第24話 土肥
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
通された部屋の雨戸を開け部屋の空気の入れ替えをする。
窓から見えるのは広大な駿河湾と土肥の町並み。
古い町並みに溶け込むような古い下宿の二階、そこの角部屋が岡部に宛がわれた部屋であった。
畳張り八畳の部屋には何も無く、新たな主の唯一の持ち物である鞄だけが存在を主張している。
その少し大きめの鞄を開け服を押入れの衣紋掛けに掛ける。
布団と座布団を外に干し叩きで叩く。
押入れの戸は開けたままで一緒に換気をする。
掃除機とはたきと雑巾を借り部屋を軽く掃除した。
外から入る風は木枯らしのように冷たいが、強く磯の香がする。
故郷の風の匂いに似ていて懐かしさを覚える。
磯の香は忘れかけていた空腹を思い出させた。
時計を見るともうすぐ昼食の時間であった。
掃除用具を返却し、岡部は手を洗って外に出かけた。
繁華街へと向かうと岡部は一件の定食屋の前で足を止めた。
『定食屋 やぎ』と書かれたその店は、外観は非常にくたびれており、明らかに岡部よりも年上という風である。
中に入ると入口右奥の席に通された。
粗末な丸椅子に腰かけると、注文を聞きにおばさんがやって来る。
岡部は海鮮でお薦めは何かと尋ねた。
うちの目玉は土肥港で朝上がった魚を使った海鮮丼だよと、おばさんは自信たっぷりに言って笑みを浮かべた。
運ばれてきた海鮮丼は、マグロ、カツオを中心に、イカ、アジ、キンメの刺身が盛ってある。
上には卵黄と赤エビが添えてある。
それにあら汁の味噌汁とお新香が付いている。
マグロ以外は油の乗りが良く実に美味だった。
少し町を散策し、小さ目の保冷箱、数本の缶麦酒、魚屋で練り物と乾き物を買って下宿に戻ってきた。
「もしかして調教師候補の方?」
一人の男性が岡部を見て近づいてきた。
背はあまり高い方では無く髪は短く細身。
顔はかなり整っていて好青年という印象を受ける。
肌はかなり陽に焼けている。
岡部が自己紹介するとその男性も自己紹介を始めた。
名前は松井宗一、年齢は三一。
福原の森厩舎で厩務員をしながら調教助手をしていたのだとか。
「同期開業は一生ものだって聞くからね。これからよろしくね」
松井は岡部の手を強引に取り握手した。
にこりと微笑む顔が実に爽やかである。
「ところでお腹空いたんだけどさ。食堂、誰もいないんだよね。何か聞いてる?」
「学校開始と一緒だから明日からなんだって。僕も今、外で食べて来た」
「うわ、そうなんだ。じゃあ俺もちょっと行ってくるわ」
一旦外に出た松井だったが、数歩も歩かないうちに戻ってきた。
下宿の入口から顔だけ出してにこにこ笑っている。
「岡部さんさ、これはいける?」
松井はお猪口を空ける仕草をする。
岡部は笑いながらいけると返した。
「じゃあ、夜、親睦会やろうよ!」
一人では食堂で新聞を見るか番組視るくらいしかやる事がない。
競技新聞で競竜の項を見てみると、専ら伊級の事ばかり記載している。
呂級は驚くほど扱いが小さい。
西国では、伊級の無いこの時期は呂級の『金杯』の記事が紙面を賑わせているのに。
球技の項を見ても幕府の球団の事ばかりが記載されていて、それ以外の記事は極めて小さい。
駿豆郡に拠点を置く球団だってあるだろうに。
ずいぶんと西国とは文化が違うというのが最初の印象だった。
「おお!! ホンマにおる! 岡部さんや!」
声のする方に視線を移すと一人の男性が嬉しそうな顔でこちらを見ている。
最初、松井が帰って来たのかと思ったのだが別人だった。
岡部よりも少し年上だろうか。
背は岡部と大差無く、顔は非常にやんちゃそう。
髪は少し長めで襟足が長い。
一見すると非常に軽薄そうにも見える。
どこかで見た事があるような気もするが、残念ながら思い出せない。
「いやあ、ほんまに岡部さんと同期になれるとか!」
一人興奮気味の男性に対し、岡部はかなり戸惑って、あのと口ごもっている。
「あ、そうか。僕、武田信英言います。オトンから聞いてへんかな? 挨拶した言うてたんやけどなあ」
「あ! もしかして前に武田先生の言ってた僕の同期になる厩務員って」
「そうです! 僕です! 武田信宏は僕のオトンですわ」
憧れた人が目の前にいると武田は大はしゃぎしている。
「今日、稲妻の下宿の同期と軽く親睦会するんやけど、岡部さんも来ませんか?」
「僕もう先約があるんですよね。さっきこの下宿の同期の人と約束しちゃって」
「そんなら合同でやりましょうや! 同じ同期なんやから。僕、向こうにも言うてきますわ。後で迎え来ますんで」
そう言うと武田は舞うような足取りで去っていった。
夕方、下宿に武田がやってきた。
松井と岡部は武田に案内され『升吉』という名前の居酒屋に入った。
武田が案内した先には、既に二名の調教師候補が待っていた。
人数を先に聞いていた二人は、人数分の麦酒と肴を用意してくれていた。
「おおい、こっちだ! もう酒来てるから早く始めようぜ!」
一人の男が、そう言って岡部たちをせかす。
五人は乾杯すると無言でぐっと呑んだ。
ほぼ同時にぷはっと大きく息を吐く。
先ほど岡部たちに合図した男性が、まずは自己紹介をしようと言いだした。
その男性は『白詰会』の大須賀忠吉。
中背だが少し恰幅が良く、中年男性という感じの風貌である。
髪が癖毛で、横を短く刈っている。
顔が面長のせいか全体的にかなり頭部が長く見える。
五人の中では最年長。
次に自己紹介したのは松井で、『樹氷会』の所属ということだった。
三人目が先に来ていたもう一人の男性で、『黄菊会』の松本康輔。
五人の中で最も背が高く、かなり色白。
髪は短髪で丸顔。
松井と同じ歳らしい。
四人目に武田が紹介し、岡部は最後だった。
「岡部さんってずいぶん若く見えるけど、今いくつ?」
最年長の大須賀が岡部に興味を示した。
「二五になります」
「うお! それは若いなあ。俺と十以上違うのか。俺これが普通か、若い方だって聞いてたけど、まさかの最年長だもんな」
大須賀が笑い出すと、松本は大須賀を指さしておっちゃんだと笑った。
それに対して大須賀は、お前はたいして変わらないじゃないかと指摘した。
「岡部さんは、皇都では知らん人のおらん有名人なんやで」
武田は、キラキラした目で年下の岡部を見ている。
だが、どうやら大須賀と松本はそんな話は聞いた事がないらしく、顔を見合わせ首を傾げている。
「そうなんだね。俺と松本君はずっと霞ヶ浦だったからね、西国の事はちょっとわかんないな」
大須賀が水を差さないように言葉を選んで言うと、松本もそうだねと同調し苦笑いした。
「俺は福原だったんだけど、岡部さんの名前は漏れ聞こえてきてたよ」
だから東国と西国の差だろうと松井は笑った。
だが、岡部はどこの部分が有名なのかわからず、ずっと照れている。
「『サケセキラン』いう竜の厩務員で有名やけど、それ以外にもね」
武田が竜の名前を出すと、大須賀はかなり驚いて目を丸くした。
「その名前知ってるよ! 『雷神』だよね! とんでもなくぬいぐるみが売れたって新聞で見たよ!」
だが松本は、新聞は竜柱くらいしか見ないからちょっとわからないと笑い出した。
「僕はずっと調教師になるの迷ってたんやけど、岡部さんがなる言うから決心したんやで」
「へえ、熱いねえ! 俺も嫌いじゃないべや、そういうの」
大須賀は嬉しそうな顔をして、武田の器に麦酒を注ぎ、自分の器をカチリと合わせた。
「だけどさ、これから俺たちは多くの厩務員の人生を背負う事になるんだよ? そんな意思の弱いことでやっていけるの?」
松本が麦酒をくいっと呑んで武田をからかった。
それまで嬉しそうに呑んでいた武田は、少し消沈したような顔をし麦酒に口を付けた。
「さっきの話からだけじゃ意思が弱いかどうかはわからんでしょうよ。単なるきっかけの話なんだからさ。良い話じゃない。俺もちょっとそういうの羨ましいなって感じたよ?」
松井が、だよなと大須賀に同意を求めてから、武田の顔を見て微笑んだ。
武田はまた嬉しそうな顔に変わり、松井の顔を見て微笑んだ。
「噂で聞いたんだけどさ。今回、個別申請は最初一枠だったんだってね」
場がしっぽりし始めたところで、大須賀が話題を切り出した。
「ああ、それ俺も聞いたなあ。『日章会』が人出せなかったから枠が増えたって」
松本が大須賀の話に乗って麦酒を注いだ。
「俺は普通に合格来たから、とすると岡部さんが増えた枠の分なのかな?」
松井が確認するように岡部の顔を見る。
「ですね。僕のとこ、最初ぺらっぺらの封書が来て」
岡部がそこまで言うと、四人はどっと笑いだした。
落ちると封書ってそんななんだなと松本が一際笑っている。
「うちの先生もそれ見て、すぐに落ちたって言いだしたんですけどね、中見たら後日合否の封書を送りますって」
「それだけ書かれた封書が来たの?」
大須賀が空になった岡部の器に麦酒を注いで尋ねた。
「です。最初意味わかんなくて。先生が学校に問い合わせてくれて。で、補欠合格だって」
再度四人はどっと笑い出した。
「補欠とかあるんだね。初めて聞いたよ」
大須賀は腹を抱えて笑っている。
「いやあ、さんざん、周りにも笑われましたよ」
岡部も麦酒を呑んで大笑いしている。
「そやけども、あの試験を半年の勉強だけで受かるんやから。それは凄いことや思うよ」
武田がそう言うと、三人はシンと静まった。
大須賀が武田に、どういう事と聞き返す。
「岡部さん、皇都に来て厩務員始めたのが一昨年の夏で、僕が厩務員になるらしいって聞いたの去年の初夏やで?」
武田の説明に大須賀は言葉を失い、ただただ岡部の顔をじっと見ている。
「最低一年以上の現職の経験が受験条件ってなってるけど、本当にそれで受ける人なんているんだね」
松本は感嘆を通り越し驚愕の表情をしている。
岡部は謙遜し、まだ厩務員試験の内容覚えてたからと照れた。
「いやいや。だとしてもだよ。半年って。俺なんて一昨年一年勉強したけど、無事落ちたからね」
松井が憮然とした顔で言うと場はどっと湧いた。
「僕も参考書枕に何度寝たことやら」
武田がおちゃらけると、睡眠学習はダメだろうと大須賀が笑った。
「それを岡部さん、戸川先生の補助で幕府行ったりとかして受かるんやもん」
武田の言葉に大須賀が、戸川先生ってどっかで名前聞いたと複雑な顔をした。
「え? 戸川先生ってあの戸川先生?」
松井が驚いて武田の顔を見る。
「あの言われても、どのかわからへんよ」
武田はそう言って笑い出した。
「いやいや。福原だったら知らん人はいないよ。『どんな凡竜も名竜に化かす』って言われた名伯楽だよ」
へえ、あの戸川先生のと、松井は岡部の顔をまじまじと見た。
岡部は、義父は義父、僕は僕だと真顔で松井に返す。
僕は仁級で音をあげるポンコツかもしれないと苦笑いした。
それを聞いた大須賀が、緩んでいた顔を引き締めて岡部を見た。
「たった五人だけの同期だぞ! 簡単には音をあげさせてもらえると思わないことだ!」
大須賀がそう言って右手を差し出す、四人、各々その手の上に自分の手を乗せた。
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