蹴り上げられる寸前に顎を上げたようで、見た目よりダメージは薄いらしい。
「強者への手加減は闘士と武への冒涜に値する。俺は河神の名に泥を塗る気はない」
「へーへー。大層な志だこったなっ!!」
末尾の音が発せられる前に祝融は地面を蹴った。
右手から出した炎を棒状に形成し、河伯の頭上から叩きつける。
寸前でかわされたせいで炎は空を焼くが、着地と同時に方向を転換し、祝融は再び振りかぶり突進した。
河伯が双節棍の柄で受け止めると、瞬間爆発したかのようなとてつもない衝撃波と熱風が巻き起こる。
それは端で身を固めたいた兵士たちを吹き飛ばしただけでなく、俺たちを覆う結界に大きくヒビを入れた。
「とんでもねェな……」
「でも、名のある神同士の戦いをこんなに間近で見れるだなんて……こんな機会滅多にないよ!!」
状況とは裏腹に、ジュリアーノの声は高揚していた。そりゃそうだ。
目の前で争うのは煌々たる炎神と一国を治める河神。彼らが武器を、拳を振るうたびに赤と青の閃光がぶつかり合い、空間が歪むほどの激しい衝撃の波が起こる。
その光景の圧巻たるや。
俺だって巻き込まれた焦りより、眼前のど迫力に見入ってしまっているのだから。
「ウラァァァァアアアア!!」
「ハァァァアアア!!」
雄々しい叫び声を上げてぶつかる2人。
河伯が長い鎖を自身の体に引っ掛けると、彼の胴体を軸に双節棍は柄で弧を描き、祝融の肩を弾く。
祝融は鈍い痛みに顔を顰めつつ、「お返し」とバレーボールほどの炎の玉を河伯の胸部に叩きつけた。
お互いダメージを喰らい、一旦引き下がる2人。
だがしかし、祝融だけは引くふりをして後ろの足にバネを貯め、着地の瞬間の一瞬体勢が崩れた河伯めがけ、音速にも勝る突進を見せた。
瞬きの間に接近した祝融に河伯が眼を見開いた瞬間、彼の美麗な右頬が拳により鈍く鳴った。
左頬、額、胴と、続け様に叩き込まれる拳を、河伯は顔を顰めながらなす術もなく無言で受ける。
そして腹部に叩き込まれた炎の玉で、彼の体は亜空間の端まで吹き飛ばされた。
空間の壁に激突し、そのまま地面へ落ちて座り込む河伯。
「河伯様!!」
「喧しいッッッッ!!!」
兵士たちの心配の声を一喝し、河伯は地面へ手を突いてなんとか立ちあがろうとする。
だが次の瞬間、前方から真っ赤な光が降り注いだ。
見れば、仁王立ちでこちらを見据える祝融の姿。
天を仰ぐその右手の上では、彼の何倍も大きな球形の炎が天照す太陽の如く渦巻いている。
「安心しな」
言葉と同時に地面を蹴り、宙へ飛び上がる祝融。
「アンタなら死にはしない」
声が終わったその瞬間、炎を思いきり振りかぶり、河伯めがけて投げようとした。
だがその時。
「!?」
河伯の目の前が、突然青白く裂けた。
そして瞼を開いた裂け目の中から見えるのは、雄大な自然が広がる外の景色。
祝融は悲痛に奥歯を鳴らし、咄嗟に炎の軌道を変えた。
直後、祝融のこめかみを打つ金属の衝撃。
勢いに遅れた脳が頭蓋にぶつかり、祝融は激しい眩暈と吐き気に襲われ膝を着いた。
そこから身動きの取れない祝融に鎖と柄の連続的な攻撃が繰り出され、彼の顔には痛々しい痣が量産される。
そしてとどめと言わんばかりの鎖の打撃が祝融の胴に直撃し、彼の体は無抵抗のまま激しく吹き飛んだ。
しかしそれだけでは終わらない。
的を失った炎が威力を保ったままで、あろうことか俺たちの元へ向かってきたのだ。
「やばよ!!こっち来ちゃうよ!!」
慌てふためくガイアをなだめつつ、俺は槍を握る。
横や後ろへ避けようにも、ヒトの足の速さじゃこの大きさの炎はとても避けきれない。
風刃でどうにか……けれどこれだけの炎を、この槍一本で弾くことなんてできるのか?
俺が考えを巡らせるうちに、ジュリアーノがヒビ割れた結界の中にもう一枚の結界を張った。
この炎を消し去るために必要な風力を考えれば、ここにいる全員が吹き飛ぶ可能性も否めない。
炎が結界にぶつかり、一枚を突き破る。
!!
何やってんだ!!考える暇なんかないだろうが!!
槍を握る力を強め、気合い一閃に前へ踏み出した。
その直後、轟音をたてて砕け散る結界。
同時に槍を振りかぶった俺は、雄叫びを上げて跳躍した。
「吹っ飛べーーーー!!!!!」
全身全霊の力を込めて振るうと、コバルトブルーの刃から空間が歪むほどの鋭い風刃が繰り出され、炎の中心にぶち当たる。
だがしかし、とてつもない風圧で炎は一部変形したものの、その威力は衰えることなく迫ってきた。
まずいっ!!
「!!」
背後でジュリアーノの声が聞こえたかと思うと、直後放たれたいくつもの水の弾丸。
水の勢いと消化の力で、迫る炎の勢いが微かに衰えた。
そうだ、まだチャンスはある。諦めるわけにはいかない。
「経津主!俺をあの炎まで飛ばしてくれ!」
「なっ!?正気か!!」
経津主はやめろと訴えるように驚きの声を口にする。
だが意志の強く固まった俺の表情を見ると、彼は静かに頷き、俺の二の腕をガッシリ掴んだ。
「死ぬんじゃねぇぞ!!」
「え、ちょま、これだと」
言葉が終わる前に、経津主は拳を繰り出すように大きく振りかぶり、俺を炎へ思いっきり投げた。
二の腕という体の端を持って投げられた俺の体は、あらぬ回転で炎目掛けて突進していく。
俺の名を叫ぶガイアの金切り声を無視して、遠心力で手放しそうな槍をなんとか胴まで引き寄せ、両手で掴む。
アイテールは言っていた。この槍には風神アイオロスの加護が宿っていると。
俺の考えは不確定で根拠もないものだが、もし吉と出たならばこの炎を退けられずとも、もう少し粘ることはできるかもしれない。
俺は碧槍を水平に持つと、迫り来る炎に全力で叩きつけた。
「よしっ!!」
結果は予想通り。槍が炎に接触した瞬間、本体の周りにとてつもない突風が巻き起こった。
突風はそれぞれが渦を描くように交錯し、なんと巨大な炎の玉を受け止めて見せたのだ。
碧槍は魔力の扱えない俺の力みに応えてくれる。
原理はわからないが、これなら少しだけ持つはず。
「ジュリアーノ!!もっと魔術を!!」
「でもっ……うん。わかった!!」
ジュリアーノは杖を構え、詠唱を始める。
(ケンゴに当たってしまうかもしれない。でも、どうにか3つに分散させられれば……!)
「大地を浄化せし清らかなる水よ、我が命に応えたまえ!"深淵の嘆き"!!」
彼の声と同時に杖の先端に水が凝縮し、1つの小さな球を生成する。するとその玉はぷっくり膨らんだかと思うと、細胞分裂のように3つに分かれ、それぞれから超高圧の水鉄砲を放った。
それは俺の左右と頭上で対象を貫かんばかりの勢いでぶつかり、巨大な炎を見事に受け止め押さえた。
よし。少しずつだけど、威力が抑え込まれている。このまま……
「ぐっ」
さすがの碧槍にも限界が来たのか、炎を弾く突風が徐々に弱まり、熱気が俺の腕を焼き始めた。
煙と共にあまり嗅ぎたくない臭いが鼻を通る。グローブが消し炭になり、指の皮と爪が剥がれて、筋の通った赤い肉が顔を見せる。
激痛に歯を食いしばりながらも槍を押し込むと、ついに槍と両手が完全に飲み込まれた。
威力は少しずつ治っている。あと少し、あと少しの辛抱だっ!!!
と、その時。
激甚の勢いで目の前まで迫っていた炎が、突然消えてなくなった。
あたりに立ち込める灰色の煙と、頭上から振りそ注ぐ大量の雨。そして、うるさいくらいに響く消火の音。
いきなりのことに理解が追いつかない状態で、風を失った俺はそのまま地面に落下した。
受け身を取ったものの、焼け爛れた両手を地面についてしまったばかりに走った激痛に悶絶する俺。
慌てた様子で駆け寄ったジュリアーノがヒーリングを施し、ガイアは「バカバカ」と泣いて連呼しながら生命力を注いでくれた。
経津主は「良くやった」と言うような顔で俺とジュリアーノの頭を雑に撫でる。
「すまないな、少年」
泣きながら俺の肩を殴るガイアをなだめていると、河伯がこちらへゆっくりと歩み寄って来た。
武器は持っていないし、言葉や声色から敵意も感じられない。
彼の背後に目をやってみれば、4人の兵士の取り押さえられ「離せゴラァ!!」と痣だらけの顔で喚いている祝融が。
しかし河伯は一切の関心を示すことなくその場でしゃがむと、焼け爛れたオレの両手を見て懐から何か布のようなものを取り出した。細長く若干緑っぽいそれを彼は傷口に丁寧に巻き付け、最後に手のひらをかざして念じはじめる。
すると、巻きつけられた布の上に緑色の魔法陣が浮かび上がり、同時に焼け付くような痛みがスッと引いていった。
驚き、手を何度も握って開いてをしてみるが、先ほどの火傷が嘘のように全くもってい痛みがなくなっている。
ヒーリングとはまた違うようだけど、これも治癒魔術の一種なのだろうか。いや、凱藍だから妖術なのかな。
なににせよ、包帯巻かれた手に魔法陣が描かれているこの様はなかなか悪くもないというか、痛みが引いた今は若干楽しくもある。
「銀行口座は持っているかな」
「えっと……ギルド銀行に一応」
「では、ギルドパスポートを見せて欲しい」
そう言われたのでカバンからパスポートを取り出すと、河伯はその上にひと回り大きな手漉き紙を置く。
すると、まっさらな紙の繊維からみるみるうちに赤いインクのようなものが浮かび上がり、あっという間に俺のパスポートが紙の中に映し出された。
河伯はそれを懐にしまうと、こちらへパスポートを返却した。
「治療費と慰謝料は後日振り込んでおこう。もし不満があれば、裁判所へ提訴して貰っても構わない。合間を縫って必ず応えよう」
随分と律儀なんだな。まあ、一国のリーダーだしな。
ふと槍のことを思い辺りを見回すと、俺の右斜め前の地面へ綺麗に突き刺さっていた。
さすが鍛神ヘパイストスの作った槍だ……あの威力の炎を受けても変形変色ひとつ見られない。
オリハルコンと朧栗……だっけ?とんでもねぇな。
やっぱり、ちょっと身の丈には合わない気がするよなぁ……。
河伯が指を鳴らすと、足元にまた巨大な魔法陣が出現し、周りの景色が元の雄大な自然と桃色がかった青空へ戻った。
河伯は立ち上がり小さく頭を下げると踵を返し、取り押さえられている祝融へゆっくり歩み寄る。
「今回素直に応じなかったこと、この私へ拳を向けたことは罪として咎めることはない。だが覚えておくと良い。武力での解決を選択するならば、相手を選ぶべきであるということを」
「ざっけんなクソ神が!!ぶっ殺してやる!!」
河伯が放った双節棍の鎖が祝融の頬を打つ。
祝融は血の混じった唾を吐き、右頬の腫れた河伯の顔を睨みつけた。
「調べろ」
河伯がそう言うと、残りの兵士たちが一斉に祝融の家へ押しかけ、家宅捜索を始めた。
分かってはいたことだがその様子はなかなか酷いもので、棚の引き出しを全て抜きひっくり返したり、薬草の詰まった壺や木箱の中身を全て出したり、中身の入った陶器を地面にぶつけて壊したり、器具を分解したり。正直見ていて気持ちのいいものではなかった。
数十分後、家宅捜索は終わったが、彼らの様子を見るに目当てのものは見つからなかった様子だった。
河伯は兵士からの報告を受けても眉ひとつ動かさない。それは当然とも意外とも思っていない、今回の事案を真に業務の範囲でしかとらえていないような、そんな凛々しくも冷たい表情だった。
拘束を解かれた祝融は、ずっと同じ体制で固まった肩をほぐしながら、生意気な様子であぐらをかき不服そうな眼差しを向ける。
「ご協力感謝する、祝融殿」
「るっせぇな!!さっさと帰れってんだボケ共がァ!!」
祝融は吠え、泥のついた草を投げつけるが、河伯は手刀で軽く払いのける。
その後は何も言うことなく、再び兵士たちを引き連れて階段を下っていった。
祝融は黙っている。
紫色の頬をそっと撫でてみるが、痛みに顔を顰めて舌打ちを打った。
口の中で舌を転がし、血まみれの奥歯を手のひらに吐き出すと、苛立ちを遠ざけるかのように彼方へ放り投げた。
哀れ……と言うのは失礼だろうか。
励ましたい気持ちはあるが、初対面の俺が下手に同情をすれば彼をより傷つけかねない。
どうしたものか……。
屈強な男たちと入れ替えの形で登って来た、麻袋を抱えた1人の小さな少女。
抹茶色の褐を纏った、お世辞にも綺麗な格好とは言えない彼女は、見慣れぬ顔たちを不思議そうに一瞥した後に痣だらけの顔で地面に座り込む祝融を見つけると、驚いた様子で彼の元に駆け寄った。
「ほ、崩先生……だいじょう……ぶ……?」
「ああ」
ホウ先生……?あだ名か何かかな。
祝融は「薬か」と尋ね、少女が「うん」と頷くと立ち上がり、若干おぼつかない足取りで家の戸を開けた。
床も机も何もかもがぐちゃぐちゃになった工房の中で、散らばった薬草や器具、本や書類などをかき分けて何かを探し始める。
少しすると、祝融は小さな巾着袋に入った小瓶を持って出てきて、それを少女へ手渡した。
少女は「ありがとうございます」と小瓶を受け取ると、持っていた麻袋を渡して深々と頭を下げ、そのまま小走りで階段を降りていった。
嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる三つ編みの後ろ姿を眺めてため息を吐くと、祝融は家の中に戻っていった。
「……どうする……?」
ジュリアーノが不安げに問う。
俺は何も言わず歩き、祝融の家の戸をノックした。
「失礼します」と開くと、ひどく荒らされた工房と居間が合わさったような家の中を、祝融が1人で片付けていた。
散らばった薬草を屈んで木箱に詰めて蓋を閉め、時折よろつきながら棚に戻す。
分解された器具が割れていないか一つ一つ確認しながら組み立て、机に置く。
とても平気な様子には思えない。
「あの、手伝います」
「要らねぇよ。帰れっつったろうが」
祝融はこちらに目すら合わさず、黙々と床のものを拾う。
俺は一瞬迷ったが、入り口付近に散乱した本をいくつか拾い集め、収納場所を訊いて棚に戻した。
祝融は何も言わない。
そのまま床に散らばるものを拾い続けていると、ジュリアーノや経津主もそれに続いて、陶器の破片を拾ったり倒れた家具を起こしたり、ガイアは俺の指示を聞きながら服や布を集めた。
そんなふうに山積みを仕分けていると、幾重にも重なった雑多の中に何か蠢くものを見つけた。
見つけた瞬間は驚いたが、動物が下敷きになっていたら危ないと、急いでものをどかす。
すると
「げっ」
本と布の間から顔を出したのは、クリーム色の丸っこい物体。
側面にある黒やオレンジの点と、このうにゅうにゅした鈍い動き。
芋虫だ。クソでかい芋虫が埋まってる。
別に虫が苦手とかそういうことじゃないんだが、この大きさは気持ち悪いが勝る。さすがは自然豊かな凱藍といったところか……ちょっと豊かすぎる気もするな。
俺の太ももくらい太いんだけど……でもこんなところで潰れてもらっても困るしな。
俺は顔を顰めつつ、周りの雑多をどかして芋虫の胴を持ち引っこ抜いた。
やはりと言うべきか、薄い膜の中にどろっとした体液と内臓が詰まったこの感触は、決してこのデカさで味わうべきものではない。
ツラと脚は直視したくねぇなぁ……このまま外に逃すか。
「いやぁ助かったよ。いきなり本やら何やらが降りかかってきたもんでね」
「いえ、今度から気をつけてくださいね…………は?」
芋虫を抱えて玄関へ歩いていた途中、かわいらしい声が聞こえた。
典型的なゆるキャラ声。
嫌な予感がして、恐る恐る目線を下げる。
するとその時。
何かがにゅっと、俺に視界に入ってきた。
それは、若干の黄ばみと黒ずみが使い古された過去を物語る白い石膏仮面。
だが、問題はここから。
仮面の裏から、何か赤黒いものが伸びている。干物のようにシワシワに干からびているが、動きそのものは蛇のように滑らか。
嫌な意味で高鳴る鼓動と動悸を堪え、黒いものを視線でなぞっていくと、その根本は俺の抱えている芋虫の頭部にあった。
俺を向く石膏仮面をもう一度見る。
「君、白湯みたいに薄味の顔だね」
その瞬間、足元から強風が吹き荒れたかのように全身の毛が逆立った。
気付くと俺は、奇声を上げて芋虫を野外へ全力で放り投げていた。
間髪入れずに俺の後頭部に飛んできたのは、硬い右フック。
「うるっっせぇんだよぶっ殺すぞ!!」
「む、虫ッッッ!!!虫ッッッッ!!!!」
「ああ?」
祝融は俺の指さす方で蠕動する芋虫を見ると、深くため息を吐いた。
「お前ェ、餓鬼をびびらすんじゃねぇよ」
「勝手に驚いたのはそっちさ。私は助け出してくれた礼をしたまで」
「なんで!?めっちゃ本気で投げたのに!!!」
騒ぎを聞きつけたジュリアーノたちが駆けつけ、例の如く芋虫のビジュアルに引き攣った声を上げる。
「いやはやしかし、怖がらせてしまったのもまた事実。謝罪させておくれ少年」
「まあ……はい……」
芋虫は棚の上に登ると、お辞儀のように石膏仮面を下げる。
「私は神。冬虫夏草の神だ」
「冬虫夏草……?」
「キノコの一種だよ。虫を宿主にして子実体を作るやつ。漢方とか薬膳料理、凱藍料理にも使われるね」
ジュリアーノが人差し指を立てて解説する。
バックボーンも見た目も、なんと気色の悪い……。
「決まった名前はないからね、自由に呼んでくれて構わない。そこの彼には「オイ」とか「手前ェ」って呼ばれているよ」
冬虫夏草の神は胴体の前方をウィリーのように上げ、細かく生えた脚をワキワキ動かす。
その光景の気持ち悪さときたら……。いいやつではあるのだろうが、とても仲良くなりたいとは思えないな……。
やや広めの家だったが、片付けは数時間ほどで終わった。
割れた陶器や木箱、細かく散らばった薬草などは仕方なく捨てたが、あとはおそらく元通りだろう。
「いやぁ素晴らしいね君たち。おかげですっかり綺麗になったよ。ありがとう」
胴を立たせて左右にウネウネ動きながら言う冬虫夏草の神。
正直、嬉しくはない。喋り方がちょっとガイアに似ているのも気に食わない。
「ほら、崩季くんもお礼を言って」
そう言って彼が向いたのは、木椅子に腰掛けて不貞腐れる祝融。
また違う名前で呼んだ。やっぱりあだ名なのかな。いや、この国の文化と俺の住んでいた世界を考えれば、もしかすると字のようなものかもしれない。
だとすると、どっちで呼ぶのが正しいのだろう。
古代中国だとよほど親しい人物でなければ本名で呼ぶのは失礼だったはず。こちらも必ずしも同じとは限らないが、思った3倍は共通点が多いのがこの世界。
そもそもどっちが字かわかってないしな。多分祝融でいいんだと思うけど……。
「……頼んでねぇし」
「ちょっとちょっと、品性を捨てても礼儀を欠いてはいけないよ。結局やってもらったんだからさ。ほら、口に出すだけだから」
祝融の眉間には深い皺が刻まれている。
地鳴りのような低いため息を吐いたかと思うと、突然机を殴って立ち上がった。
「……ありがとう」
怒気の抜け切らない声だが、それははっきりとした感謝の言葉。
その様子に、俺とジュリアーノは思わず笑みが溢す。
「謝礼は出す。注文はなんだ」
「え、いいんですか?聞いてくれるんですか!?」
「傷も治してもらっちまったからな……このままじゃ俺が礼儀知らずのクズになっちまう」
「そ、そんなことはないと思いますけど……」
とはいえ、内心舞い上がっている。
あれだけ問答無用で突っぱねてきた祝融が、注文を聞いてくれると言うのだから。
ジュリアーノとガイアは向かい合ってガッツポーズをし、経津主は安心したように口角を上げた。
不運の末にツキがあった。こんなに酷い火傷をした甲斐があったってもんだ。
注文の内容を事細かに話すと、祝融は難しい顔で考え込んだ。
顎に手をやり低く唸る彼を見ていると、心の中がなんとも言えない不安に侵食されていく。
「難しい……ですかね」
「難しいな」
やはりか。
呪いや術はもともと強力なものよりも、年季の入ったものの方が浄化はかなり厄介だと聞く。
長い年月が経つうちに術そのものが対象の一部として根を張ってしまうため、術の仕組みを解く『解呪』でない、術そのものを消し去る『浄化』は難しいのだ。
だがしかし、不安げに眉を下げる俺たちに、祝融は力強く言って見せる。
「難しい……が、可能だ」
「!!」
「本当か!!」
その言葉に思わず身を乗り出す経津主。
祝融は黙って頷き続ける。
「数百年ものとなれば、有効なのはまじないだな。魔法薬とも言うが、その名の通り薬の調合に術を使用した代物だ。今回は浄化だから、そうだな……」
立ち上がり、棚から本を数冊取り出して開く。
そしていくつかの木箱、壺、引き出しを確認し始めた。
「400年ともなれば相当貴重な素材が必要だ。ある程度はウチにあるが、いくつか足りねぇ」
「何が足りないんです?」
「巴蛇の蛇珠、苔の神の雌株、御國桜の新緑、それを燻す護法神哪吒の炎」
全部で4つ。それを集めれば。
「俺たち、それ集めてきます!」
「馬鹿言えクソッタレが。冒険者ギルドの依頼じゃねぇんだ。武力でなんとかなる問題じゃねぇ。特に凱藍の神は気難しい奴が多いんだ。馴染みのある俺が直接行かねぇと」
アンタがそう言うんならそうなんだろうな、絶対。
「その道中、俺様たちも同行させちゃくれねぇか」
「好きにしろ。ただし、どんなことが起きても俺は責任とらねぇぞ」
これで許可はもらった。いいぞ、順調じゃないか。
長い道のりを乗り越え、怒鳴られ喧嘩に巻き込まれ、終いにゃ焼き殺されそうになって。でも、ようやくここまで漕ぎ着けた。
あとは素材を集めてまじないを完成させるだけ!
「本当にありがとうございます祝融さん!」
「一歩前進だ!ね、経津主!」
「ああ」
「祝融さんサイコー!!」
「そうそう。サイコーなヤツなんだよ」
なぜか冬虫夏草の神も混ざってわちゃわちゃする俺たちに、祝融は呆れたようにため息を吐いた。
「崩季だ」
祝融が立ち上がり、おもむろにそう言う。
「そっちの名は好きじゃねぇんだよ」
俺とガイアとジュリアーノは不思議そうに顔を見合わせて、思わず笑みを溢した。
「じゃあ、「「崩季さん!」」」
崩季は口をへの字に曲げつつも、満更でもなさげに「おう」言って部屋を出て行った。
今日は色々とあったが、何はともあれ、大きく前進したことには違いない。
これから忙しくなるぞ。少しデジャヴな感じはあるが、何かを作るために必要な過程は似ているものと考えればいいさ。
待ってろよベル。終わったらすぐに帰るから。
そしたら美味いもん沢山作って、みんなで食べような。




