第25話 入学式
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
一張羅に革靴で松井と岡部は下宿を後にした。
下宿を出て山川を背に北に少し歩くと、港から駅へと真っ直ぐに繋ぐ大通りに出る。
その大通りから北の山側に緩い坂を登って行った先が競竜学校の正門となっている。
二人で緩い坂を登って行くと門の前で武田たちが待っていた。
大須賀は岡部を見ると眉をひそめて、ずかずかと近寄って来た。
「衿締が曲がってるじゃねえか。恥ずかしい奴っちゃな。松井くんも気づいたら直してやれよ」
大須賀は少し腰をかがめると、岡部の衿締を器用に直しはじめる。
松井としては、これでもだいぶマシになったんだと言いたかっただろう。
出かける前に何度も締め方を見せてやったのだから。
締めた事無いから締め方がわからないと岡部は顔を引きつらせて言い訳をする。
「これから一年は毎日締めるんだから、早急に締めれるようになっておかねえと」
締め方自体はこれで間違ってないからと、大須賀は優しく頷いた。
学校内に入ると報道陣が写真機を構えてどっと押し寄せてきた。
それを教官たちが堰き止めて、教官の一人が五人を体育館前に案内した。
入場の順番は、大須賀、岡部、武田、松井、松本の順。
扉が開けられると、手前の来賓席に会の関係者や家族たちが集まっていて、拍手で出迎えてくれている。
花道を進むと、来賓席の奥に騎手候補生たちが立って拍手をしている。
恐らく雰囲気からして、手前から一年、二年、三年の順なのだろう。
その先に五脚の空いた椅子があり、その前に五人は立った。
五人は振り返って参列者に礼をすると、前に向き直り入学式が開始となった。
式典は、学校長の挨拶から始まり、竜主会会長の武田会長の挨拶、執行会会長の朝比奈会長の挨拶、調教師会長の武田信文調教師の挨拶、競竜協会の桃井議員の挨拶と続いた。
その後、板垣という三年生の騎手候補の代表が紙を読み、調教師候補の代表として大須賀が紙を読む。
最後に香坂という二年生の代表が祝辞を読んで、岡部たち調教師候補は退場となった。
式典会場から出ると、調教師候補は報道陣に取り囲まれる事になった。
だが報道陣はいつもの取材のような俺が俺がと前に出てくる感じではなく非常に行儀が良い。
それを大須賀に小声で言うと、大須賀はくすりと笑った。
「この中に未来の伊級調教師がいると思えば、彼らとしても、あまり最初から悪い印象を持たれたくはないんだろうさ」
一通り報道陣の取材が終わると、今度は執行会の特番用の映像撮影となった。
事前にいくつか質問が用意され、その中から回答できるものは回答するという段取りであった。
岡部はいくつかの質問の中で、どの級の競竜が好きかという質問と、将来どんな調教師になりたいかという質問に答えた。
好きな競竜には伊級、将来像については、厩務員たちの感性を集約してそれを竜に捧げるような調教師と回答した。
その日の予定はそれで終りだったが、岡部だけ学校の教官に呼ばれた。
案内されるままに教務員室に行くと、満面の笑みの武田会長が待っていた。
「久しぶりだね。昨年の『上巳賞』以来かな。試験の合格おめでとう」
武田は握手をしようと片手を差し出す。
「ありがとうございます。武田会長もお元気そうで何よりです」
手を握り返した岡部を、武田は少し驚いた顔で見る。
「おやおや? 何だ、昨今の調教師試験は社交辞令まで学ぶのか」
武田は握手したままゲラゲラ笑い岡部をからかった。
岡部を案内した教官も堪えきれずに笑い出してしまった。
武田は教務員室の奥の部屋に岡部を通した。
案内してきた教官に、誰も近づけないようにと言い含めている。
その後で思い出したように、お茶を持って来てくれと頼んだ。
二人で椅子に座りお茶を啜ると、武田はやはり駿豆のお茶は旨いなと言って小さく頷いた。
「今年は親戚の孫も入学なんだよ。色々とやんちゃな子だが良くしてやってくれ」
「僕の方が年下ですから、僕が良くしてもらう側ですよ」
そうかそうかと武田は笑った。
「じゃあ、そろそろ本題に入ろうか」
武田はきゅっと顔を引き締める。
岡部も飲んでいた茶碗を机に置いた。
「最上さんから少し話を聞いた。あの一件で奴らから狙われてるそうだね」
「まだ西国の記者がそう言ってるだけですが」
武田は非常に険しい顔をした。
岡部は噂程度と思っていたのだが、その武田の表情を見るに、それ以上の状況になっているのだろう。
「私の方でもお抱えの報道に調べさせたんだが、残念ながら事実らしい」
武田伏し目がちな表情をし、両手を机の上で組んだ。
「『重陽賞』でも君、幕府に来ただろ。あの時、数人不正入館証で捕まってるんだよ」
岡部は大きくため息をついた。
予め大森事務長に忠告しておいた甲斐があったという思いが半分、杞憂では済まなかったという落胆が半分という感情である。
「君の事だ、何か対策を考えていると思うのだが、一端だけでも聞かせてもらえないかな?」
岡部は武田の顔を見ると視線を少し落とした。
「最上会長にも言ったのですが、彼らの裏の手を表沙汰にしてやろうかと」
「裏の手というと?」
「政治家を使って事件解決に圧力をかけている事です」
武田は思ってもいなかった回答に、かなり面食らった。
だがお茶をひと啜りし、すぐに気持ちを落ち着かせた。
「どうやってやるつもりだ? 相手は報道だぞ? その手の専門家だぞ?」
「彼らが操ってる政治家は報道の専門家じゃありません。それが突破口かなと」
岡部が言わんとしている事はわかる。
だが武田には、それ以外何も見えてこなかった。
「当該の政治家の名もわからんのにか?」
「社共連木下、翼賛党竹中。名前ならわかっています」
武田は、思った以上に岡部の下準備が進んでいることに驚いた。
驚きで小さく口を開けたまま固まっている。
「どっちも大物で、かつ超有名人じゃないか。それをどうするつもりだ?」
「何もしてこなければ何もしないつもりです」
「もし何かしてきたら?」
「全力で仕返します!」
武田は、岡部の鋭い眼光に気圧された。
たじたじと言って良い状況であった。
「まあ確かに、手を出したら大きな仕返しを受けるとわからせるのが一番ではあるな」
それが対立の基本の基だろう。
ただし、それは双方がそこそこの知能である事が前提となる。
「ただ彼らは被害者意識の塊ですからね。そこがわからない馬鹿の可能性が……そうなると一気に燃え上がってしまう事になるかもしれません」
「否定はしない。その時は竜主会の持てる政治力を全部動員かけてやるよ。君一人に孤軍奮闘させるほど私は非情な司令では無いつもりだ」
この問題は君一人の問題では無い。
単に彼らのからくりに気付いたのが君というだけで、競竜界全体の問題なのだ。
武田は岡部に力説した。
「ありがとうございます。ですがその……よろしいのですか? 競竜協会の議員に干渉されたりは……」
武田は最初、岡部の言葉の意味がわからず困惑し考え込んだ。
少し考え、競竜協会の内部に報道の行動を良しとしている者がいると指摘されているのだという事を察した。
彼らが報道を味方にしてまで競竜界を危険に晒そうとする理由はただ一つ。
競竜の規約、開催、運営に口出しができるようになること。
有り体に言えば、公正なんてどうでも良いから金をよこせということだ。
「そういうことか! 見せしめか!」
「幕府の大森さんから、そういう話を伺いました」
「大森の割には考察が鋭いじゃないか。しかしそこは完全に私の領分だなあ。どうやったものか」
武田と岡部は、少しの間考え込んだ。
岡部は冷めきった茶をひと啜りすると机に置いた。
「仕事をすれば多少は甘い汁にありつけると調教するのが一番だとは思いますが……」
岡部の言う事を理解すると武田は大きく笑った。
「なるほど、なるほど。飴を後に与えるのか。それだな。ならば対象は真面目な番手の奴が良いだろう」
武田の競竜用語を交えた独特な言い回しに、岡部も笑顔を見せた。
武田は、残った茶を飲み干すと席を立った。
「では何かあったら最上さん経由でも良いから私を頼ってきなさい」
武田はジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出すと、自分の名刺を取り出し岡部に差し出した。
岡部も席を立って両手で名刺を受け取った。
「その時はよろしくお願いします。その……色々と気にかけていただいて、ありがとうございます」
武田は笑いながら岡部の肩に手を置いた。
よく見ると目が笑っていない。
「気にかけないと君は、孤軍奮闘してるはずが暴走して、一人で無双を始めるからな。幕府の時のように!」
「あれはさすがにやりすぎたと反省しています」
岡部は後頭部を掻いて苦笑いしているが、武田はじっとりとして目で岡部を見ている。
「当たり前だ! 調教師になるんだろ? 開業したら部下ができるんだぞ! 君はもうやんちゃ小僧では済まないんだよ! 喧嘩をするにしても、もっと大人の方法を心がけねば!」
「もっと周りの政治力を使って」
「そういうことだ! 最上さんのやり方を学んではいかんということだ!」
うちの会長が今頃くしゃみしていると岡部が笑うと、武田は岡部の背中をパンパン叩いて笑い出した。
よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。