第16話 いろは
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の新人調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川佐経…尼子会の調教師(呂級)
・南条元春…赤根会の調教師(呂級)
・相良頼清…山桜会の調教師(呂級)
・井戸弘司…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・大森…幕府競竜場の事務長
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
翌日、『サケセキフウ』が幕府に輸送されてきた。
『セキラン』の時と違いこれといった問題は発生せず、ただ場所が皇都から幕府に移っただけという感じである。
櫛橋は前回の岡部を見ており実に手際よく手配を済ませた。
牧も輸送後の状況を確認するように『セキフウ』を調教場でゆったりと走らせた。
午後になると竜柱が発表になった。
『サケセキフウ』は四枠七番、予想人気は三番人気。
三浦の『サケヨウテイ』は七枠十三番、予想人気は九番人気。
また、『皇后杯』の『サケゲンジョウ』は二枠四番、予想人気は五番人気。
「うちのは結構外に行ったなあ」
竜柱を見て、清水主任が少し憮然とした顔をする。
「『ヨウテイ』は後ろから行く竜だから、内で揉まれるよりは良いんじゃないかな」
そんな清水に高城が能天気に笑いかける。
「『セキフウ』は良い枠引いたなあ。絶好枠じゃん!」
「この石野経吾って騎手は聞いたことないけど、どうなんだろうね?」
清水と高城の話題は『セキフウ』に移った。
長距離は騎手で買えという格言があると高城が指摘すると、櫛橋と牧は少し渋い顔をした。
「これまでの感じなら、うちのがいつも通り直線でしっかり伸びてくれれば『セキフウ』は捕えられる気がするんだけどね」
「でも『セキフウ』も切れるからなあ」
高城と清水は二人で言いたい放題言っている。
三浦も岡部と、やはり『マンジュシャゲ』だろうか、いやいや『タケノダイコク』も気配が良さそうなどと言い合っている。
「松下さん、『セキフウ』には乗ってくれへんかったんやね……」
櫛橋はかなりガッカリした声を発した。
実は櫛橋たちが参加した会議ではまだ騎手は未定となっていた。
幕府に到着して皇都に連絡を入れた際、戸川から騎手は石野騎手にしたと報告を受けたのだった。
「『ゲンジョウ』が会長の竜だからって事で、向こうに乗ってもらったらしいですね」
「先生は『ゲンジョウ』の方が期待できるって思うてるんやろか?」
石野騎手は吉川厩舎の契約騎手である。
吉川厩舎は開業から松田元明という騎手を専属としていた。
だが松田騎手は疲労が溜まりやすい体質で、何年か前に引退して調教助手となった。
その代わりに契約したのが石野経吾騎手である。
「石野騎手だって、ずっと吉川先生のとこで乗ってる騎手ですから腕は確かですよ?」
「そうは言うても、テン乗り(=初めての騎乗)で長距離って。何か納得いかへんわあ」
「一応、先月調教で一回乗ってもらってますけどね……」
岡部も必死に説得するが、そもそも岡部も内心同意見であり、櫛橋の不満は解消されなかった。
そんな櫛橋を三浦が笑った。
「櫛橋さん。両場開催だと、そういうことが起るもんだよ。好調な厩舎の贅沢な悩みってやつだ」
「贅沢ですか……」
「そりゃあそうだろう。うちの喜入は、どっちに乗った方が良い賞金貰えそうかなんて選択肢がそもそも無いんだから」
三浦の慰めはそれなりに櫛橋に響いたらしく、少しは納得がいったらしい。
だがその横で引き合いに出された喜入が、かなり引きつった顔をしている。
翌日の夜、大宿でいろはと遭遇した。
いろはは岡部を見ると、会員の方の食事会が終わったら酒場に行くから来てくれと言い残し去って行った。
食事が終わると牧と温泉に入り、酒場に向かった。
ゆっくりと一人で麦酒を呑んでいると、いろはが現れた。
いろはは果実焼酎を注文すると、岡部と器をカチリと合わせる。
「今回『セキフウ』はどう? 結構やれそう?」
「キレは良いんですが長くは続きませんからね。前走みたいに上手く抜け出せれば良いんですけど」
いろはも果実焼酎をちびりと呑みはじめる。
いろはは最上の長女で、元は大宿の仲居をしていたのだそうだ。
夫の志村は、当時本社の経理課に勤務しており、宿泊に来た際に知り合ったらしい。
ある時、雷雲会と紅葉会が『会員竜主』という制度を始めた。
儲かるし竜の処分も少なくできると話題になり、『紅花会』でも『紅花競竜会』という会社を立ち上げる事になった。
完全に競竜に特化した会社であるから、親族から誰かと代表者を探していた所、いろはに白羽の矢が立ったのだそうだ。
竜は生産監査会に登録する際、竜主は個人名で登録する規則になっている。
企業で所有する場合でも、その代表者の名前を併記して登録すると規約で定められている。
その為、この『会員竜主』の制度は規約に抵触するのではないかと、竜主会でもかなり議論になった。
個人がどのような商売をしようと会派に所属していれば問題にしない事になっているという意見が出て、合法という事に落ち着いたのだそうだ。
「こんなこと言うと不快に思われるかもしれないんだけど、うちはね、必ずしも勝てなくても良いの。会員の方が熱狂できればそれで」
「だとすると、『ホウセイ』の『金杯』なんかは最良だったって事ですか?」
今年の金杯は最後五頭が横一線の状態で終着し、写真判定のまま中々着順が表示されず、観客は大盛り上がりであった。
「そうね。勝てれば満点。でも熱狂できるだけでも高得点って事ね。必ずしも上位の着にはこだわらないのよ」
「面白い価値観なんですね。仁級や八級もそんな感じなんですか?」
「そうよ。調教師になってもこのこと忘れないでね。勝てなくても熱狂できる競走をさせてね」
そういえば試験そろそろじゃなかったと聞くいろはに、実は来週だと岡部は苦笑いをした。
随分余裕があるじゃないと、いろはは大笑いであった。
「今年の新竜は三浦先生の方ですよね?」
「そうね、二頭とも三浦先生ね。本当は『タイセイ』が欲しかったんだけどね。父さんに取られちゃって」
岡部は少し後ろめたいものを感じた。
いろははその顔を見逃さない。
「だけど、父さんの方が早くあなたを見出したんだから悔しいけど仕方ないよね」
自分の竜が勝てないからってなりふり構わないようになったと、いろはは悪態をついた。
岡部も思わず苦笑いである。
「そういえば話は変わるんですけど、会員っていうのはどうやって募るものなんですか?」
どうやら岡部の質問は、いろはにとって頭痛の種だったらしい。
酒を口にして大きくため息をついた。
「色々手を尽くしているのよ。競竜関係の雑誌に広告入れたり、電脳で公式の紹介場作ったり。だけど中々厳しい状況でね……」
「じゃあ結構、宣伝費かけなきゃなんですね」
「あまり大きな声では言えないけど、宣伝費は支出の結構な割合だったりしてるのよ」
いろはは困り顔をして焼酎をくっと呑む。
息を細く吐くと、お替りを注文した。
「稲妻さんの系列や、紅葉さんの競竜会みたいに、黙ってても会員が来てくれるとことは違うからね」
「……やっぱり伊級ですか」
「究極を言っちゃうとそれなんだけどね。もう会報の厚さがすでに段違いだから」
そもそも調教師の数が全然違う。
牧場は調教師の数に生産数を合わせているから、生産規模も全然違ってくる。
当然、自然と募集する竜の頭数も違ってくる。
「それで、こうして会員を宿にお招きして、厚遇で評判を得て他と差別化してると」
「悔しいけど、そんなのは稲妻さんたちも普通にやってるのよ」
稲妻牧場系では『雷鳴会』が宿泊業を行っている。
それを真似て『紅葉会』『双竜会』『清流会』も宿泊業に手を出している。
「でも、うちは宿の質には定評があるって聞きますけど?」
「それはそう。だけど母さんも歳だからね。いつまでそれを維持できるか。だからそろそろ次をね」
「宿って誰が後継候補なんですか?」
「これと言っていないそうなのよ。だから母さん、あなたに粉かけてるんじゃない」
いろはは岡部の背中を叩き、あははと笑いだした。
いつも笑って誤魔化しているが、確かに最上の妻は、岡部の顔を見るたびに勧誘をかけてきている。
「本当は京香に宿継がせて、光定に競竜会を継がせたかったんだけどね」
「京香さんは営業仕事合ってそうですよね。光定さんは面識が無いですけど」
岡部もそこまで京香と面識があるわけでは無い。
あくまで上巳賞の祝賀会の印象の話である。
「光定は事務やってるから、あまり表には出てこないのよ。会報作ったり会員管理したり」
いろはの口から自然と『会報』という単語が出て、岡部は極めて自然な形で『会報』の話に話題を移していった。
「じゃあ、あの真面目一本槍って感じの会報は、光定さんの趣向なんですね」
「趣向というか、あれ以外思いつかないんでしょ。専門の意匠屋雇う余裕も無いから」
「毎月届きますけど、正直なところを言うと、うちの厩務員が会報を見てるとこ見た事ないんですよね」
でしょうねと渋い顔をし、いろはは酒に口をつけて憤った。
「京香も言うんだけどね。あの会報、本当につまんないのよね。なんだか教科書見てるみたいで」
「僕らでも届くのが楽しみになるような物じゃなかったら、外部の方は余計ですよね」
「確かにね。まずは気になって手に取ってもらわない事には、いくら外に宣伝費かけてもよね」
お客様は多くの会員制の競竜会を見比べて、その中から一つを選ぶのだから、比べる媒体に何かしら『売り』が無ければ選択肢から落ちてしまう。
岡部は麦酒を呑んで、そう指摘した。
「僕が感じるくらいですから、会員の方々もきっと……」
「聞くまでもないわ。岡部さんは、何か具体的な案があったりする?」
案なら一晩かけて指摘しても足りないくらいある。
それくらい今の会報の出来は酷いのだ。
「そうですねえ。例えば肝心の募集の所を、ただ写真と一言じゃなく、せめて級によって雰囲気を変えるとか」
「ああ。呂級だったら高級にみたいな」
「ですね。仁級は女性人気が高いそうですから、女子受けするような雰囲気にとか」
八級は玄人受けするそうだから、少し格好良い感じにすると良いかもしれない。
いろはは岡部の話を食い入るように聞いている。
「だけど、あの子に可愛くは絶対に無理なんだろうなあ……」
「色鉛筆調にするとか、絵本っぽくとか。後、全体的に可愛い挿絵を入れてみるとか」
「いや、言わんとしてる事はわかるのよ。そうねえ、帰ったら京香とちょっと口を挿んでみるかな」
いきなり良くはならないだろうけど、少しづつでも変えていかないと、今のままだといづれ先細ってしまうかもしれない。
そうなれば資金が不足して竜の預託にも影響がでてしまう。
預託に影響が出たら、調教師の先生の成績が落ち、辞めてしまう人が出るという悪循環に陥ってしまう。
貴重な意見ありがとうと、いろはは満面の笑みで岡部に握手を求めた。
「ですけど、僕面識も無いのにこんなに言ってしまって、光定さんの不興を買ったりしないですかね?」
「それで機嫌を損ねるようなら客商売がわかってないわ。母さんのとこで性根から鍛え直してもらうから安心して!」
「……それ全然安心できませんって」
よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。