第28話 雪解け
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
三月に入って最初の授業は、翌月以降の研修内容の説明であった。
四月から十一月まで実習競走が行われる。
ここまで三か月授業で学んできた事を元に、実際に竜を調教して競い合わせるのである。
その為の竜は調教師候補の所属会派から提供される。
四月は調教の月で、初回の競走は五月末。
六月末の競走後一旦竜は放牧され、七月一杯は学校が夏休みとなる。
八月末に三回目の実習競走が行われ、そこから九月、十月、十一月と全部で六回行われる。
十二月は調教師も騎手も開業に向けての座学が一週間ほどあり、晴れて卒業となる。
騎手候補はその後一月から開業。
調教師候補は四か月の実地研修に入る。
三月のとある日、岡部と松井は放課後に教官に呼び出された。
教官は二人を騎手棟の一室に案内した。
そこには二人のくりくり頭の青年が待っていた。
一人はいかにも品行方正な感じの子で、名前は臼杵鑑彦。
目鼻立ちはすっきりしており、少し顔は面長。
まだ少し少年のような面影を残している。
もう一人は少しやんちゃそうな顔つきの子で、名前は服部正男。
少し丸顔で眉毛が太い。
目つきが悪く、拗ねているようにも見える。
二人は岡部たちを見るとびしっと起立し、よろしくお願いしますとお辞儀をした。
岡部と松井もそれぞれ挨拶し、四人は向かい合って座った。
教官から、この二名が会派の決まっていない騎手だと案内される。
同様に騎手候補の二人に、個別受験で研修に来た二人だと岡部たちを案内した。
教官は四人に誰が良いという希望はあるかと尋ねた。
臼杵は僕はどちらでも構いませんとはっきりと回答。
特にと服部はぶっきらぼうに回答した。
松井は岡部に、君は希望あるのと尋ねた。
岡部は二人をじっと見比べた。
「服部君の方が『日章会』の騎手なのかな?」
「そうですけど、それが何や関係あるんですか?」
服部はギロリと岡部を睨みつけるとぷいと視線を反らした。
「そっか。じゃあ僕は君が良い」
「はあ? あんた何やねん?」
露骨に岡部を威嚇する服部の態度に教官は激怒し、椅子から立ち上がる。
服部!と大声で怒鳴りつけたのだが、そこを岡部がまあまあと宥めた。
「僕の先生がね。もし選ぶ事ができるのなら、君を選びなさいと言ってくれてね」
「憐れみやったら、ごっつい不愉快やねんけど」
教官は再度激怒し、きさま何だその態度は!と服部の胸倉を掴む。
「すみません。こいつ会派に捨てられたと思ってて、今拗ねてるんです。すみません」
なぜか隣の臼杵が焦りだし、代わりにぺこぺこ何度も頭を下げる。
岡部は服部を殴ろうとしている教官を力づくで制し、怒らないであげて欲しいと微笑んだ。
臼杵にも、まあまあと落ち着かせ座らせた。
「そうじゃないんだよ、服部君。僕はね、君のおかげで調教師になれたと思ってる。だから君には大変感謝してるんだよ」
服部は気恥ずかしいのか黙って俯いている。
「だから僕は、できる事なら君と一緒にこの先を歩みたいんだ。良かったら僕の手を取ってはくれないだろうか?」
岡部は優しく微笑み、服部に握手を求めた。
だがすぐにはっと気づき、慌てて松井を見た。
「あ、松井くんは良かったのかな?」
松井は岡部のしまったという表情に笑い出し、こっちは問題無いと微笑んだ。
服部は顔を上げると、もじもじしながらも岡部と握手をし、松井も臼杵と握手をした。
あの修善寺旅行以来、武田は暇さえあれば岡部たちの下宿にやって来ている。
松井は、それがあまり良い傾向では無いと感じているようで、事ある毎に大須賀と松本を呑み会に誘っている。
だが二人からは、君らほど若くないからしんどいと断られる事が度々であった。
武田は松井に促され、二人を修善寺の温泉に一緒に行こうと誘った事もある。
だが、そんな遠くに行かなくても土肥にも温泉があると無下に断られてしまった。
最終の小試験を来週に迎えた金曜日、松井はいつもの焼き鳥屋『串浜』に行こうと四人を誘った。
大須賀も松本も『串浜』はかなり気に入っているようで、良いねえと乗ってきた。
五人は適当に焼き鳥を頼むと麦酒で乾杯。
ぐっと喉に流し込むと、ぷはあと息を吐いた。
「しっかし、君らよく色んなとこ遊びに行ってるな。松井くんも若者相手に元気だねえ」
大須賀は二口目の麦酒を口にしながら、爺むさい言い回しをした。
「そんな事言ってると、どんどんお爺ちゃんになっちまうぞ?」
「君も後数年もすればわかるよ。なかなか体力が回復しねえんだ」
嫁の目が無いんだから休みはのんびりしてたいと、大須賀がくたびれた顔をする。
松井君とほとんど歳は変わらないけどわかるよと松本が笑った。
「おいおい二人とも、体が資本のお仕事ですぜ?」
松井の指摘に大須賀はそうは言ってもなと渋い顔をする。
「若いのの勢いには、さすがにずっとは付き合えやしねえよ」
「若いのに合わせて遊んでるうちは、若くいられるもんだぞ?」
「俺は遊びより按摩に行きてえよ」
武田が爺むさいなあと大笑いした。
大須賀は武田を指さし、君もそのうちこうなるんだと不貞腐れた。
一通り焼き鳥が来たので、そこからは単品で好みの物を注文しだしている。
岡部は小赤茄子と薄肉の串が好きで毎回注文している。
大須賀は獅子唐の串が、松本は大蒜と大蒜の芽の串がお気に入り。
松井はぼんじりが、武田はうずらの卵がお気に入りで、そこからはその五種を織り交ぜて食べる感じである。
「来月からいよいよ実習競走始まるんだけどさ、実習って仁級なんだよね。俺、仁級って競走観た事すら無いんだよね」
お気に入り大蒜の串焼きを一粒食べて、松本が不安を漏らした。
その時点で岡部と武田は気分を害したという顔をする。
その雰囲気を松井が察し、そんな事言っても開業は仁級からだと松本を鼻で笑った。
「それなんだよな。何で伊級から開業できないのかね。せめて呂級。仁級から這い上がるとか無駄な時間だよ」
岡部と武田だけじゃなく、松井まで露骨に不快な顔をする。
大須賀は三人の雰囲気に気づいたらしく松本を窘めた。
「何が無駄なんだよ。仁級の竜への調教は全ての調教の基礎って習っただろ? 伊級の先生たちだって全員そうやって伊級まで来たんだぞ?」
「そんなことやってるから世界と差がつくんじゃないのかねえ」
恐らく普段そんな話を厩務員仲間としていたのだろう。
松本はそれを口にしただけで、別に悪気があっての言動では無かった。
だが、武田たちは露骨に顔をしかめて無言で串を口に運んでいる。
その雰囲気を大須賀はかなりまずいと感じた。
「仁級は無駄だって言いたいのか? ブリタニスだってゴールだってペヨーテだって、うちらと同じように新人調教師はまずは仁級で腕を競ってから順に昇級して伊級って制度だぞ?」
「世界と同じ事やってどうするんだよ。そんな昇級制度無駄なんだよ。最初から伊級でやれれば、全員伊級に特化できる。世界と競い合うなら伊級以外必要無いよ」
その松本の発言に苛っときたらしく岡部が、麦酒の器をだんと机に置いた。
「じゃあ松本くんは、何でどこの国も昇級制度を採用していると思ってるの?」
「他所の国の事なんて俺が知るわけないだろ。でもさ、うちだけじゃなくどこの国でも、師匠の級を弟子はなかなか越えられないっていうじゃん。だったら呂級以下なんていらんと思わない?」
岡部は冷たい目で松本を見る。
その挑発的な目に松本も少し苛ついてきたらしく、岡部を睨み始めた。
「そういう心得違い者に伊級をやらせて、大事故起こされない為に篩に掛けてるんじゃないのか?」
「あん? 俺が勘違い野郎だって言いてえのか? この落第小僧が!」
逆上した松本の暴言に、岡部ではなく大須賀が激怒し松本の胸倉を掴んだ。
「てめえ!! 俺の大事な同期に何て口の聞き方してんだ!」
大須賀の怒声に周囲の客も驚き店内はしんとなってしまっている。
そんな雰囲気を察し、松本の胸倉を掴む大須賀の腕を松井がぽんぽんと叩き宥めた。
「今のは岡部くんも悪いさ。だけど松本くんの言葉に岡部くんたちが不快感を覚えたのも確かだ。うちらの師は呂級や八級だ、それを蔑むような口調で要らないと言われたら誰だって不愉快になるってもんだろ?」
四人は松本をずっと睨みつけている。
周囲の客も無言で自分をちらちらと見ている事に、松本も遅ればせながら気が付いた。
「お前、自分が酔って犯した失言の後始末の仕方も知らんのか?」
大須賀は完全に激昂しており、反省している松本に向かって叱責した。
「少し呑みすぎて余計な事を言ったらしい。不快に思わせて申し訳なかった」
松本は唇を噛み素直に頭を下げた。
岡部たちの言い争いに、お店の中の雰囲気が相当悪くなってしまっている。
それを察した岡部は、伝票を松本の前に無造作に差し出した。
「だったら今日はご馳走してもらえるんですよね? ご馳走様です!」
松本は満面の笑みを作る岡部の顔を見て噴出した。
実は自分をたばかっていたという事にして、この件を水に流そうとしてくれている。
松本は内心で岡部に感謝した。
「くそっ! やられたべや。ああ、払うよ! ここは俺が全部持つ。好きに呑んでくれ!」
松本は手で目を覆った。
松井と大須賀は松本の背中をバシバシ叩いて、くだらないこと言うから損するんだと笑った。
武田はうずら串も頼んで良いかと松本に無邪気な顔を向けた。
松本は好きに飲み食いしたら良いと悔しそうに笑い出した。
そんな松本の態度に、他のお客がどっと笑い出し、店の雰囲気も一気に盛り上がった。
結局、三月末の小試験も岡部は追試だった。
試験の翌日、修善寺に行こうと武田は一人で岡部たちの下宿にやってきた。
「何だ? あれからもまだ向こうは居心地が悪いのか?」
松井は欠伸をしながらお腹をぼりぼり掻いて武田に問いかける。
「いや、あれから松本くん考えを改めたみたい。暇さえあれば仁級と八級と呂級の中継見てるよ」
「良かったじゃん」
番組観てるってのは変わらないんだと岡部が笑うと、武田もそうなんだよと笑い出した。
「大須賀くんの事は誤解やってわかったし。あれからかなり打ち解けたよ」
「そうかそうか」
武田の晴れやかな顔が見れて、松井はほっと一安心している。
武田は照れくさそうな顔をして手をもじもじとしだした。
「松井くんと岡部くんが、あの時一緒に怒ってくれたから。その、ありがとうな」
「なんだよ。むず痒いじゃないか。大須賀くんも言ってただろ? 大事な同期だって」
たった五人だけの大事な同期。
喧嘩なんてしたら勿体ないと松井は笑い出した。
「そやね。うちら五人、大事な同期やもんな」
武田は照れくさそうに口をにまにまさせている。
松井もそんな武田の顔を見て微笑んでいる。
「で、今、残り二人の大事な同期は何してんの?」
「大須賀くんはまだ寝てる。松本くんは朝から寝っ転がってずっと番組見てる」
「そこは変わらないんだな」
松井と岡部は爆笑した。
「だからさ、僕暇やねん。修善寺行こうや!」
松井は岡部の顔をちらりと見た。
岡部も何かを期待するような顔で松井を見返している。
「わかったわかった。じゃあ旨い蕎麦食いに行くか!」
武田はやったと大喜びした。
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