第26話 休日
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
調教師研修は月曜から金曜まできっちり行われる。
始業は五時で終業は正午。
途中八時に朝食休憩がある。
一月から三月までは、まるで学生に戻ったかのように教室で講義を受ける。
四月以降はその知識を元に実習競走を行うのである。
競竜関係者でなければ朝の五時からの座学など到底起きてはいられないだろう。
だがここに来る人は元々そのくらいの時間から活動していた人たちである。
特に苦も無く日々を過ごしている。
座学は基本的に調教師としての知っておかなければいけない事に重点が置かれている。
それはつまるところ三つに分類される。
獣医としての知識、経営者としての知識、法治下での企業人としての知識。
ただ必ずしも厩舎関係者が研修に来るとは限らない。
能島のように牧場関係から来る人もいるので、厩務員としての知識と調教助手としての知識も組み込まれている。
調教助手をしていた岡部たちですらかなり難しいと思う内容だから、能島のような牧場関係者はかなり苦戦しただろう事が容易に想像できる。
最初の一週間は怒涛のように過ぎて行った。
正直、授業を受けて酒を呑んでを繰り返したという記憶しか残っていない。
土曜日になると岡部は、松井を誘い朝セリに向かった。
市場で仲買人のおばちゃんに朝食が食べられるお薦めの場所を聞くと『魚せん』という食堂を教えてもらった。
二人はお店に入ると、お薦めの海鮮丼を注文。
出てきたものは、身が非常に厚くぷりぷりしている刺身がこれでもかと乗っている海鮮丼であった。
わさびも擦りおろしらしく効きが良い。
醤油は皇都のものに比べると色が濃く味も塩味が強い。
岡部からしたら懐かしい醤油であった。
「朝からこんな豪勢なもん食って、贅沢この上ないなあ」
松井は朝からほくほく顔である。
「お昼に来るべきだったかも。どうせお昼も外食だろうし」
「何々まだどっか別の店知ってるの? 意外と行動力あるんだねえ」
「初日に行った定食屋だけだよ。後はいつも行く居酒屋くらいだよ。それ以外だといつもの乾き物買う魚屋くらい」
初日に何気なく立ち寄った魚屋だったが、イカの燻製のあまりの旨さにびっくりした。
そこから岡部と松井は毎日のように学校帰りに通うようになっている。
練り物や干物、乾き物は全て店で仕込んでいて自慢の品なのだそうだ。
岡部も松井も、家族にも食べて貰おうと家に送付しているのだが、数日しておかわりの要求の電話が入った。
「そのうち日帰りで遠出する事も考えないとだな。ここは娯楽が無さすぎる」
店を出ると松井がそう言って古い町並みをぐるりと眺め見た。
確かに、見渡す限り潮風で傷んだ家しか見えない。
「だよね。毎週、麦酒片手に番組見てるってわけにもいかないしね」
「くたびれたおっさんかよ」
松井が笑い出すと、岡部も一緒に笑い出した。
下宿に戻ると、食堂で武田が一人新聞を読んでおにぎりを食べていた。
「よ、おかえり。こない朝早よからどこ行ってたん?」
武田は二人を見ると手を振って挨拶した。
岡部は手を振り返したのだが、松井は憮然とした顔をしている。
「その前にだ。なんで君がごく当たり前にここでおにぎり食ってんだよ!」
「来る前に買うてきたんやから、茶くらい貰っても良えやんけ」
「そんなセコイ事言ってるわけじゃねえよ! 朝飯なら稲妻の下宿で食えば良いって言ってんだよ」
岡部は笑いながら、まあまあと松井を窘めた。
港の朝セリを見に行ってきたと岡部は報告した。
そこで教えてもらった店で朝食を食べてきたと言うと武田は羨ましそうな顔をする。
「良えなあ。僕もそこ、お昼に連れてってえな」
「君、話聞いてなかったのかよ。今朝そこで食ったって言ってるだろ?」
何で話が通じないかなと松井は少し苛々している。
「ええやん。昼も行こうや!」
「行くかよ!! あの人たちまた来たわよって裏で陰口叩かれるわ!」
岡部は二人の掛け合いが面白すぎて、腹を抱えて笑っている。
そんな岡部に笑いすぎだと松井が指摘した。
「向こうの二人は何してるんだ?」
松井の疑問に武田は小さくため息をつく。
「大須賀くんはまだ寝てる。松本くんは朝から寝っ転がってずっと番組見てる」
松井は武田の回答に絶句してしまった。
くたびれたおっさんかよと岡部が呟いた。
「つまんねえ……」
「そやろ? 僕ここ来たのわかるやろ?」
松井もかなり同情的な目で武田を見た。
岡部が何かを期待するような目で松井を見る。
武田も同じような目で松井を見る。
仕方がないという感じで松井は苦笑いして二人を順に見た。
「じゃあ、ちょっと土肥の町ぶらついて店発掘すっか!」
岡部と武田は、いえいと手をぱちりと合わせてはしゃいだ。
大通りを三人でぶらぶらと海岸線に沿って南の方に歩いて行く。
だがどれだけ歩いても町並みは全く変わらない。
結局見つけたのは『串浜』という焼き鳥屋一軒だけだった。
その途中で岡部が観光地の案内を見つけた。
「ねえ。さっき金山ってあったんだけど行ってみない?」
「そうだな。する事も無いし、ちょっと行ってみるか」
松井は恐らく、ド田舎のむりやり観光地的なものを想像していたのだろう。
だが『土肥金山』はかなり立派な観光名所で、観光用に整備された坑道もあり、暇つぶしにしてはかなり大規模だった。
休日という事もあり観光客もそれなりに多くいる。
坑道を出ると昼食の時間で、三人は敷地内の食堂で昼食をとる事になった。
岡部と武田は穴子丼を、松井は太刀魚丼を注文。
武田は満足したようだが、岡部と松井は朝の海鮮丼と比べてしまい、かなり興ざめであった。
食事が済むと、資料館のような場所に行った。
三人が一番興奮したのは本物の金塊。
透明な容器に手を差し込んで重さを確認できるようになっており、重い重いと大はしゃぎであった。
帰りに土産物屋に寄ると、松井が可愛いキーホルダーを見ている。
武田がそれを目ざとく見つけた。
「何、何? 彼女へのお土産なん?」
「……娘」
松井の回答に武田は固まってしまった。
そんな武田を松井はじっとりした目で見ている。
「え? え? 娘おるん?」
「別にいてもおかしくないだろ。君たちより歳上なんだから」
武田は松井の顔をまじまじと見て、岡部を呼びに行った。
岡部が不思議そうな顔でどうしたのと尋ねると松井は笑い出した。
「別にわざわざ岡部くんを呼びに行くことないだろうよ」
「え……だって……」
武田は困惑して岡部の顔を見た。
三人は午前中に見つけた串焼き屋『串浜』に向かい、大須賀と松本を呼び出した。
適当に焼き鳥を注文し、麦酒が届くと乾杯した。
「なあなあ、松井くん娘がおるんやって。二人はどうなん?」
武田がかなり興奮気味に大須賀と松本に話を振った。
「俺は結婚してもう四年だけど子供はまだだね」
仕事が早いから中々生活時間が合わなくてと松本が少し照れた。
この業界そういう人結構いると思うと武田に言った。
大須賀は麦酒を呑んでから話しはじめた。
「俺は息子と娘一人づつ。下の娘まだ二歳だからさ、正直、一年離れるのは不安だよね」
大須賀の言葉に松井も賛同する。
「俺も娘まだ一歳だから、はっきり言って不安でしょうがない」
松井は麦酒を呑むと困り顔をした。
「松井くんは家族どうしてきたの?」
「うちは姉さん女房だから、そういうところはしっかりしたもんでさ、その間娘と実家に帰ってるって」
松井は、既に福原の貸家も引き払ってしまったのだそうだ。
松本も、うちも奥さんは実家に帰ったと言って麦酒を呑んだ。
「それなら多少は安心じゃない。うちなんかさ、俺も妻も実家が遠いもんだからそういうわけにいかねくてね。保育園もあるから引っ越しも容易じゃなくて」
「じゃあ、今、家は奥さんと小さい子たちの三人だけなの?」
松井の問いかけに、大須賀は小さくため息をつく。
「妻の両親が花巻からうちに来てくれるとは聞いてるけど、ずっとというわけにもいかねだろうしね。近所に祖父母が住んでるからお願いはしてきたけど、まあ不安は拭えないよね」
大須賀の家庭事情に場がしんみりしはじめた。
そんな雰囲気を察し、大須賀は手をパンと叩いて武田と岡部を見た。
「若者二人はどうなんだよ。おっさんたちの家庭の悩みなんかどうでも良いんだよ」
恋人もいないと言って岡部は恥ずかしがりながら皆から顔を背けた。
すると松本が甲斐性のないやつだと笑い出した。
「出会いなんてのは、本当はそこら中に転がってるんだぞ?」
酔っ払っているのか松本は恋愛巧者のような事を言いだした。
大須賀はこういうのは縁だからと、年長者らしい事を言って笑った。
「武田くんはどうなんだよ? まさか君もいないとか言わんよな?」
大須賀に話を振られ、武田は気恥ずかしそうに麦酒に口を付けた。
「恋人はおるんやけどね。この一年で愛想尽かさんと大人しう待ってくれるんか不安やね」
武田が大須賀から顔を背けながら独り言のように言うと、大須賀は嬉しそうに身を乗り出した。
「お、いいねえ! お酒がすすむな。で、どんな娘なんだよ?」
「僕、会長の縁者やから。幼馴染の牧場の娘ですわ」
武田は大須賀の質問に照れながら答える。
それに岡部が即座に反応した。
「え? 牧場って稲妻牧場だよね? それってすごい縁なんじゃん!」
岡部はかなり興奮気味に隣の席の武田に指摘した。
武田は照れ笑いしている。
だが、そんな純粋な反応の岡部と他の三人の反応は違っていた。
「なるほど。今、遠距離ということはだ。皇都では遠距離じゃなかったということになるな。幼馴染の牧場の娘なのに」
大須賀は悪い顔で武田を問い詰めた。
武田の顔が明らかに引きつった。
「ということはだ。その娘は、南国か北国か知らんが、はるばる牧場から武田くんを追いかけて来たという事になるな」
松井も悪い顔で武田を問い詰める。
武田はわざとらしく咳払いをした。
「たまたま、今、皇都の学校に通学してて……」
武田は言い訳をしたのだが、松本は悪い顔でさらに問い詰める。
「ほう! たまたま君の家の近くの学校に通学してるんだ。それは中々の偶然だな」
「そうですよ! 偶然うちの近くの借家に部屋借りおったんです!」
松井と大須賀、松本は、ひゅうと声を出し武田を囃し立てた。
岡部はあまり興味がないらしく欠伸をしている。
「夏に帰る時、絶対に身に付けられる物を土産に買って行げよ。で、お前にずっと会いたかったって言うんだ」
松本が食べた串を武田に向けて助言した。
武田は顔を真っ赤にして黙って頷いた。
「そしたら卒業式の後は、武田くんとお腹の大きい奥さんとの結婚式に出る事になってしまうな」
大須賀がゲラゲラ笑うと、松井は、呑みすぎだエロ親父がと笑った。
よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。