第43話『建国祭初日1』
建国祭のミフターフはそれはそれは大賑わいで、普段とは比べ物にならないほどの活気に満ち溢れていた。
いつもは鬱陶しく感じるガイアの声も、すぐ隣にいるはずなのに全く気にならないほどの大騒ぎ具合。
これで例年の3分の1ってんだから、もう笑っちゃうわ。
年中猛暑のミフターフ、しかも一つの町の一箇所にこれだけの人々が押し寄せれば熱中症で何人かぶっ倒れてもなんらおかしくはないが、そこはさすが異世界と言ったところ、なんと街全体に冷涼な空気を漂わせる結界が張り巡らされているのだ。
「普段から張っておけよ」といいたいところだけど、これだけ大きな街を丸ごと包み込んだ結界なんて魔力も設備費も馬鹿にならない。
いくらギンギラギンの城を持つミフターフだって、イベントを開催するにあたっての特別措置というのが限界なのだ。
城の真ん前へ一直線に通る繁華街の大通りでは、どこの店も店前に出店を出して祭りを楽しみに来た観光客に記念品を宣伝している。
「この絨毯面白いデザインだね。花びらと羽のいいとこ取りみたいなこの縁の柄、すごく独創的でミフターフって感じがする。中心へ行くにつれて模様がより具体的なものになっていくのもオシャレだ、寝室のソファの足元にでも置いてみたら良さそうだな…」
「着眼点がアウローラ人すぎるって……」
感心と驚きの混じったオレの独り言がジュリアーノに届くことはなく、彼は夏休みの動物園に来たちびっ子のような眼差しでアンティークやら御守りやらを見回っている。
ガイアとベルからはなるべく目を離したくないけれど、こうなったジュリアーノも見失うと厄介だ。
まあガイアは自分で色々できるようになった分 前よりもずっと頼りになるし、ベルも色々分別がつくようになったしな。
「ガイア、ソースついてる」
「ん、ありがとぉ」
「ハンバーガー、はじめてたべた。すごくおいしい」
「ねぇ、おいしいねぇ。それ食べ終わったらさ、次はあっち行こうよ。あっちにもすっご〜く美味しそうなカニの匂いがするんだ!」
でっかいベーコンのはみ出したハンバーガーを片手に出店を観て回る2人の後ろ姿は、まるで年の近い姉妹のよう。
女子は女子で固まった方が楽しいだろうし、あの様子なら大通りから出るなとは言って、あとは放っておいても平気かな。
とりあえず2人に軽い注意を施していくらかのお金を渡したあと、別々のグループで祭りを見回ることになった。
ガイアたちはとにかく飯を、オレとジュリアーノは物産展を中心に回る。
この世界におけるイベントの出店のいいところは、どの店も手がける商品に気合が入っているところだ。
オレの世界ではとりあえずそのスポットのテーマに沿ったものを用意しておけば、ちょっとぼったくった値段でも主に若者やマダムが「記念に」と簡単に買ってく。
もちろんこっちの世界にだって観光土産に買い物をする客はいるにはいるけど、前の世界に比べれば意外と少数派。
実用的でないものにお金をかける冒険心の個人差が激しく、「せっかくだから買っていこう」の精神が薄いヒトはとにかく薄いのだ。
そんな性分だから観光客が記念品を買うことなんて五割にいくかいかないかだし、これだけ多くの店が出れば選択肢も増えて個々の収入も低くなる。
けどその五割未満に必ず需要はあるので、その中でより色々な人に手に取ってもらうように工夫を加えるから妙にクオリティが高くなるんだよな。
たまによくわからん力の入れ方してるところもあるけど、ネタ枠で買うやつは一定数いるしまあ一興だろう。
「ど、どうしよう、この置き物すごく欲しいな……でも予算が……これだけ大きいと輸送費も……ううん…」
ジュリアーノいわくアウローラ人は芸術にやたら関心のあるヒトが多く、その地の文化や伝統芸術に興味を示すことも多いため記念品の買い物が多いらしい。
百聞は一見にしかずってのはこのことだな……。
かく言うオレもこういうその地の伝統の詰まった物は好きだけど、持ち物が増えると旅する上で厄介になるからなぁ。
ジュリアーノが作ってくれた亜空間もクローゼット一つ分くらいの容量しかないし、何か軽く身につけられるアクセサリくらいにしておこう。
オレは色々な出店を見て周り、めぼしいところを見つけると少し身を屈めて黄土色のクロスに並べられたアクセサリたちを見た。
木や動物の骨を彫った輪っかに細い糸を蜘蛛の巣ように貼った、いかにも「民族」といった感じのピアスや首飾りたち。
ミフターフってアラビアみたいに金銀宝石ギラギラのが主流だと思ったけど、これは若干ラテンアメリカっぽいな。
……あれ?
こっちのこれは……扇子?
え、リボンもシルクハットもあるんだけど、何これ。
並べられた商品たちの趣旨がわからず困惑するオレの横では、ジュリアーノが「ほほー」と感心の眼差しを向けていた。
「この扇子の骨組み、もしかしてフェニックスの羽ですか?」
「あら、お兄さんお詳しいのね。そうよ、不死鳥の名に恥じぬ素晴らしい色艶でしょう?」
フェニックス、確かミフターフの北東に住んでる神獣だったよな。
なるほど、ミフターフでしか獲れない素材を使って各国の工芸品を作ることで、馴染みやすい記念品として買いやすくしているのか。
なかなかにできた販売戦略だ。
「いつもなら人だかりができるくらい賑わうのだけれど、今年は外からの観光客がいないせいで売れ行きが悪くてね。お兄さんたち外国の方でしょう?良かったらお土産にどうかしら」
「うーん」
お土産って言っても送る相手がなぁ。
……ルジカとか…いや、ろくに好みも知らないのにアクセサリを送るのは図々しいか。
心の中でそんなことを呟きながら商品を眺める。
普段ならば日本人の血が騒いで和風テイストなものに目が行きがちだが、今回ばかりは少しだけ違った。
オレの眼差しは意図せず、先ほども見ていたラテンアメリカ風のアクセサリに引き寄せられていたのだ。
理由は明白。
オレは、この木や動物の骨で作られたゴテゴテしいアクセサリに、うっすらと母親の姿を観ていたからだ。
オレの生前、母は平成から抜けきれていないようなエスニック調のワンピースやロングスカートを好んで身につけていた。
柄に柄を合わせているのにも関わらず、さらにその上からネイティブアメリカンから掻っ攫ってきたのかと言いたくなるくらいゴロゴロした首飾りやデッカい耳飾りなんかも着けたりして、後ろ姿は日本人かも疑わしい。
迷子になった時は見つけやすくて助かったけど、あんまり目立つもんだから当然授業参観や運動会なんかで浮きまくるし、そんな母親の服装が小さい頃のオレはあまり好きではなかった。
友達にはやれ民族だのやれ呪術師だのからかわれ、当時のオレは嫌気がさしていたんだ。
やんわり嫌とは伝えたけれど、デザイン関係の仕事をやっていたせいか いやにこだわりが強くて、全然聞き入れないしむしろ年を追うごとにひどくなっていた気がする。
歳を追うごとに気にならなくはなっていったけど、やっぱ印象に残るよなぁ。
……一つ、買っていこうかな。
オレは身を屈めて吟味する。
あんまりデカ過ぎても邪魔になるしなぁ。
…あ、これ良いかも。
目が疲れそうなほど目立ちに目立つアクセサリたちの中に、まるで自ら隠れるかのように埋もれてほとんど目立たない耳飾りが一つだけあった。
手に取ってみると、金具から垂れる硬い石のようなものがカラリとなって、陽光を反射し赤く光る。
近くで見ると意外と派手だが、ここにある中ではまあまあマシ言える。
デザインもエスニック調だし、何よりこの赤い石が母さんのよく着けていたネックレスの装飾にどことなく似てるんだ。
これも何かの運命だろう。
「あの、これいただけますか?」
「はーい。毎度あ……ってあら!それ作りかけだわ!」
作りかけって……え!?
これが作りかけ!?
慌てた様子で店の下に潜った店主は、オレが持っているのと同じものと思しき耳飾りを取り出し「ごめんなさいねぇ、こっちどうぞ」と差し出した。
しかし、それはオレの選んだ耳飾りとは似て非なるもの。
赤い石の後にさらに派手派手な羽やら牙やらがくっついて、他の商品とは比べ物にならないほどの代物だった。
なんつー極彩色…2000年代のギャルのガラケーかよ!
流石にこれはちょっと……。
「あの、オレこれで良いです…」
「でもそれじゃ地味だし、何より中途半端よ?金具が見えちゃ格好悪いわ」
「い、いやでもこれが丁度良いんで…」
「そう?なら良いけれど……」
微妙な表情の店主を押し切って買った耳飾り。
こうして見ると色合いといいデザインといい派手すぎず地味すぎずで丁度良い、結構オシャレだよな。
けど確かに、先端に飛び出したままの金具が少し気になる。
遠目で見れば気がつかないけど、自分で選んだものを何かつけてみるのもアリかもな。
耳飾りを陽光にかざして感慨深い想いに浸っていると、隣で歩いていたジュリアーノが「あっ」と声をあげた。
「見てケンゴ」
ジュリアーノの言う方を見ると、大通りの先の広場に一際目立つ名が四角い影が見えた。
なんだろうと目を凝らすと、なんとそれは大きな本棚。
「もしかしてあれ、トト神の言ってた出張図書館じゃない?」
「ああ、行ってみるか」
近くまで行ってみると、確かにそれは“出張”図書館だった。
7メートル四方の絨毯の上にビーズクッションやソファなどが並べられ、端っこに佇む大きな本棚の中から本を手に取った人々が優雅にくつろいでいる。
また端の方では小さなスツールに腰をかけたシェファが、十数人の子供達に囲まれながら絵本の読み聞かせをしていた。
「……こうして国を守った王子様は、王様や国民たちと故郷で末長く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
そう言って本をパタリと閉じるシェファに、立ち上がって「なんで おとうとや いもうとは いっしょに くらさないの?」と、無邪気な顔で質問を投げかける子供が一人いた。
彼女は表情を一切崩すことなく、穏やかな顔つきのままで答える。
「それはね、きょうだいたちはみんなお空で暮らしているからだよ」
「えー、なんで おそらに いっちゃったの?」
「生き物はいつかみんなお空に行く日が来るの。王子様の兄弟たちはそれがちょっと早かっただけ」
納得のいかない様子の子供に、「いつかわかるよ」と言って優しく頭を撫でるシェファ。
仕方ない、死の概念は小さい子供が理解するには難しいことだ。
オレもそうだったしな。
子供達がある程度はけた後彼女のこちらに気がついたようで、小さく手を振りながら駆け寄って来た。
「いらっしゃい。ケンゴさんにジュリアーノさんも」
「頑張ってるなシェファ。読み聞かせ、良かったよ」
「ありがとうございます。本当、私にできることなんてこれくらいしかありませんから。あれ…ガイアちゃんたちは?」
「2人ならどこかで食べ歩きしてるよ。あの食い意地だから、まだ何か食べてるんじゃないか。そういえばトト神がいないね、君はずっとここに?」
「はい、9時からずっと。トト様はお昼を買いに出店へ行ってらっしゃいます。もう少ししたらお昼休憩に一回図書館へ戻って本棚の本を入れ替える予定なので」
「そっか。じゃあオレたちすれ違いになったのかな」
本人は祭り当日は図書館に篭もってるって言っていたし、多分分身だな。
しかし、ずいぶんいいものを作ったもんだ。
結界のお陰で日差しも気温も酷じゃないし、この過ごしやすい空間の中で本を読みながらくつろげたら さぞかし気持ちがいいだろうなぁ。
「そういえば、さっきまで経津主さんやサイファルさんたちがいらしてたんですよ。てっきりケンゴさんたちと一緒だと思ってたからちょっと驚いちゃって……知らない方もいたのに、失礼な態度をとってしまったかも知れません」
あー、多分アサーラ姫のことだな。
確かに、活発な彼女のテンションに内気なシェファがついていけるとはあまり思えない。
「まあ、そんなこともあるよ。今日は色々な人がこのアルビダイアに来るんだからさ」
「そうですね。まだ2日もあるのに、こんな小さなこと気にしていちゃダメですね。私、がんばります!」
「うんうん、その勢だよ」
ゆっくり遠ざかっていくオレたちへ、姿が見えなくなるまで手を振り続けるシェファ。
そんな彼女へ答えて、オレもジュリアーノも手を振る。
「最近のシェファ、前よりも元気になったよね。背筋も伸びたしハキハキ喋れるようになったし」
「ああ。ドクロさんのとこから帰ったらすっかり変わっちゃってたんだもんな、オレ驚いたよ」
シェファはオレたちがミフターフを訪れる少し前から図書館に住み込みで働いている。
トトはその卓越した術式の構築センスと神である故の膨大な魔力で自身の分身を大量に作り出せるため、図書館で職員を雇う必要はほとんど無いのだが、シェファの場合は少し事情が違う。
というのも、彼女は親との関係が極端に良好でないためにトトが独断で保護したのだそうだ。
詳しいことは聞かなかったが、どうやら保護当時の彼女には虚言癖があったらしい。
トトいわく、結果だけを褒めそれが維持できなければ激しく叱りつける親の教育法が彼女に深刻なトラウマを植え付け、また嘘で誤魔化せたという成功体験を得てしまったがためにそれがクセになってしまったのではとのこと。
人は置かれた環境でどうにでもなってしまう。
それが生まれた時からずっと一緒だった親というのなら尚更だ。
でも、だからこそトトという理解者の元で自分を見直して公正することができたというのもまた事実。
根は真面目で思いやりのある素直な子だから、彼女自身周りに影響を受けやすかったというのもあるだろうが、結果的にはちゃんと良い方向に向かっているんだ。
出張図書館での様子を見るに住民たちの対応もだいぶ柔らかくなったようで、安心した。
さて、もう12時半か。
物産店見てるだけでなんだかんだ3時間近く過ごしてたんだなぁ。
「オレたちもそろそろ昼飯食べるか」
「そうだね。そういえばさっき美味しそうなピタのお店見つけたんだ。待ってて、僕買ってくるよ」
「おう、じゃあオレは飲み物買ってくるな」
「よろしく。……あ、ドロっとしたのはやめてね…」
「わかってるって」
かくしてオレは昼食の飲み物を買いに飲食系の出店を見て回る。
何を買おう。
祭りだし、無難にソーダかな。
店へ並び、600ルベルを払って青と緑のソーダをそれぞれ一つずつ購入した。
さすが祭り価格、まあ雰囲気を買っていると思えばな。
オレは寒色のソーダを抱えてジュリアーノと別れたベンチへ腰をかけ、彼の帰りを待った。
この後はどうしようか。
アルビダイアには大きな広場が全部で3つあって、それぞれで違う催しが行われている。
猶予は2日もあるとはいえ一日中同じところを回るのは退屈だし……そういえば東の広場で演劇があるとかなんとか聞いたな。
ジュリアーノが帰ってきたらガイアたちを探して誘ってみよう。
そんなことを心の中で呟きながら、オレは空を見上げた。
いつも通りの澄んだ快晴の空。
心なしか青みが強く見えるのは、きっと結界のせいだろう。
__その時、オレは首元に何かひんやりとしたものを感じた。
死角なせいでそれが何かはわからない、だがそれは形容し難い危険味を孕んで、まるで岩陰に潜んで陰湿にオレの命を付け狙うかのようだった。
「お久しぶり」
「!!」
聞き慣れない声。
しかし、記憶を辿ればうっすらと思い出されるこの妖艶な猫撫で声は…。
「…スコーピオ……」
「ア・タ・リ♡」
スコーピオは音もなくベンチに腰掛けるオレの背後に近づき、気配の一つも気取られぬうちに首元へ短剣の身幅を押し付けたのだ。
何かで隠しているのか、通行人が気付く素振りはない。
付けられた?
まさか、いつから?
何故オレたちの居場所がわかった?
「大きい声は出さないでねぇ、公共の場で紫色の泡なんて吹きたくないでしょう?」
いや、よく考えるんだ。
こいつの狙いはガイア、なら何故オレを狙う?
きっとこいつらはガイアの居場所を完全に把握できていないんだ。
今と前回スコーピオと会った時とではガイアの姿は全く異なる上に、アイツは今自分自身のみに特別な認識阻害魔術をかけている。
手練の魔導士であろうと簡単には見破れない、おそらくは眷族であるオレから居場所を聞き出すつもりだなのだろう。
ああ、祭りだからって槍を置いて来るんじゃなかった。
スコーピオはナイフを押し当てたままオレを立たせ、周りに気取られぬよう路地裏に連れ込む。
非常にまずい。
このまま従ったらどこかに軟禁されるのは確実、しかし逆らったとしても毒で意識を奪われ、無理矢理に連れて行かれるだろう。
逃げるチャンスを伺うためにも、ここは大人しく従うのが正解か。
しかし、1番の気掛かりはガイアの存在だ。
オレは黙っていればいいが、もしガイアにこの状況が知れたら、アイツ絶対助けに行くって騒ぎ出すもんな…。
オレが突然いなくなってジュリアーノはどう思うか。
兎にも角にもオレができるのは隙を狙って逃げるのみ、ガイアのことは彼の判断に委ねるしかない。
「あら……遅いわねあの子達」
元の場所から少し離れた裏路地の奥で、スコーピオは不機嫌そうな声で呟く。
あの子たち…?
他にも仲間がいるのか、しかも口ぶりから予測されるに複数。
そういえば、前はもう1人デカい女の人がいたな。
確か、タウラスっていった気がする。
スコーピオの合流しようとしている相手、可能性が高いのはソイツともう1人の誰かか。
この狭い路地の中、3人以上から逃げるとなると骨が折れるぞ。
そう考えると、やっぱり槍を置いてきたのは正解だったのかも知れないな。
それから数分ほど持ったが、浮浪者のようなの装いのお爺さんが1人丁字路を横切っただけで、スコーピオの仲間と思しきものは一向にやって来ない。
彼女自身も息遣いや時々溢れる口のような呟きから少々イラついているのがわかる。
なんだ、情報伝達に齟齬でもあったのか?
それともスコーピオの仲間に何かあったか?
どちらにせよコチラとしては非常に好都合。
怒りは人の注意力を散漫にさせる、逃げられる確率がグンと上がったぞ。
「なんなのもう……私のことを馬鹿にしているの?」
スコーピオがそう呟いた一瞬、オレの首筋にピッタリと張り付いていた金属の感触が離れた。
今だっ!!
意を決し、足を踏み座そうとしたその時だった。
ザッ
オレは地面を蹴る寸前、後方から足音が聞こえたのだ。
重たく砂を踏み締めるその音に、オレの脳内で絶望と希望の二つの感情が錯綜していた。
完全に背を向いているせいで音の主が誰だかわからない。
スコーピオの仲間が駆けつけたか、誰か味方が助けに来てくれたか、足音だけでは見当もつかない。
正直袋の鼠状態の今、敵が増えれば脱出は困難になる。
しかも一度機会を逃してしまったのだ。
苦しい状況、この薄暗い路地の中に唯一の光があるとするならばそれは、
その足音が一つだけだということだろう。
「手を上に挙げて、ゆっくり彼から離れるんだ」
背後から聞こえたそれは、この世界では2番目に聴き慣れた声であった。
優しく落ち着いていた普段から一転、精一杯に低くドスを効かせて目の前の敵を威嚇するその声の主。
想像に難くない、何故ならば、先ほどまでこの耳でずっと聴いていたから。
スコーピオは首元からナイフを離すが、二の腕をガッシリと掴んでオレごと後ろへ振り返る。
そこには手のひらに水弾を充填したジュリアーノが、日の光がろくに入らない、真昼の街とは思えないほど薄暗い十路裏の真ん中で1人立っていた。




