第13話 進路
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の新人調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川佐経…尼子会の調教師(呂級)
・南条元春…赤根会の調教師(呂級)
・相良頼清…山桜会の調教師(呂級)
・井戸弘司…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・大森…幕府競竜場の事務長
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
八月に入ると避暑の為に北国に放牧していた竜たちが続々と帰ってくる。
どの竜も涼しい北国でたっぷりと英気を養ってきており、競争に出すにはかなり体重を絞らないとという感じである。
それと並行で新竜の調教も徐々に行われている。
長距離適正の高そうな『サケタイセイ』は、中距離の新竜戦が始まる十月までゆっくり調教を行う事となった。
新竜重賞には使わず『上巳賞』も見送り、条件戦を使って出せれば『瑞穂優駿』に挑戦。
条件戦の内容次第では『重陽賞』までじっくり育てる事になるだろう。
後脚に不安のある『サケサイヒョウ』は、毎日輪乗りを行い少しづつ走らせ始めている。
ただ走ると腰に熱が出て暫くは歩くのも嫌がる。
その為、走る度に櫛橋が念入りに腰周りを揉んでいる。
そのせいか『サイヒョウ』は櫛橋を非常に好んでおり、櫛橋が前を通る度に頭を乗り出してかまって欲しい態度を取っている。
その他の竜としては、来月の番組再開と同時に重賞へ挑戦する四頭の調教が本格化している。
一頭は、世代戦三冠の最後の一冠『重陽賞』に挑戦する六歳の『セキフウ』。
もう一頭は、短距離路線に路線変更し才能の開花した八歳の『ホウセイ』。
三頭目に、長距離職人十一歳の『ゲンキ』。
最後の一頭は、春『立春賞』で決勝に残りながらも脚部不安で放牧になった一二歳の『ゲンジョウ』。
『ホウセイ』は秋の短距離戦『天狼賞』に、『ゲンジョウ』は秋の大一番『皇后杯』に挑戦する。
『ゲンキ』は年末の『皇都大賞典』が最大の目標である。
八月初頭に長井は復帰しており、松下も太宰府から帰ってきており、調教は見習い二人から本職に交代している。
三冠のうち二冠を皇都の竜が制しており、最後の一冠『重陽賞』ももぎ取ってやろうと皇都競竜場は非常に活気づいている。
活気づいているのは厩舎関係者だけではない。
この時期になると報道も各厩舎へ頻繁に押しかけており、活気付けに一役買っている。
現在『重陽賞』の格付けは、東の横綱が『ロクモンアシュラ』、西の横綱が『瑞穂優駿』の勝ち竜『マンジュシャゲ』。
残念ながら『サケセキフウ』は前頭にも記載は無い。
「秋の格付けに『セキフウ』は記載無しかいな。あの能力戦、誰も見へんかったんかいな」
池田は新聞を見て少しご機嫌斜めである。
「まあ言うて能力戦やからな。そこで強い勝ち方したって、そういう竜が集まった予選でも、それができるかっていうたらな」
長井がそんな池田を宥めた。
だが池田は声を荒げたままである。
「長井さんは、競争見てへんからそう言えるんですわ。絶対決勝まで行ける思うんです」
「それが本当かどうかは、予選見たらはっきりするんと違うか?」
声は荒げていても、それなりに池田は冷静であるらしい。
決勝で勝てるでも良い勝負ができるでもなく、決勝まで行くのが限界だと分析しているらしい。
そんな池田に戸川は少し別の事を言った。
「この時期の番付なんて一番当てにならへんのやぞ? それに一喜一憂してどないすんねん」
どうやら岡部も同じ意見らしい。
岡部も池田の憤りを馬鹿馬鹿しいと嘲笑った。
「そうですよ。番組休止明け初戦ですし、その間三か月で育つ仔もいるでしょうし」
「そうやで。一年で一番前評判が外れる重賞やで? その番付見て憤って。しょうもない」
「現状では優駿までの情報しかないんですから。予選見なきゃ何もわからないですよ」
岡部も戸川もかなり冷静に現状を分析している。
二人に窘められ少しバツが悪そうにする池田を、櫛橋がクスクス笑っている。
「そんな事より『重陽賞』は幕府やからな。『ゲンジョウ』と『セキフウ』どっちも決勝行ったら、誰か向こう行ってもらわなあかんようになるな」
また頭の痛い事態になりそうだと戸川は軽くため息をついた。
「あれ? 『ゲンジョウ』は会長の竜ですよね? 会長幕府で中継視るでしょうし問題無いんじゃ?」
「会長こっちで見るんやって。来年春で引退って言うてあるから、大きいとこは自分の目で見ときたいんやろ」
「なら僕が幕府行きますよ。気分転換になりますし」
「あかんよ! 試験来月やで? 落ちたら僕が会長にどやされかねんもん」
その姿が目に浮かぶようだと、池田と長井が顔を引きつらせている。
戸川は困り顔で一同を見渡してた。
「長井、こっちに残って会長の相手できるか?」
長井は無言で首を横にぶんぶん振った。
「そしたら池田は?」
「その日は体調が悪いんですわ」
「どうやったら、ひと月先の体調が今わかんねん!」
そんな間抜けなやり取りをケラケラ笑いながら聞いていた櫛橋が不思議そうな顔をした。
「先生が向こうに行って、こっち岡部さんに対応してもらったら良えん違いますか? それやと何かまずいんですか?」
「いや、それは最初に考えたんやけどね。試験受かったら来年から綱一郎君はおらんくなんねん。それを考えるとなあ」
櫛橋は指を唇に当て少し思案した。
「そうや! 私が幕府行って牧さんに随行してもらうんはどうでしょう? 池田さんよりはへたれやないと思うんですけど? 竜も乗れますし」
へたれと言われ、池田はかなりショックを受けた顔をしている。
「そうやな。ちょっと牧に打診してみようか」
岡部が呼んできますと言って会議室を出て行った。
「話はわかったんですけど何で僕なんでしょう?。年齢的にいうたら、荒木さんの方が適任やと思うんですけど」
戸川はこめかみを指で掻いている。
その表情は少し言いづらそうな事を言おうとしている顔である。
「荒木は……その……まだ会長の覚えが良くないねん。それに幕府で何も無いとは限らへんしな」
戸川の説明を聞き、今度は櫛橋が渋い顔をした。
牧はそんな櫛橋の表情を見て、櫛橋と二人だけでは不安だと感じた。
「なるほど。そういえば岡部君、幕府で色々ありましたもんね」
「どっちにしてもや、今年はここくらいやから頼むわ」
「ここだけやったら、それこそ岡部君に監督で付いてきて欲しいですわ」
そう言われ、戸川は岡部の顔を渋い顔で見ている。
牧と櫛橋が岡部を見ると、岡部は笑顔で首を縦に振っていた。
「まあ、どっちも決勝まで行くことが前提の話やからな。そうなるとは限らへんのやし」
その日の夜。
戸川家でちょっとした問題が発生した。
普段客間で戸川と岡部が晩酌をしている時は、奥さんと梨奈は食卓で夕飯を食べている。
ところがこの日、その客間に奥さんと梨奈が話があると言って入って来たのだった。
「どないしたん? 酌しに来てくれたんか? すまんなあ」
苛ついている奥さんの隣で梨奈が黙って俯いていて、酌をしに来たわけでは無い事は明らかった。
岡部は黙って肴をつまんで麦酒を呑んでいる。
「梨奈ちゃんが言わへんのやったら私が言うわ。この子、まだ進路決めてへんのよ!」
奥さんの報告に戸川はまず驚き、その後で怒りを覚えたらしい。
持っていた箸を机にパチンと音を立てて置いた。
「はあ? まだって。もう八月やぞ? ちょっとしたら受験やろ?」
「大学受けるかどうかすらも決めてへんのやって!」
「何を悠長な事やっとんねん!」
実はこの世界は、岡部がいた元の世界と大きく異なる点がある。
それは新年度の開始が一月という事なのだ。
元の世界では四月であった。
それを梨奈に言ったところ、梨奈は四月に何があるのと逆に聞いてきたくらいだった。
それくらいこの世界では何もかもが一月開始なのだ。
梨奈は、思った以上の戸川の冷たい言葉に少し心が挫け始めている。
それを察した岡部が口を挿んだ。
「どっちも上手くやっていける自信がないって事なのかな?」
優しく問いかける岡部に梨奈は俯いたまま頷く。
戸川と奥さんは、その態度にため息をついた。
「いや……自信とかそういうんやないやんか……」
戸川はかなり呆れた顔をしている。
「ほな、どんな仕事したいとかあんのんか?」
「できればあまり人と関わらんと一人でコツコツやれる仕事……」
「内職やないかい! そいで、何の業種とかも無いんかいな! アホか!」
戸川は絶望感に打ちひしがれ手で目を押さえている。
岡部が戸川よりは優しく、得意な事とか部活はと尋ねた。
「部活は帰宅部。絵描くんがちょっと得意……」
か細い声で梨奈は呟き耳を赤く染める。
少し笑顔が引きつる岡部に、梨奈は泣きそうな顔になっている。
「それやったら何で美術部入って美術の学校目指さへんかったんや。まったく……」
戸川の憤りを無視し、岡部は絵を見せて欲しいと優しくお願いした。
梨奈は自分の部屋に行くと写生帳を持って戻ってきた。
羞恥心全開の梨奈に手渡された写生帳には、可愛らしい絵が何点か書かれていた。
子供用の人形のような絵、いわゆる簡易絵というやつだろう。
「僕はこういうのよくわからへんのやけど、こんなんが仕事になるもんなんやろうか?」
戸川が岡部の横に来て写生帳を覗き見ると、難しい顔をして岡部に問いかけた。
「僕も正直言ってこれが上手いのかどうかがわかりません」
岡部はいくつかの絵の中に『セキラン』の簡易絵を見つけた。
その絵はぱっと見で『セキラン』だとわかるような、実に上手く特徴を捉えたものであった。
「ねえ梨奈ちゃん、この『セキラン』だけど、もっと別の体勢で描けるの?」
梨奈は、ちょっと色鉛筆持ってくると言って部屋に行き、戻ってくると客間でさらさらと絵を描き始めた。
その間、奥さんも戸川から麦酒の瓶を奪って呑み始めた。
暫くの間、三人は肴をつまみながら麦酒を呑んで、梨奈が絵を描くところを見ている。
どうやら一つだけじゃなく何点もの絵を描いているらしい。
これが何の仕事になると思うのと、奥さんも岡部に問いかける。
岡部はまだ何ともと言って麦酒を呑んだ。
梨奈がこんな感じでどうと見せた絵は、非常に女の子らしい子供受けしそうな絵だった。
岡部は絵をじっくりと見て小さく何度か頷いた。
これならもしかしたら何とかできるかもしれないと感じている。
「じゃあさ。今度は仁級の竜を同じ感じで描いてみてよ」
梨奈はわかったと言って、また同じように描き始めた。
その間また三人は麦酒を呑み始める。
「ああ。綱一郎君の考えがわかった気するわ」
描いている絵を見ながら、戸川にもぼんやりと何かがわかったようで、何か納得したような顔をしている。
「僕らのコネで梨奈ちゃんが仕事するならこれかなあと……」
梨奈は岡部の言葉に首を傾げている。
そんな梨奈を他所に、戸川は麦酒を呑み、確かにそれならコネが使えるかもしれんと頷いている。
「会報かあ。いろはさんに話してみるかなあ」
「僕からもしてみますよ。ただ、いづれにしても、こういう関係の学校には行った方が良いとは思いますけどね」
「確かにそうやな。梨奈ちゃんどうやろう?」
梨奈は、これでお仕事になるならと、意匠系の専門学校への進学を決めた。
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