第31話 指導
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
・服部正男…日章会の騎手候補
・臼杵鑑彦…無所属の騎手候補
月が替わり五月となった。
いよいよ月末には初回の実習競争が行われる。
四月を全て体質改善に費やし、やっと『サケエイリ』はそれなりに肉が付き出した。
これなら人を乗せて走っても怪我をしないだろうというくらいにはなった。
岡部たちはやっと追い切りを始められるところまでこれたのである。
その初回の追い切り調教の前に岡部は教室に服部を呼び出したのだった。
「調教の前に一度話し合いの必要性を感じてるんだよ」
そう言うと岡部は服部を向かいの椅子に座らせた。
「まず君から言いたい事があると思うから聞かせて欲しい」
服部は岡部の顔を睨みつけた。
服部としても一月間ずっと我慢してきたものがある。
この際だからそれを吐き出してやろう。
そんな強い意欲を反抗的な目からは感じる。
「そしたら聞かしてください。あの竜はいつになったら他の竜に追いつくんでしょう? ここまで日程が遅れに遅れて、僕はどれだけ恥かいたら良えんですか?」
服部は正直言えば舌戦にそこまで慣れているわけではない。
舌戦よりはどちらかといえば実戦でこれまで自分の意志を示してきた。
だが、だとしても、いくらなんでも岡部に響かなすぎだった。
「ん? 何か恥をかいてるの?」
「他の同期が毎回一杯で追い切りやってる中、僕だけずっと隅っこで乗り運動させられて。それが恥やのうて何なんですか!」
服部は拳を握り机にバンと叩きつけた。
岡部は真剣な顔でそんな服部を見ている。
「周りと同じ事ができないのが何で恥になるのかがわからんなあ。逃げる竜もいたら追い込む竜もいるだろ? 道中先頭に立てないから恥だとかお前は考えるのか?」
悔しいが岡部の指摘はもっともだと服部は納得してしまう。
だが、それは言い方が悪かったんだと服部は考えた。
「ここまで毎日毎日、とても勝負にならへんような事ばっかやらされて、これで負けたらそれは完璧に恥やないですか?」
「勝負の世界だから勝つ竜もいれば負ける竜もいる。負けることが恥だというなら常勝でいるしか無くなるけど? 騎手候補なんだからそれが不可能だって事くらいわかるよね?」
服部は岡部が自分の言葉尻を捕らえて煙に巻こうとしてると感じ、苛立って机を拳で叩いた。
「そうやのうて! 勝てる算段もせんと、ただ負けるんが恥や言うてるんです!」
「勝つ算段ならしているよ! ただ現状では逆立ちしても勝ち目は無いから、目標を先に設定してるだけだ。最初にそう説明しただろ!」
これまでどこか飄々とした態度を見せていた岡部が声を荒げた事に服部は少し驚いた。
だがすぐに岡部の反論を逆切れだと感じ、再度苛々が沸いてきた。
「その先っていつなんですか? 五年後ですか? 十年後ですか?」
「夏休み以降は少しづつ差が詰まっていくんじゃないかと思ってる。その為にも今、一生懸命下準備をしているつもりだよ!」
「今の状況で夏休み以降に突然勝負になるとは、とてもとても思えへんのですけどね?」
岡部はその服部の言葉に、すっと顔から表情を消し大きく息を吐いた。
「どうしてそう考えるのかを教えてくれないかな? そこまで言うからには、それなりにお前なりに根拠があるんだろ?」
「どうしてって……そんなん誰が見ても明らかやないですか」
岡部は服部をギロリと睨んだ。
その視線に服部は露骨に怯んだ。
「誰が見てもじゃない! お前がどうしてそう思うかを言えって言ってるんだよ!!」
服部は初めて見た岡部の激怒した姿に畏怖し完全に言葉を失った。
「お前も僕と同じく毎日あの竜と接してきたんだ。僕の方針に異論だってあるだろう。ここをこうしたらと思う事が多少なりともあったはずだ。だからそれを聞かせて欲しいって言ってるんだよ!」
お前の愚痴なんてどうでも良い。
こっちは勝つためにお前の意見が聞きたいと言ってる。
岡部は両手を机に乗せ、どうなんだと服部を責めたてた。
服部は今まで叱られた事のない理詰めな叱られ方をされ、黙って俯いている。
「周りがどうの、恥がどうの。くだらない感情垂れ流すだけで、自分の考えもまともに言えないのかよ! じゃあ何か? ただ僕に口答えがしたかっただけなのかよ! この一月お前は何をやってきたんだよ!」
服部は唇を噛み肩を震わせている。
「……もうしわけありません」
「はあ? 謝罪の言葉なんかいらんよ。そんなのは良いから、さっさと私見を言えって言ってるんだ。僕言ったよね? 竜と真摯に向き合っていこうって」
服部は俯いて、ぽつりと言っていましたと呟いた。
「これまでお前が、あの竜と真摯にちゃんと向き合っていたのなら、何かしら私見が言えるはずだ。どうなんだ」
「……申し訳ありませんでした」
「あのなあ。お前は騎手候補なんだよ。後数か月で大人の仲間入りするんだよ。大人になったら行動や言動には責任が伴うんだよ」
服部は小声で責任と呟いた。
「そうだよ。自分の行動に対し自分で始末を付けなければならんって事だよ」
「……岡部さんもそうなんですか?」
「僕は経営者になる身だから、自分だけじゃなく従業員にも責任を持たないといけない。だからこうしてお前にも、言いたくもない事を言っているんだよ」
言いたくもないことなんですかと、服部はすがるような目で岡部を見た。
「当たり前だろ! 誰だって面白おかしくやれるのが楽しいに決まってるだろ。だけど、それでは結果が出せないと思えば、心を鬼にして対処をしないといけなくなるんだよ」
「……申し訳ありませんでした」
服部の謝罪の言葉に、岡部はがっかりしてため息を付いた。
だが考えてみれば、服部はこれまでずっと学生だったのだ。
恐らくこの世界でも、学校は謝罪といえば言葉での謝罪だけで済ませているのだろう。
「口での謝罪が許されるのは、基本的には舌禍の時だけなんだよ。行動の失敗の謝罪っていうのはな、行動でしないといけないんだよ」
「申し訳ありませんが、僕は何をしたら良えのか教えていただけないでしょうか?」
服部は目に涙を浮かべ深々と頭を下げた。
岡部はそんな服部を見て細く息を吐いた。
「ごく当たり前の事を手を抜かずちゃんとやってくれ。そして、改めて竜と真摯に向き合って欲しい」
服部は黙って首を縦に振った。
「今はじっと我慢の時期なんだよ。最後には二人であの竜と一緒に笑い合おうよ!」
岡部は服部の肩をポンと叩いた。
その表情はいつも見ている飄々としたものであった。
「さあ、『エイリ』がお前の来るのを待っているよ。行ってあげてくれないかな」
服部はぺこりとお辞儀をすると、駆け足で『エイリ』の追い切りへと向かって行った。
四週目の金曜の夜、下宿の食堂で岡部は缶麦酒を呑みながら新聞を開いて呂級の中継を見ていた。
松井も缶麦酒を開けて中継を見ている。
武田も麦酒と乾き物を持参で訪れている。
「岡部くんとこ『優駿』出てるん? うちとこは『ハナビシキュウウ』って竜が残ってるんやけど」
「僕のとこは『サケタイセイ』が残ってるよ」
「なあなあ。どっちが上の着か飲み代賭けようや!」
松井は武田の頭を軽く叩き、調教師は賭けは厳禁だと笑った。
武田は少し不貞腐れ顔をし新聞の竜柱をじっと見ている。
松井が武田の買ってきた鮭とばを口に咥え岡部に問いかけた。
「君、服部とやりあったろ」
「やりあったっていうか、心得違いを正しただけだよ」
武田も麦酒を呑んで、服部が別人になったって板垣から聞いたと笑い出した。
「臼杵もそれ言ってたな。余程怖い目に遭ったんだろうねえ」
「どうせ二人とも詳細聞いてたりするんでしょ?」
「まあねえ。というか実はあの時、臼杵と君らを呼びに行っててさ。こっそり聞いちゃった。臼杵も酷く動揺しててさ。おかげであいつも喝が入ったよ」
一体何を言ってたんだろうと武田は興味を示した。
「武田くんが同じこと言われたら岡部くんの事まともに見れなくなるよ。恐怖で。俺もちょっと怯んだもん」
「……優しく諭したつもりだけどな」
「あれが優しいとか、君の優しさは手榴弾なのかよ」
松井の言い回しが面白かったらしく、武田と岡部は腹を抱えて笑い出した。
皇都優駿の下見の中継が映った。
櫛橋が『サケタイセイ』を曳いて歩いている姿が映った。
「げっ! 『サケタイセイ』三番人気に上がっとるやんけ! うちの『キュウウ』七番人気やん。おとんは何しとんねや!」
岡部たちが見ていた新聞では、『サケタイセイ』は五番人気予想、『ハナビシキュウウ』は六番人気予想であった。
どうやら下見の状態を見て『サケタイセイ』は評価を上げ、逆に『ハナビシキュウウ』は評価を落としたらしい。
「この竜さ。四歳の時に僕が欲しいって言った竜なんだよね。本番は『重陽賞』だとは思うんだけど」
岡部の発言を最初はそうなんだと流した武田だったが、少ししてから疑問を抱いたらしい。
「四歳の時って確か君、皇都来たばっかの時やないん?」
「来て二カ月くらいの時だったかな。もうさ、見るからに良さそうな竜でね」
「ぱっと見でわかるくらいなんやから、余程やったんやろうな!」
下見が終わり松下が『タイセイ』に跨ろうとしている場面で櫛橋が大きく映った。
この姉ちゃんちょっとかわいいなと、松井が櫛橋を見て笑っている。
「あれ? これ櫛橋さんやん。井戸先生んとこにおった」
「へえ、知ってるんだ」
「そりゃあ、だってうちの厩舎、井戸先生とこの隣やったもん。向かいが吉川先生で」
それに呂級で女性の厩務員って珍しいからと武田は缶麦酒を呑みながら言った。
「そうだったんだ! 吉川先生のとこは何度か竜乗りに行ったけど、それは気が付かなかったなあ」
「吉川先生、君の事よう褒めとったで。君の前では厳しい顔しとったけどな」
武田は岡部の買ってきたイカの燻製を口に咥えてゲラゲラ笑い出した。
「僕の前でも、ここ来る前くらいにはもうデレデレだったよ」
「記者には強面で有名な爺ちゃんやのにな!」
二人はゲラゲラ笑いあっている。
そこから暫く武田と岡部は吉川調教師の話で盛り上がっていた。
画面から発走曲が流れてくると、松井がそろそろ始まるぞと二人に促した。
発走機から全竜が発走すると『タイセイ』は逃げ竜のすぐ後ろを突くように追走。
向正面の直線で『タイセイ』が逃げ竜の後ろにピタリと付けたせいで、全体の流れがかなり早くなった。
向正面から三角に入ると『タイセイ』は徐々に速度を上げて逃げ竜に並びかけ、四角手前で逃げ竜を追い抜いた。
一列目の竜が一斉に加速する前に『タイセイ』は加速をし距離を取って直線に入った。
直線残り半分までは楽勝の雰囲気を醸していた。
だが残りわずかというところで、外から追い込んできた『キキョウドウタヌキ』に並びかけられ終着した。
もはや麦酒などそっちのけで三人は中継に熱中していた。
最後の直線ではそのままだと絶叫であった。
終着すると三人は同時に頭を抱えたのだった。
「うわぁ。微妙やけど差されたくさいなあ。うちのは掲示板も外れたんかいっ」
再度終着の時の映像が映って武田は麦酒を呑んで憤っている。
「うわあ、差されたっぽいなあ。これはさすがに悔しい!」
岡部が悔しそうにすると、松井は優駿二着も立派だと励ました。
掲示板には写真判定ながら着順が表示されている。
「やっぱ差されてたな。そやけど、この竜本番は重陽賞なんやろ? もらったようなもんやん!」
「そうだね! 無事ならね。大賞典で『クレナイアスカ』とどっちが上かが楽しみかな」
「『クレナイアスカ』な! 今年の『内大臣賞』も勝って長距離重賞五連勝中やもんな」
松井は八級出であり呂級の状況はイマイチわからないらしい。
武田がそういう化け物がいるという話をすると、松井は見てみたいと目を輝かせた。
残念ながら次走は年末だと岡部が言うと、松井は露骨にがっかりした。
「『タイセイ』が『大賞典』で勝てたら相当話題になると思うな」
「『セキラン』といい、この『タイセイ』といい、戸川先生は良え竜抱えとるなあ」
それに比べてうちの厩舎はと、また武田は父親を責めるような言い方をした。
松井は戸川先生が良い竜に化けさせたんだろと指摘して岡部に微笑みかけた。
翌週、最初の実習競走が行われた。
この時期特有のしとしと雨が三日前まで降っていたのだが、前日、当日とカラッと晴れ、競技場の状態は非常に良い状態に戻っている。
競走は学園内の競技場で行われる。
横に楕円のすり鉢状をした競技場で、そこに斜めに点々と発走機が置かれる。
発走機は小さな二枚の柵状のもので竜の前脚の前に立っている。
竜は柵と柵の間に顔を出して大人しく発走の合図を待っている。
実際の競走では三周から五周するのだが、実習競走は全て最低の三周と決まっている。
発走者の大きな旗が振られると脚前の柵が一斉に倒れる。
一周目、『サケエイリ』は周囲に付いていくのがやっとという感じであった。
二周目、ついに徐々に離され始めた。
三周目に入ると他の四頭の加速に全く対応できず、他の四頭が終着した時まだ三角を回っていた。
一着は武田の『ハナビシホオヅキ』、二着は松本の『ビシャモン』、三着は大須賀の『ジョウランブ』、四着が松井の『ミズホフクガン』。
岡部の『サケエイリ』は大差シンガリだった。
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