第29話 実習
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
四月一日、いよいよ実習競走へ向けての調教が開始となった。
調教は追切りが一週間に二回まで、それ以外は特に既定は無い。
給飼も何種類か許された範囲の中で自由に行って良い事になっている。
調教計画は調教師候補が全て組み、飼育方針も調教師候補が全て決める。
騎手候補は全て調教師候補の指示に従うことになる。
岡部と松井の二人は事前に騎手候補との面会が済んでいるが、他の三人はこの日初めて顔を会わせる事となった。
また会派から支給された竜にも、この日初めて会うことになった。
岡部と服部は会派から支給された竜を見て絶句した。
他の四人、特に稲妻牧場の三人に比べ明らかに体が小さく、肉付きは薄いというよりガリガリで、元気も覇気も微塵も感じない竜であった。
「あの……もしかして、岡部さんって会派から嫌われてるん?」
服部はその竜を見て、顔を引きつらせながら真っ先にそう尋ねた。
「……そうなのかもね」
岡部も何とか笑顔を見せようとしたのだが、引きつった顔になった。
「これでどうやって他の竜に勝てと?」
恨みがましい目で見てくる服部を、岡部は直視できずにいる。
「僕の先生は、こういう竜ばかりで八級に昇格したって言ってたんだよね」
「ほな、やればやれると?」
「少なくとも先生はやったんだよね……」
岡部は『サケエイリ』と名付けられた緑鱗の竜の首筋を撫でると、脚や膝、腰と触って状態を確認した。
最後に口を開かせ竜牙を確認した。
「君もちょっと触って確認してみてよ」
服部も岡部と同じように、竜を触って状態を確認し、最後に口の中を見回した。
「どう思ったかな?」
「どうって、特にこれと言って」
服部には岡部が何が言いたいのかさっぱりわからない。
ふと周囲を見ると、他の調教師候補や騎手候補だけじゃなく、教官たちもこちらをチラチラ見ながら何かを言い合っている。
「そうなんだよ。特にこれといって大きな怪我等が無い。という事はだ、こんなにガリガリなんだけど、骨そのものは丈夫で健康面を気にせず鍛えられるってことだよね!」
「いやいやいや。前向きなんは結構やけども、裏返したらそれ以外何も取り柄無いいう事やないですか」
「まあ、そうとも言えるかな」
岡部は『サケエイリ』の首筋を撫でながらわははと笑い出した。
そんな岡部を服部は冷めた目で見ている。
「さあ、この仔は一体どんな餌を好むんだろうね。まずはそこから試してみようか。肉を好んでくれると嬉しいんだけどな」
服部は岡部に言われたように、全種の飼料を少しづつ持ってきた。
それを平皿に少しづつ入れて『エイリ』の前に差し出した。
さらにその横には水の入った深皿を並べて置く。
だが残念ながら『エイリ』は、飼料皿にも水皿にも一切見向きしなかった。
「お腹空いてへんのでしょうか?」
「食が細いか、見られてると食べないか、はたまた内臓に疾患があるか……」
竜はこの日に合わせて土肥まで輸送されてきているので、前日の夜から満足に食事が取れていないはずで、空腹という事は無いはずなのである。
「水も飲まへんとか、困った仔やな」
「水を飲まないという事は内臓疾患は無さそうかな」
服部は岡部の発言に驚き、目を丸くして見つめた。
「ほんまですか? 何でわかるんです?」
「内臓に疾患があったら、逆にやたらと水を飲んで下痢をする……と思うんだよね」
岡部の発言に服部はがっくりとした。
「いやいや、それ人の話やないんですか」
「人だって同じ生き物さ。内臓疾患の時の行動なんて多分どの生物も似たようなもんだと思うよ?」
岡部は飼料皿と水皿を竜房の奥に置くように指示すると、今後の事を室内で検討しようと教室へ向かった。
正直なところを言えば、服部の手前おくびにも出せないが、岡部もあの竜で一体どうしろというんだと感じてる。
だがここから最後の実習競争まで八か月ある。
八か月あれば、何とか他の竜に付いていくくらいにはもっていけるのではという淡い期待も抱く。
駄目で元々。
今が底なら、少しでも上向けばそれはそれで成果だろうと。
改めて添付された資料を確認してみる。
『サケエイリ』は、元は西国久留米の及川光助厩舎の所属で明け六歳の牡竜。
ここまでの戦績は十二戦しわずかに一勝。
ただしその一勝は三歳の新竜戦のもので、そこからは十一戦全敗。
勝った新竜戦を除く残り十一戦の最高着順は六着。
仁級は八頭立てなので、基本全部惨敗と言っていいだろう。
しかもよく見れば最後の出走は半年も前。
岡部は服部を待たせ、頭を抱えながら、じっくりと今後の方針を決めた。
まだ『エイリ』の事でわからない事が多いからと注釈を付けて服部に方針を説明した。
毎日早朝に状態を確認し、引き運動、乗り運動をした後、朝飼にする。
ここまでは恐らくどの竜も同じだと思う。
朝飼から昼飼までは外で日光浴をさせる。
先ほどの感じだとかなり臆病な仔に思えるから、時々様子を見にいって状態をしっかりと観察する。
日光浴をさせている間は水と間食を与える。
昼飼の前には、また引き運動、乗り運動をする。
その後夕飼まで竜房でじっくり休ませる。
これを基本毎日続ける。
「休みは無いんですか?」
「無いよ。あるわけないだろ。さっき君も言っただろ、何も取り柄が無いって。だったら他の人たちより手塩に掛けることで取り柄を作っていくしか無いじゃないか」
服部は露骨に不満そうな顔を岡部に向けている。
服部の気持ちもわからないでもない。
楽して勝てればそれが一番で、そうじゃないならさっさと諦めて別の目標に切り替えていけば良いと思っているのだろう。
「ある程度肉が付くまでは、まともに追う事もできないから。そこまでは我慢して欲しい」
「どれくらいで目途が立つと思うてるんですか?」
「さあねえ。とりあえず竜房の様子をもう一度見に行ってみようか」
服部はやれやれという態度をした。
竜房に行くと、飼料皿の中からいくつかの飼料が消えていた。
「おお、食べてる! ってことは見てるうちは食べへんいうことか。お上品な仔やなあ」
「豆、果物、穀物、芋。肉はダメか……仁級は雑食なのになあ。まあでも大豆を食べてるのは光明かな」
岡部の言葉に服部が首を傾げた。
「大豆が何かあるんですか?」
「大豆は蛋白質と脂質が豊富だから、主食で食べさせれば肉付きが良くなる……と思う」
『と思う』の部分で服部はがっくりとした。
「主食にするほど大豆食べてくれるんですかね?」
「さあねえ。まずは、大豆五、穀物三、果実一、芋一で通常の量を与えてみようか。どれくらい何を残すか教えてね」
わかりましたと、服部は素直に返事をした。
だが、承諾という態度では無い。
仕方ないから付き合ってやるという態度である。
「さっき言うてた間食はどういう飼料にするんです?」
「間食は、大豆五、果実五で、通常の五分の一程度を与えて。これもどれくらい残してるか教えてね」
服部は筆記用具が必須だと苦笑いした。
岡部は一日目の終り際に服部を部屋に呼んだ。
服部を向かいの椅子に座らせる。
「正直、外れの調教師を引いたと思ってるでしょ?」
服部は黙ったまま、岡部の顔を見ている。
「こんなはずじゃ無かったのにって」
「周り見たら、そう思わないわけないやないですか。あんな、まとに飯も食わへん竜宛がわれて」
不貞腐れながら言う服部に、どういうわけか岡部は賛同できないでいる。
『エイリ』が飼料を食べたのを知った時、岡部の中では諦めの気持ちから、何か期待をするような気持ちに変わったような気がしている。
「僕は楽しいけどな。あの仔がこの先強くなって他の竜と渡り合ったらって思うとさ」
「他の竜に比べて発走地点がごつい後ろに感じますけど? あの竜がそれなりになる頃には他の竜は、もっと強なってるだけですよ」
「かもしれない。だけどこの経験はこの先、絶対に僕たちの糧になっていくはずだよ」
例え研修では実が結ばなくても、開業後にはきっとそれが経験として生きてくるはず。
岡部は熱弁するのだが、イマイチ服部には響いていない様子だった。
「僕は騎手やから、そこまで糧にはならへんと思いますけど?」
「はあ? 本気で言ってるならかなり失望するなあ」
服部は不愉快な顔をする。
そんな服部を、岡部は責めるような目で見た。
「騎手っていうのは、どれだけ竜の事を知りつくしているかが実際の競争でものを言うと思ってたんだけど? そういう事って考えた事無いの?」
「そしたらこっから半年、あのへなちょこ竜に付きあう事で、騎手として何か得られると」
岡部は服部が『エイリ』を『へなちょこ』と蔑んだ事が気に入らず、じっと睨みつけた。
その目に耐えられなかったようで、服部はそっと目を反らした。
「『目の前の竜に、真摯に向き合え』僕の恩師の方針だよ。それがどういう事か、二人で八か月かけてじっくり考えていこう」
諭すように岡部は言った。
服部は岡部の言葉にうんともいいえとも言わず、ただ無言で机に視線を落としている。
「開業も仁級からやから無駄にはならへんか……」
服部の呟きを岡部は鼻で笑った。
「なんだ、存外志が低いんだな。僕は伊級に行くつもりだよ? そこまで付き合う気は無いのか?」
「ほんまに行けるんやったら考えますわ」
服部は初めて心を許したような笑顔を岡部に見せた。
その日の夜、下宿で缶麦酒を松下と呑んだ。
「しっかし君、えらい竜を宛がわれたもんだな。武田くんたちも、君の竜のあまりの酷さにちょっと引いてたよ」
松井は非常に渋い顔をしている。
岡部も麦酒を呑んでため息ををついた。
「一体どっからあんな竜ひねり出してきたのやら」
岡部は、どうにも納得がいかないという顔をして首を左右に振った。
「どっからって現役の竜の提供を呼び掛けたってのはどこも事情は同じでしょ?」
「ということは、うちの会派で現役で調教してる竜がアレと?」
「中でも、とりわけ引退寸前の竜がアレってことでしょ。俺のも驚くほどの老竜だよ」
仁級の竜は成長が早く、羽化した年を当歳とし、明け三歳で入厩し新竜戦に出走する。
世代戦は四歳で、五歳から古竜戦となる。
松井が会派から提供された『ミズホフクガン』はなんと十一歳。
ここまで四十戦以上し、わずか二勝しかしていない。
「稲妻牧場の三人の竜と比べられて、服部を納得させるのに骨を折ったよ」
「ただでさえこっちは絆が無いってのにな。臼杵もずっと服部を気にかけてたよ」
岡部は麦酒をぐっと呑むと大きく息を吐いた。
「うちはまだ発走機にも入れてないんだよ。まだ飼料も満足に食べなくてさ」
「えっ? 飼料も食わんのかよ……もうさ、ここは気持ち切り替えて、稲妻牧場の竜に半年でどこまで迫れるかを目標にしたら良いんじゃないの?」
「そんなんで服部が我慢できるかなあ……」
岡部は、麦酒に口を付け、部屋の天井を仰ぎ見て、できないだろうなと呟いた。
「そっか……それもあるよな。俺も臼杵に見離されんようにせんと」
「勝てないまでも、せめて希望を見せ続けられればなあ」
岡部は飲み終わった空の缶をくしゃりと潰すと、再度天を仰いだ。
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