第50話「異変」
「トト様!どうなさいましたの!?トト様!!」
跪きうずくまるトトに、青ざめた顔で駆け寄るアサーラ。
口元を押さえる右手の指の間からは赤黒い液体が溢れ出し、青い絨毯を奈落の色に染め上げる。
茶を飲み皆の生還を待ちながら他愛のない会話をしていたところ、突然トトが血を吐き呻吟しだした。
ウルファはすぐに杖を取り出してヒーリングを施し、ガイアは立ち上がって彼の肩へ手をやり微量ながら生命力を注ぎ込み、ベルは何が起きているのか把握しきれずあたふたしていた。
一番そばにいたアサーラは顔面蒼白で冷や汗を流し、行き場のない両手を右往左往させる。
トトは咳き込むように血を吐き続け、震える脚でゆっくり立ち上がる。
「いけません!どうかご安静にしてくださいまし!」
「…………ば…」
血まみれの口から何かを言っているようだが、アサーラには詳しく聞き取ることができなかった。
「うっ、ぐあああっ!」
今度は頭を押さえて苦しみ出した。
足をもつれさせて壁に倒れ込み、頭の中から湧き出るものを必死に防ぎ込むように両手で押さえ悶え、また吐血する。
生まれて初めての凄惨な現場にアサーラは今にも泣きそうな顔で肩を震わせ、自分自身もパニックになりながらどうにか助けようと水を持ってきたり背中をさすってみたりするが、彼の容態が良くなる気配は一向にない。
前触れも無く押し寄せた異常事態で皆がどうにか対処しようとする中、当の本人であるトトの頭は何もかもが吹き飛び、脳みそごとかき混ぜられるような痛みが続いている。
そんな最中で彼の脳裏に浮かぶのは、ただ、「外へ行かねば」という言葉のみ。
先刻まで至って健康体であったはずの己の肉体が突拍子もなく悲鳴をあげ、理性を消し去るほどの痛みを発し苦しんでいるという不可思議な状態。
いったい自分の身に何が起こったしまったのか、常人であればある程度すら解明できない状況であるが、トトにはある覚えがあった。
国や地域の存続を揺るがすような大規模な災害は、世界のどこで起ころうと必ず文章という形で記録され、災害の概要だけでなくそれらがもたらした二次災害までもが詳細に書き残されているのだ。
トトはアサーラへ歴史を語るにあたり、それら書物を多く読み込んで記憶を補完していた。
それはシャンバラの毒災に関するも例外ではなく、世界各国で執筆された書物を時間が許す限り日夜読み耽っていた。
毒災が起こったのは約500年も昔であるが、良好な環境で保管された書物に年季などは関係ない。
いくつもの大国を滅ぼしかけた厄災であるから、当然書物の内容も他のものよりもずっと鮮明だ。
そしてその中には多くの神々が苦しめられた”呪い“に関することも載っていた。
呪いの症状はヒトによって多岐にわたるものの、頭痛、内出血、吐血、理性の欠如の4つはほとんどの事例で共通してみられており、今トト自身が認識できる範囲ではこのうちの3つが当てはまる。
それがいったい、何を意味しているか_____。
(理性が保てない……このままでは……!!)
トトは再び立ち上がると、おもむろに手をかざして念じる。
すると何もなかった漆喰の壁に突然焦げ茶色の扉が現れた。
歩くことすらままならない様子で倒れ込むように扉へ手をかけると、勢いのまま開いて外に飛び出した。
驚いたアサーラたちが彼の名を呼びながら扉を潜ってみると、そこには果てしない青空と見慣れたタイル製の一本道が続いている。
図書館の屋外に出たのだ。
「トト!どうしたの!待ってよ!!」
袖を引っ張るガイアの制止に聞く耳持たず、トトは緩やかな坂を下り続けた。
(もう持ちそうにない…!早く…どこか…、開けた場所へ…!!)
混濁した意識の中で必死に自分自身を呼び覚まし、ただ前へと進むトト。
羽織っていた赤い上着を脱ぎ捨てると、一対の巨大な浅緑色の羽が中間着の背中に空いた穴を突き破る勢いで出現した。
トトは助走をつけると巨大な羽をバッサバッサと羽ばたかせ、そのままなりふりかまわず突風を巻き起こしながら清々しく青い空へと飛び上がった。
「トト様ー!!」
焦心と困惑により引きつった声で名を呼ぶアサーラであるが、トトがそれに振り向くそぶりはない。
あっという間に天高く舞い上がったトトは制御の糸を失った凧のように右往左往しながら、城下を越えた地平線に見える無地の砂漠を目指す。
「アサーラ様ー!!」
聞き覚えのある声に名を呼ばれアサーラが目線を下げてみると、そこには慌てた様子で馬に乗りこちらへ走ってくる5人の衛兵の姿があった。
訊くとトトの知らせを受けてシャジェイアの引き継ぎをしに来たそうだが、何やら尋常でない様子を察知して急いで駆け付けたのだとか。
事情を説明してみると、皆が血相を変える。
「急いで追いかけましょう!馬に乗れば追いつけなくとも見失うことは無いと思います、皆さんを背に乗せてやってください!!」
「いえ、いけませんアサーラ様。我々の中で最優先されるのは姫様の安全、そこのお三方と追いかけることはできても、その道中にあなた様をお連れすることはできません」
「何を言っているの!?ミフターフとその民を守ることは王族の使命!神といえどトト様はれっきとした我が国の民、私はあのお方を守る義務がありますわ!!」
彼女の言い分は確かにもっともである。
しかし、それでも衛兵としてアサーラの同行を許すことはできない。
何故なら
「姫、無礼を承知で申し上げます…」
「言ってみなさい」
「この現状、我々に同行なされたとて、あなた様にできることはございません」
「!!」
それは、先ほど自分自身にも言い聞かせた言葉であった。
賢吾が行方不明との知らせを受けた際、責任を感じて彼女自身も捜索を手伝おうと考えたが、部屋を出る直前に思い直した。
トト、シャジェイア、ジュリアーノ、経津主、サイファル、アサド、この屈強な戦士たちの中に飛び入ってヒト1人の救出に向かうには、自分は貧弱すぎると理解していたからだ。
そう、理解していたのだ。
私情でヒトの命に優劣をつける気などは毛頭無い。
なのに何故今、こんなにも気持ちが抑えられないのか。
それだけアサーラ、いや、ミフターフの民にとってトト神という人物が重要な存在ということなのだろう。
「…冷静さを欠いていましたわ、申し訳ありません……」
「ご理解いただき、感謝申し上げます」
アサーラの選択は正しいが、凄惨な光景を目の当たりにしていたガイアにとっては心苦しいものであった。
賢吾の救出に同行させてもらえず端っこで拗ねていた自分を思えば、彼女の態度は立派そのものである。
けれど、やはり不憫だ。
兵士はガイア達3人をそれぞれ後ろへ乗せ、残る2人は姫の護衛と報告の役割となった。
どうか、皆さんご無事で。
別方向に駆けってゆく後ろ姿を馬に揺られ見送りながら、アサーラは心の中でそう祈った。
いきなり姿を消したトトに懸念したオレたちは、取り急ぎ図書館へ戻るために大通りを走っていた。
空間転移でどこかへ消えるならまだしも、分身の術が突然解けるなんて、トトは律儀だし何も言わずに忽然といなくなるだなんてあり得ない。
図書館で何か良くないことが起こったのかもしれない。
敵襲か?まさか、十二公がもう1人!?
とにかくこの目でみんなの無事を確認するまでは落ち着けない。
「待て!あれを!!」
道端で突然立ち止まり、空を指すサイファル。
いきなり止まった脚につまづきつつも見上げてみると、前方の空にゆらゆらと揺れながら飛行する緑色の何かが見えた。
オレは遠くすぎてシルエットしか視認できないが、衝撃を受けた顔つきで凝視するシャジェイアが詰まるような声でその名を呟く。
「トト様…!!」
「な!?」
それを聞いてもう一度目を凝らしてみる。
確かに羽が生えているが、サイズ感は人間そのもの。
しかしその飛行はフラフラと不安定で今にも力が抜けて墜落しそうだ。
シャジェイアは目元に降り注ぐ日光を左手で遮り、更にトトを見つめると、突如血相を変えて叫んだ。
「まさか…出血しているのか!!」
どれだけ目を凝らしたとてオレにその様子は見られない。
だが、いつ何時も冷静を崩さない彼がこのような表情をするのならば本当なのだろう。
「確かかシャジェイアさん!」
「鮮明ではないが、何か黒いものが滴っているように見える…」
「まずいだろそれ、絶対な……おい!!堕ちるぞ!!」
右往左往飛行していたトトの体が突然、制御を失った戦闘機のように真っ逆さまに落ちていった。
位置的に見れば城下の方か……まさか広場に!?
だとしたらまずい。
あっちには十二公との戦闘で避難した人々が集まっているはずだ。
もし大衆の中に血まみれのトトが落下してきただなんてなれば、集団は一瞬でパニックになるに違いない。
「ジュリアーノ、オレの槍持ってるか?」
「あ、うん!」
ジュリアーノがポーチの中の亜空間から取り出した槍を受け取ると、オレはそれを背負って前へ踏み出した。
「急ごう!!」
オレがそう叫ぶよりも早く、一行は走り出していた。
皆の胸中にはトトの無事を祈る想いがただ一つ、そのために戦闘で疲労困憊した体に鞭を打ち、照りつける太陽の中をひたすらに全力で突っ走った。
城下には数千人の人々がごった返し、その半分近くは広場で演劇や伝統芸能を見たり周辺の出店で物品を見定めたりと、実に建国祭らしい盛り上がりを見せていた。
その一角で出張図書館を営んでいるシェファは、突如消えてしまったトトを探して大衆の中を見渡していた。
トイレや何かを買い出しに行ったのであればすぐに帰ってくるはずであるし、緊急を要することならば報告をするはず。
なのに彼は何も言わずに忽然と姿を消してしまったのだ。
まださほど時間はたっていないが、一向に現れる気配の無いトトにシェファの不安は募るばかり。
「何も…なければいいけど…」
そんなことをふと呟いた時、足元を数人の子供が駆け抜けていった。
鬼ごっこでもするように後の子から逃げる女の子達の手には、木製の可愛らしい人形が握りしめられている。
周りを見ればなんらおかしい光景ではないが、彼女らの持つ人形の服についている数枚の羽根にシェファはよく見覚えがあった。
「そのお人形の服、羽根がとっても綺麗ね。それどうしたの?」
「えへへ、ありがとうおねえちゃん。これね、あそこのウラにおちてたの」
女の子が指さすのは出張図書館の一角にある本棚であった。
「だれのー?ってきいてもだれもなにも言わないから、たくさんあったしチョットだけもらっちゃった」
近くで見てみればやはりそれはトトの羽根。
それが道端に大量に落ちていたというのだ。
嫌な予感がし、シェファは急いで女の子の言っていた本棚の裏を確認する。
すると、そこには確かに浅緑色の羽根の山が形成されており、それらは間違いなくトトのものであった。
何故こんなところに落ちているのか、シェファが不思議そうに一枚拾い上げたその時。
バーンッ!!
突然背後から何かが勢いよく落下したような音がした。
振り返ってみると、広場の中央付近一体を取り巻くように濃い砂煙が立ち込めている。
シェファは異常事態にどよめく人々の波を掻き分けて様子をうかがう。
そよ風に吹かれて徐々に消えてゆく砂煙の中心には、大きな緑色のシルエットがうずくまっていた。
それを目にした瞬間、慌てふためき石畳に躓きながら駆け寄るシェファ。
「ト、トト様!?トト様!!」
墜落したのは血反吐を吐き出し頭を抑え、苦しそうにうめくトトであった。
シェファはハンカチを取り出し彼の口元を拭うが、彼の苦しみが治らない。
落下物の正体に気がついた広場の民衆は一斉にどよめき、心配して駆け寄る者、慌てふためき騒ぐ者、医者を呼ぶ者、兵士を連れてくる者が混在して一気に大混乱へと陥った。
「ぐうううっ!!」
今にも割れそうな頭を必死に押さえ込んで立ちあがろうとするトト。
翼を広げ再び飛び立とうとしたが、すぐに崩れ落ちてまた地面に伏せた。
シェファは泣きそうになりながらトトに言葉をかけ続ける。
ただの人間である彼女にも、彼の状態が非常に深刻であり命の危機に瀕しているということがヒシヒシと伝わってくる。
お願い、お願いだから、だれかトト様を助けて!!
彼女の目から溢れる大粒の涙が、地面に広がった血の水たまりにポツポツと落ちて消える。
トトの理性はもう限界だった。
壁を越え路地を跳び、城下の広場まで一直線に駆けるオレたち。
これだけ全速力で走り続ければとっくにバテても良いはずだが、今はそれどころじゃない。
一刻も早くトトの元へ向かわねば、彼が危ないのだ。
やっと大広場の前まで来たその時、突如として巨大な影がオレたちを覆い尽くした。
見上げれば、それは2メートルほどの大きな瓦礫。
危ない!
皆咄嗟に横へ跳んで避け、転がった。
石畳にヒビをつけ砂埃を撒き散らし、砕け散った瓦礫は周りの家屋の壁と同じ漆喰の張り付いた石材であった。
周りを見渡せば隕石のようにあちらこちらに降り注ぐ瓦礫で倒壊する家屋と、前方から火砕流のように押し寄せる民衆で場は大混乱。
「な、なんなんだいきなり……!?」
「みんな広場の方から逃げてきている。瓦礫が飛んできているのも広場からだし、やっぱり何かあったんだ!」
「急ぐぞ!」
立ち上がり、再び全速力で広場を目指す。
華やかな三角旗やアーチをくぐり抜けてたどり着いた広場。
その瞬間、光景を見た一同は我が目を疑った。
「なんて…ことだ……」
先刻まで多くの人々やもようしものが集まり賑わっていた大広場は見事な阿鼻叫喚。
崩れた家屋や山車の瓦礫がそこらじゅうに散乱し、逃げ遅れ下敷きになっている人もしばしば。
なんて酷い、誰がこんなことを、やはり十二公がもう1人潜んでいたのか。
ヒトを誘拐して騒ぎを起こすだけじゃ飽き足らず、広場をめちゃくちゃにした挙句に怪我人まで出すなんて、許せない。
「とにかく人命優先だ!瓦礫に埋もれた人を救出するぞ!」
「は、はい!」
シャジェイアの呼びかけに答え、皆急いで下敷きになっている人々のもとに駆け寄る。
トトがああなってしまったのもきっと十二公が関係しているはずだ。
彼が心配だが、今は目の前の命を優先しよう。
幸い瓦礫の下敷きになっている人は数人だけであり、後から来た衛兵たちが皆抱えて避難場へ連れて行った。
他にいないかとあたりを見渡して見ると、砂埃舞い崩れた噴水の近くでシェファが座り込んでいるのをみつけた。
「おーい!シェファー!!」
「……!ケンゴさん…!」
「どうしたんだこんなとこで、一体何があったんだ?」
オレがそう問うと、シェファは涙腺のダムが欠壊したかのように突然わんわんと泣き出し、オレに抱きついた。
その様子にただ事じゃないと感じ抱きしめ返すと、泣き声に混じりにかろうじて搾り出したような声で言う。
「トトさまが!トトさまがあああ!!」
「トト!?トトがどうした!?まさか十二公に!?」
「ひぐっ、ちがっ、ち、ちがううう!トトさまあああ!!」
涙を拭い鼻を啜りながら彼女が指さす方を、恐る恐るに見る。
絶句した。
絶句せざるをえなかったのだ。
家屋の屋根にしがみつき、こちらをジッと見つめる不気味な緑色の怪鳥。
顔はトキのようだが長い首が針金のように捻れて、胴から生える2本の脚もあらぬ方向に曲がっている。
砂煙の中でビー玉のようにギョロリとした黄色の瞳でこちらをまっすぐ見つめて離さない様子は、まさしく怪異であった。
「トトが…アイツに……」
オレは背中の槍を取り出すと、怪鳥をキッと睨みつけ構えた。
待ってろシェファ、トトのカタキは必ずとってやる。
崩れた石畳の上を全速力で駆けて踏み込み一気に跳び上がって家屋の屋根を左手で掴むと、そのまま逆上がりのように足を突き上げて屋根に跳び乗る。
走り込んでヤツの真正面まで来ると、オレは一歩踏み込んでヤツの翼に一撃を入れた。
「ギャアアアッ!!」
鼓膜を引き裂くような不快な絶叫をあげて翼を羽ばたかせる怪鳥。
逃げようとするがオレに負わされた傷が深く、上手く羽を動かすことができないまま足場の家屋が倒壊し、そのまま瓦礫と共に地面に落下した。
怪鳥は千鳥足で立ち上がるとこちらへ一直線に走り、するどいクチバシをオレの胴体めがけて突く。
オレは一歩下がってから槍を構えて突きを受け流し、勢いのまま柄でヤツの顔面をぶっ叩いた。
怪鳥は踏ん張ることもなく、そのまま背後の家に横から激突した。
コイツ、案外強くないぞ。
パワーこそあるけれど、おそらくこの大きさに見合う程度だ。
踏ん張る力も攻撃する力も、ましてや相手を狩る方法すらもよく理解していない様子。
こんなヤツにトトはやられちまったってのか?
いや、出血していたと言うのが事実ならば全然あり得る話だ。
クソ、オレが誘拐なんかされなきゃ!!
崩れた家の瓦礫の中から起き上がる怪鳥。
曲がりくねった脚で石畳を踏み締め、同じく曲がりくねった首を伸ばして黄色い瞳でこちらを見据える。
「許さない、絶対に…!!」
オレは槍を握りしめ、再び構える。
と、その時。
「やめてっ!!!」
「!?」
突然オレと怪鳥の間にシェファが割って入ってきた。
「シェファ!?…心配すんな!カタキはオレが必ず__」
「ちがうんです!ちがうんです!!」
顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくりながらそう訴えるシェファ。
違う?違うってなんだ?
意味がわからず困惑するオレに、シェファは涙を拭いながら言う。
「トトさまなんです!あ、あれ!あれ!!トトさまなんですうう!!」
「……は?」
理解が追いつかず、すっとんきょうな声が出てしまった。
この子は、いったい何を言っているんだ?
もう一度怪鳥を見る。
浅緑の羽根、山吹色の瞳。
そして目を凝らせば見えてくる、クチバシ付近に引っかかった金縁のチェーン付きの丸メガネ。
信じられなかった。
信じたくなかった。
目の前のおぞましい怪物が、アルビダイアの街を荒らす怪鳥の正体が、
「…ト…ト……?」
友人の成れの果てだなんて。
 




