第36話 伊勢
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
・服部正男…日章会の騎手候補
・臼杵鑑彦…無所属の騎手候補
・板垣信太郎…雷鳴会の騎手候補
・田北鑑信…黄菊会の騎手候補
・村井貞治…白詰会の騎手候補
奥さんと梨奈、岡部を乗せ、車は東海道高速道を東進し伊勢神宮に向かっている。
最初は朝早かった事もあり梨奈も奥さんも静かにしていたが、水口を過ぎ、柘植を過ぎ、鈴鹿まで来るととたんに騒がしくなった。
鈴鹿からは高速道路伊勢道を南下。
安濃津、松坂、多気を通り山田で高速道路を降りた。
奥さんが、まずは下宮に行こうというので下宮に進路を取った。
駐車場に車を停め三人は歩いて参拝しに向かった。
「伊勢神宮って二か所もあるんですね」
岡部が素朴な感想を述べると奥さんと梨奈はクスクス笑った。
お伊勢さんは全部で七つあると奥さんが言いだした。
岡部はからかわれていると感じ、またまたと奥さんに笑いかけた。
奥さんは気合を入れて来たのか、薄いブラウンのタイトスカートのスーツ姿で、まるで参観日に来たような恰好をしている。
「綱一郎さんほんまに知らんの? 大きいのが内宮と下宮いうだけなんやで? 社に至っては百以上あるんやから」
薄手の藍色のワンピースに夏用のカーディガンを羽織った梨奈がクスクス笑いながらそう指摘した。
「それ全部天照大御神の社なの?」
「まさかあ。天照大御神は内宮の大社だけ。下宮の大社やって豊受姫って天照の姪っ子的な神様のなんよ」
そんな神様聞いた事無いと岡部が引きつった顔をすると、梨奈はまたクスクス笑い出した。
「なんで百以上もあるのに、その豊受姫だけ特別扱いなんだろうね?」
「食べ物の神様やからと違うかな? お腹減るんが一番きついからね」
梨奈の説明はかなり説得力があるように思う。
人間には三大欲求があると言われていて、食欲、性欲、睡眠欲なのだそうだが、その中で生体活動に直結しているのが食欲と睡眠欲だからだ。
「じゃあ下宮参拝したらちょっと早いけど昼食にしようか」
「私の事言うてるわけやないもん!」
お腹が空いたからそんな事を言ったと岡部に思われたと感じ、恥ずかしさで顔を真っ赤にして梨奈は不貞腐れた顔をした。
下宮を参拝した後食事にしようとしたのだが、奥さんから内宮を参拝した後が良いと指摘され、車に乗り内宮へと向かった。
内宮は、下宮に比べると比べ物にならないくらい車も人も溢れかえっている。
門前横丁である『おかげ横丁』は人で溢れかえっている。
戸川が来たがらなかった理由はこれかと少し合点がいった。
大鳥居をくぐり、木の橋を越えると玉砂利の先に五十鈴川の河原がある。
手水場は他にもちゃんとしたものがあるのだが、本来の手水場はここであるらしい。
ただこれについては、奥さんと梨奈の見解は違っており、河原が本来というのは奥さんの見解である。
梨奈の見解は、昔今よりもっと伊勢神宮は賑わっていて、手水場が手狭だったから河原で済ませていたというものだった。
正直どちらも納得できる。
さらに砂利道を先に進むと、かなり長い階段の上に正殿があった。
「大昔からここにあるのに、正殿はかなり綺麗に保存されてるんですね」
正殿の参拝を終え階段を降りると、岡部はそう感想を漏らした。
「綱ちゃん、大昔の建物がこない綺麗なわけないやないの」
「じゃあ、この建物って定期的に修理してるんですか?」
奥さんは岡部の言葉にクスクス笑いだした。
「綱ちゃん、ほんま何も知らんのやね。修理やのうて、数年毎に建て替えてるの」
「大規模修繕って事ですか?」
奥さんは正殿から降りた場所の何もない敷地を指さした。
「ここに新しく建てるんよ。全く同じもんを。で、数年したらまたさっきのとこに建てるの」
『式年遷宮』って聞いたことないかなと奥さんは笑った。
「天照大御神って引っ越し大好きなんですね」
「新居が好きなんと違う?。それもこないすぐ横なんやから、ほんまは引っ越しは渋々なんかもよ?」
正殿からの帰り主通路を少し外れ荒祭宮を参拝した。
「ここも天照大御神を祀ってあるって書いてあるね」
「荒魂を祀ってるいうくらいやから、正殿は仕事場で、こっちは住居みたいな感じやないのかな? 知らんけど」
「家にまで押しかけられるだなんて神様も楽じゃないね」
梨奈はそんな風に考える人中々いないと思うと笑いだした。
内宮を後にすると、おかげ横丁の食事所で、岡部はうどんとてこね寿司の定食を注文した。
奥さんはてこね寿司、梨奈はうどんだけを注文。
うどんを一口食べて、岡部は思わず顔を歪めた。
「また、えらい軟らかいうどんですね」
「多分やけど瑞穂で一番軟いん違うやろか。長い道歩いてきて固いうどん食べれへんかったて聞いたけど、ほんまはどうなんやろうね?」
奥さんはそう言うのだが、梨奈は、大勢の参拝客向けに事前に大鍋で茹でてたから軟らかいんじゃないかと指摘した。
それだと単に茹ですぎという事になってしまう。
「つゆというかタレというか。かなりからいですね」
「私、ちょっと、そのうどん苦手なんよね」
梨奈は黙々と食べているが、何だか伸び切っているようで、岡部もあまり口には合わなかった。
「そういえば、戸川さんに頼まれたこの生姜糖って何ですか?」
「お砂糖よ。生姜味の。これの赤いんが美味しいんよ」
梨奈は私は緑が好きとうどんをすすりながら言う。
「食べるんですか、これ? 砂糖ですよね?」
「後で屑物を買うて帰りに食べてみはったら良えよ。ちょっとピリッとして美味しいんやから」
梨奈が、赤福、赤福と奥さんの袖を引いた。
食事処を出ると梨奈の要望で赤福を食べることになった。
「戸川さんには、どれくらい買って行けばいいんでしょう?」
「あの人は三個くらいしか食べへんよ。酒呑みやもん。後は全部梨奈ちゃん」
「じゃあ小箱あれば十分ですかね」
梨奈はぶうと頬を膨らませて抗議している。
奥さんはその顔が可笑しいらしく、ケラケラ笑っている。
「それは今から食べてみて、綱ちゃんが決めはったら良えよ」
言っても逆大福みたいなもんだろうと岡部は高をくくっていた。
だが一口食べ、あまりの旨さに衝撃を受けた。
「大箱で行きましょう! 大箱で!」
「持ち帰りはちょっと餅が固くなるから、ここで食べるんとはちょっと違うんやけどね。それでもこのさらし餡は絶品よね」
梨奈も満面の笑みでもちもちと食べている。
「凄い滑らかな餡子! 甘味も上品で。餅もぷりっとしてて。これは良い!」
赤福の茶屋を出ると『白鷹』という神箭米酒の店に入った。
綱ちゃんは運転するからダメだと言って、奥さんは一人で試飲し始めた。
試飲とは言うものの升に一杯に入るので、普通に呑んでいるのと何も変わらない。
その間に梨奈と岡部は生姜糖の屑物を購入して戻ってきた。
車に戻る頃には岡部は両手に土産物という状況だった。
岡部は土産を積み込むと後部座席に薄手の夏蒲団を二枚取りだした。
梨奈の希望で、さらに志摩半島を南下し英虞湾の真珠の養殖所に向かった。
梨奈と奥さんは、目を輝かせながら飾られている真珠の王冠や髪飾りを見て眼の保養をしている。
岡部は一切興味が無く、明らかに二人にただ付き合っている風である。
展示室を出ると販売所になっていた。
梨奈は上目遣いで岡部に真珠の装飾品をねだったが、岡部は値段を指さし頑として拒否。
すると、阿古屋貝の缶詰があるのでこれならどうですかと、店員が岡部に薦めてきた。
奥さんにまでねだられ買わないわけにいかなくなり、梨奈と奥さんの二つを購入させられる事に。
養殖所を出ると、奥さんは、呑んだせいか少し眠くなったと後部座席に乗り込んだ。
梨奈も食べたから眠くなったと毛布を膝にかけて後部座席でゆったりしている。
岡部は梨奈の顔が少し赤い気がして額に手を当てた。
だがどうやら熱は出ていないようで安心して車に乗り込んだ。
車は高速道路伊勢線に乗った。
運転しながら、ふと気になっていた生姜糖を一つ食べてみる。
確かにピリリとするが思った以上に極甘である。
砂糖の塊なのだから当然といえば当然なのだが。
至急飲み物が欲しくなり、松坂の休憩所に急遽入り飲み物を購入。
鈴鹿の休憩所で一旦休憩をとり夕食をとることにした。
奥さんは豪勢にも伊勢エビの定食を、岡部はアワビの定食を、梨奈はめはり寿司を注文。
店員がめはり寿司を奥さんの前に置いた為、奥さんが梨奈にこんな渋い物頼んでと怒りだした。
梨奈は奥さんの苦情を無視し、鰯の干物を炙ったものをちまちまと齧りながら、高菜の巻かれた寿司を食べている。
「梨奈ちゃんは車の免許って取らないの?」
岡部は鰯の干物を齧っている梨奈に尋ねた。
母さんが許可してくれないと梨奈は口を尖らせて不貞腐れる。
岡部は奥さんに車に乗れた方が便利じゃないかと指摘した。
「だってね、綱ちゃん。梨奈ちゃんが車運転してるとこよう想像してみてよ」
奥さんは岡部の顔をじっと見つめている。
「雨降ってきたら、この娘、何すると思う?」
岡部は梨奈の顔をちらりと見た。
「方向指示器を動かすと思います」
梨奈は飲んでいた味噌汁でむせて、何でよと憤っている。
「交差点で右折しようとしてさ、対向車が切れへんかったら、どうなると思う?」
「信号が変わって交差点に立ち往生する姿が思い浮かびました」
そんなどんくさくないと、梨奈は必死に抗議している。
だが奥さんはそんな梨奈を無視し質問を続ける。
「高速道路、合流できると思う?」
岡部は真顔で梨奈の顔をじっと見て、手で顔を覆い無言で首を横に振った。
あんたたちには私がどう見えてるのよと梨奈は怒り始めた。
「そやろ? あかんやろ? 運転は梨奈ちゃんだけの問題やないからね」
「賢明な判断だと思います」
完全に激怒している梨奈は、岡部の顔を自分の方に無理やり向けた。
「みんな免許取ってるんやから、私かてやれるよ!」
「梨奈ちゃん。みんな違ってみんな良いと僕は思うんだよ」
「……それこういう時に使う言葉やないから」
鈴鹿を出ると、既に周囲は漆黒の闇に包まれていた。
後部座席で梨奈は気持ちよさそうに寝ている。
途中、柘植の休憩所で休憩をした。
奥さんは、先日岡部が駿府で買ったスカーフを巻いてきている。
後部座席で寝ている梨奈は髪が奥さんと同じくらいに伸びており、同じく先日岡部の買った髪飾りをしている。
岡部は寝ている梨奈に夏蒲団を掛けなおしてあげた。
「次、どこ遊びに行こうか?」
休憩所で夜風にあたりながら髪をかき上げて奥さんが尋ねた。
「どこに行くにしても来週でしょうね。今週中に厩舎に顔を出したいですからね」
「そっか。そしたらその間に梨奈ちゃんと場所探しておくからね」
奥さんが梨奈の方を見ると岡部も見た。
梨奈は幸せそうな顔をしてぐっすり眠っている。
「梨奈ちゃんずいぶんはしゃいでましたけど、明日大丈夫ですかね?」
奥さんは岡部の顔を見て苦笑いした。
夏の夜という感じの心地よい風が二人の間を通り抜けた。
「賭けようか!」
「どっちに?」
一応奥さんは悩んだ振りだけをする。
「私、熱出る方」
「それじゃあ賭けになりませんよ!」
二人はげらげら笑い合って車に乗り込んだ。
結局、翌日梨奈は熱を出し二日寝込んだ。
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