第37話 幕別
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
・服部正男…日章会の騎手候補
・臼杵鑑彦…無所属の騎手候補
・板垣信太郎…雷鳴会の騎手候補
・田北鑑信…黄菊会の騎手候補
・村井貞治…白詰会の騎手候補
翌週、岡部と戸川は飛行機に乗り込み北国へと向かった。
伊勢旅行に行った日、戸川厩舎に新竜が輸送されてきている。
その二日後に岡部は厩舎に挨拶に伺った。
岡部は戸川に促され、長井にも見守られ、今年の新竜二頭を見せてもらった。
一頭は『サケケンレン』という青毛の牡竜。
兄には短距離戦で奮闘している『ホウセイ』がいる。
もう一頭が『サケカンゼオン』という鹿毛の牡竜。
兄弟はこれまで重賞戦線には縁が無い。
この二頭を事前の知識無しに触って状態を確認した。
『ケンレン』は、これといった特徴が無く節が薄目で前後の脚の均衡が悪い。
脚質が限られてる上に肉の付きもあまり良い方では無いと感じた。
『カンゼオン』は脚が長く背の高い竜というのが第一印象だった。
『ケンレン』に比べ節は太く胴が長い。
戸川にどう思うと聞かれ、『ケンレン』は未勝利を抜けるのがせいぜいだと感想を漏らした。
ただ『カンゼオン』は、長距離一本でやれば重賞戦線には乗れるのではと寸評した。
それを聞いた戸川は、僕も櫛橋も同じ感想だったと頷いた。
戸川はすぐに会長に報告を入れた。
報告を入れるのを岡部の見立てまでわざわざ待ったらしい。
連絡を入れ戻って来ると、戸川は岡部の顔を見て、すまないとまず謝罪した。
暇してるだろうから北国の牧場へ来いと会長のお達しだとうなだれた。
室蘭空港に着くと、二人は高速鉄道空港線で北府へ向かった。
最上は夏休みだろうから家族も連れてきたら良いと言ってくれたそうだが、去年ので懲りたと岡部と二人だけにした。
連れてきてあげても良かったと岡部は言うのだが、熱が出るというのはそれだけ体に負担がかかっているという事だからと、戸川は渋い顔をした。
大はしゃぎだった伊勢旅行の翌日、梨奈は熱を出して二日ほど体を休めている。
実は今通っている意匠の学校も、初日登校してから数日寝込んでしまい、最初の一月はかなり休みがちだったのだそうだ。
確かに四人だと仕事というより旅行になるからと岡部が笑うと、そうだろうと言って戸川も笑った。
「ほんまは会長も申し訳ない思うてるんやで。ちょっと前に厩舎に来た時には、慰安旅行世話するついでに幼竜を見てもらいたい言うてたんやから」
「という事は、だとすると今回の主目的はそこじゃなくなったという事ですか?」
「氏家場長が呼んどるそうや。なんや相談したい事があるんやって」
北府に着くと高速鉄道西進線に乗り換え帯広に向かった。
羊肉に生麦酒といきましょうと岡部は言ったのだが、戸川はそれは夜大宿で出るから昼は豚丼にしようと言いだした。
軽く炙った豚肉を特製の甘辛たれを付けしっかり焼いた後、もう一度特製の甘辛タレを付けたものを、千切りの甘藍の上に乗せた丼物である。
岡部と戸川は生麦酒の杯をカチリと合わせ乾杯するとぐっと呑んだ。
これだこれ、これがずっと呑みたかったと戸川が吼えると、岡部は生麦酒って何でこんなに旨いんだろうと喜んだ。
それを聞いていた料理人が岡部たちを見て微笑んだ。
豚丼は見た感じでは、そこまでとは思わなかったが、一口食べると甘辛のタレが米に染みていて絶品だった。
豚肉も一旦炙っており少し香ばしさが出ていて、それが豚肉の旨さを引き出していた。
昼食を済ませると幕別の大宿へと向かった。
相変わらず取ってくれていた部屋は最上階の来賓室であった。
二人はさっそく浴衣に着替え温泉に向かった。
その途中で予想もしていない人物を目にした。
南国の牧場長中野義知である。
中野は目ざとく岡部と戸川を見つけると、久しぶりと挨拶した後、後ほど夕飯で会おうと言って部屋へ向かって行った。
「どういうことでしょう? 中野さんがここにいるなんて」
温泉に浸かりながら岡部は手ぬぐいを頭に乗せる。
「僕も詳しくは聞いてへんのやけど、あの人がおるいう事は、牧場の運営絡みいうことなんやろうな」
「運営なら僕らあんまり関係ないですよね?」
「どうなんやろう? 会長、君が帰る連絡を待ってたみたいやからな。幼竜見る以外にもっと重要な何かが発生したんかもな」
岡部の額から汗が流れ落ちた。
「……僕の研修の竜の話が出たらちょっとキツイですね」
「……その話は筆頭調教師の僕としても、ちとな」
二人が無言で渋い顔で見合っていると、源泉が湯舟に流れる落ちる音が異常に大きく聞こえた。
夕方、宿の受付から小宴会場に来るように案内があった。
戸川と岡部が先に小宴会場に到着し、そこに最上が現れた。
そこからかなり遅れて中野が現れた。
四人揃ったところで生麦酒を入れてもらい、乾杯し羊鍋をつついた。
開始早々、中野が岡部の竜の話をし始めてしまった。
「岡部君、手紙読んだよ。『エイリ』はこっちに来てから毎日よく食べて、一日中牧場を駆け回っているよ」
「そうですか。肉は落ちてないですか?」
「そりゃあ放牧だもん多少はね。来た頃より少し緩んで贅肉がついたかな。もちろん土肥に戻す時には、ある程度は体を絞めて送るけどね」
そんな二人の会話を最上はニコニコしながら聞いている。
その隣で戸川はハラハラしながら聞いている。
岡部はひやひやしながら受け答えをしているが、中野は特に何も察していない様子である。
「食べる量は落ちてないですか?」
「むしろ増えたよ。特に大豆を好んでよく食べてるね。しかし『エイリ』といえばガリガリだった印象だけど、わずかの期間によくあれだけの竜に鍛えたね」
中野の発言に、それまでニコニコしていた最上の顔が急に真顔に変わった。
戸川も岡部もそれに気付いたが、とりあえず気付かない体を装った。
中野は純粋に岡部たちと仕事話ができて楽しそうである。
「あの仔で他の牧場の竜に勝とうと思っていますからね」
「え! あの仔で勝つつもりなの? だって相手って稲妻の人たちでしょ? 研修中なのに凄い話だなあ」
静かに聞いていた最上が、不愉快そうな顔でそんなに酷い竜なのかと中野に尋ねた。
「入厩前はちょっと小柄くらいの竜だったんですがね。入厩してから徐々にガリガリになっていってしまって」
最上は戸川の顔を見て、どこの奴かわかっているのかと問い詰めた。
「綱一郎君はわかってるみたいです。そやけど、これはこれで良え勉強になるし、研修用としては最良やって」
最上は岡部の顔を見て小さくため息をついた。
今度は中野の顔を鋭い眼光で見て、誰なんだと問い詰めた。
中野はしまったという顔をし、久留米の及川調教師だと名前を出してしまった。
最上は険しい顔をして岡部の顔を見た。
「君はそれで良いのかもしれんがな。紅花会としては大恥なんだよ」
「まあ、それはそうでしょうが、でももしそれで勝てたら相殺してお釣りがきますよ」
二回やってどちらも最下位であったが二回目はしっかりと他の竜に付いていけるようになった。
あの感じなら対抗できるようになるのも時間の問題と岡部は胸を張った。
いずれにしても、開業後は期待できない竜だからといって最初から諦めるわけにはいかないのだから、そう考えれば何の問題もないと笑い出した。
それを聞いた戸川は、自分もその通りだと思うが竜主である会長の意見はどうなのかと最上に尋ねた。
「確かに竜主としてはどんな竜にも最善を尽くしてもらいたいと願っている。君のその考えを聞いたらどの竜主も喜んで君に預けたいと言うだろうな」
最上は岡部の回答にかなり満足したようで大笑いした。
「ところで、僕らを呼んだんは何かあるんですか?」
羊鍋をある程度食べ終えたところで戸川は最上に尋ねた。
「実はな、数日前に八級をセリに出したいと思うがどうかと氏家が言ってきたんだよ」
「それだけやったら、わざわざここに中野さんは呼ばへんのやないですか?」
中野は最上の顔を見ると、最上はこくりと首を縦に振った。
「実はな、それと並行して正式な業務提携の話が来ているんだよ」
最上は戸川から視線を反らして麦酒を呑んだ。
明らかに岡部と戸川の顔は納得できていない顔をしていて、最上も困り顔をしている。
そこで中野が補足を入れた。
「南国の牧場は以前から双竜会と運営提携してるから、話が聞きたいんだそうだよ」
それを聞いた岡部が、さらに不思議そうな顔をする。
「僕はそういうの詳しくはわからないんですけど、ただ話が聞きたいだけなら、氏家場長が南国に担当者を向かわせれば良いだけの話だったりしないんですか?」
岡部の的確な指摘に中野は失敗したという顔をし最上の顔を再度見た。
「ええい。やはり君ら相手に腹芸は通用せんか。明日、じっくりと説明する予定だったんだが、ここでざっくりと話してしまおう」
先日、最上の元に、双竜会の足利義行会長が訪ねてきた。
清流会の長尾和景会長から一つの提案が来ていて、双竜会と紅花会に参加をお願いしたいという事だった。
現在、稲妻牧場の勢いは衰えを知らず、紅葉会も急速に勢力を拡大してきている。
市場そのものが拡大しているわけでは無いので、その分他の牧場の市場影響力が落ちている。
そこで清流会は、稲妻牧場、古河牧場に次ぐ、国内三つ目のセリを行ってはどうかと考えた。
雪柳会や薄雪会にその話をすると面白いと言ってはくれたものの、彼らだけではまだ規模が小さく目を引けない。
そこに双竜会、紅花会を引き入れられれば、セリも盛り上がり値段も吊り上がるのではないかということになったらしい。
だが最上は渋った。
足利会長も渋っているらしい。
現状、名前の挙がった牧場は、生産した竜を全て自分の会派の調教師に預けており余剰が無い。
セリに出す為には余剰を生産する必要があるし、余れば自分で処分もしないといけなくなる。
そこで足利会長は代案としてまずは業務提携を提案しようとしているらしい。
「つまり、まずはいくつかの牧場間で運営の提携から始めようって事ですか。例えば安く種竜付けさせたりとか、余った幼竜を安く融通したりとか」
岡部の言葉に中野は目を見開いた。
「だとすると足利さんの意図は明らかだよな。ようは『セキラン』を安く付けさせて欲しいって事だろう?」
「それだけセキランの血に期待してるって事ですか」
「南国にも噂だけは入ってるよ。試験で付けた仔がちょっと前に羽化して、どの仔も凄く走りそうだって。清流会も期待してるそうだから、皆、当たる確率が高いと思っているんだろうね」
中野は少し興奮気味に岡部に言った。
岡部はかなり驚いた顔で中野に生麦酒を注いだ。
黙って聞いていた戸川が最上に疑問を呈してきた。
「でも、それだけやったら、普通『セキラン』を共同所有にしないかて提案してくるんと違いますかね?」
「私もそう考えるんだよ。恐らくだが、お前と三浦がここ数年結果出してるから、うちの偵察がしたいんじゃないかと私は思ってるんだよ」
そういう事かと戸川は頷いた。
うちの会の利点ってどの程度あると考えるんですかと岡部が尋ねた。
「おお! 君もそういう事を考えるようになったのか。調教師にしてみるもんだなあ」
最上は岡部に生麦酒を注ぎながら笑って茶化した。
岡部は勉強しましたからと笑って恥ずかしそうな顔で生麦酒を呑んだ。
「実際そこなんだよな。現状でうちにそこまで利点があるかというな。足利さんのとこの種牡竜を安く付けれるくらいだろうか?」
中野たちは微妙なところだと言い合って苦笑いしている。
「……他にも何かある気がするんだ。だからここに君らを集めたんだよ」
最上は生麦酒をあおって呟いた。
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