第10話 調教
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の新人調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川佐経…尼子会の調教師(呂級)
・南条元春…赤根会の調教師(呂級)
・相良頼清…山桜会の調教師(呂級)
・井戸弘司…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・大森…幕府競竜場の事務長
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
「やあ岡部君、久しぶりだね。願書見たよ。調教師試験、受験するんだね」
月が替わると日野が皇都競竜場に研修監督として現れた。
「お久しぶりです日野さん。今回は研修生多いから結構こっち長めの滞在ですよね」
「そうだね。今月はずっとこっちにいるから、どっかで一緒に呑みに行こうよ!」
わざわざこうして戸川厩舎に顔を出しに来てくれるあたり、やはり同期の絆という事なのだろう。
戸川は日野を見ると頬を緩ませた。
「君は口を開けば呑みに行く話やな」
ブレない奴だなあと戸川は少し呆れ気味である。
「またあ、そんな事言って。戸川くんだって嫌いじゃないでしょ? 行こうよ!」
日野は戸川の肩に手を回すと猫なで声で戸川を誘う。
「まあ、今回はうちの厩務員の為にわざわざ来てもらってるんやしな。僕も付き合うよ」
「じゃあ毎晩行こうよ!」
「アホか! かみさんにどやされるわ!」
冗談冗談と日野は戸川の背中をパンパン叩いて喜んでいる。
……絶対本気だったはずだ。
「ところで岡部君、受験勉強は進んでるの?」
日野が戸川から離れ接客長椅子に腰かける。
「一通り資料読み込んで、今は最初から少しづつ覚えてる感じですね」
「そっか。まあこの時期からしたら、少し遅れ気味ってとこかな?」
「今月と来月で追い込むつもりでいます」
実際、作業机には能島が置いて行った調教師試験の参考書が置かれており、いつもここで試験勉強をしているだろう事が察せられる。
そこまで聞くと戸川が一番気にしている事を尋ねた。
「今年、一枠しかないって聞いたんやけどホンマなん?」
試験なのだから、その情報は本来は極秘事項である。
その為、日野もここだけの話にしてくれと言って小声で話した。
「そうだね。今のところは一枠しかない。だけど、もしかしたら二枠になるかもしれない」
「という事は、まだ申請の無い会派があるいう事か」
「想像にお任せするよ。極秘事項なんだから絶対にここだけで留めてよ?」
間違っても俺に聞いた何て言わないでよと日野は笑い出した。
「で、応募は今なんぼくらいやの?」
「それこそ極秘事項だよ。それだけはここだけの話でも言えないね。ただ、そこまで多くは無いとだけ言っておくよ」
荒木と牧は調教資格を取得する為、午前は座学、午後に実技という一週間を送った。
既に厩務員資格を持っているので座学は一日だけで、実技に重点が置かれている。
調教資格の研修が終わり翌週に、落竜以降ずっと入院していた長井が退院して顔を出した。
「先生、お久しぶりです。やっと退院の許可がでましたよ!」
「おお! 長井やないか! 本物か? 足はあんのか?」
「どういう意味ですか! あの程度では昇天せえへんですわ」
二人のやりとりにくすくす笑いながら、岡部は珈琲を淹れて長井に差し出した。
「岡部君にも心配かけたね。ん? 君がこの時間にここにおるいう事は今日は調教は無しなん?」
戸川は岡部を見てニヤリとすると真剣な顔を長井に向けた。
「今週から新しい調教助手を二人増やしてな。さっきその二人に追わせたとこなんや」
「え? 僕てっきり岡部君がやってるもんやと……」
長井は明らかに焦った顔をして戸川と岡部の顔を交互に見ている。
「まあ戻って来れるかわからへんかったしなあ。そら僕としては手を打っとかんと」
「いやいやいや。僕そんなやないって、お見舞い来た時何遍も言いましたやん」
必至な表情の長井を見て、そろそろ終わったって報告に来るんじゃないですかと岡部もからかった。
戸川も笑ってしまわないように必死に真面目な顔を作っている。
「僕より若いやつですか?」
長井は悲壮な表情で戸川を見ている。
「お前より年寄り雇う意味がどこにあんねん!」
ちょうどそこに二人が調教後の後作業を終えて戻ってきた。
調教無事終わりましたと荒木が報告にやって来た。
「え? 荒木?」
調教いかがでしたでしょうと次いで牧が戸川に尋ねた。
「ん? 牧?」
二人は長井を見ると、お久しぶりですと挨拶した。
「え? 調教助手見習いって君らなん?」
戸川は二人にご苦労様と労った。
「最初やからしゃあ無いけど動きが硬いな。暫くは乗ってもらわなあかんから、補習やと思って気楽に乗ったらええよ」
初めての調教を終え、二人は嬉しそうな顔で戸川を見ている。
「そういう事ですから、長井さんはゆっくり静養してもろて」
牧のその言葉に長井が過剰な反応をする。
「一日も早く戻ってきたる! お前らに調教助手の椅子は渡さへんからな!」
牧は、それまで戸川と岡部が長井をからかっていたのを知らないので、突然気分を害されてかなり戸惑っている。
「一体何を興奮してるんですか? 怪我に障りますよ」
「やかましいわ! 今はもう回復訓練中や! 怪我はもう良えんや!」
牧が戸惑っている横で、荒木は岡部に何があったのか尋ねた。
岡部が小声で事情を説明すると、荒木も悪い顔をして長井の腕をパンと叩いた。
「これからは『若い』うちらがやりますんで、長井さんは心配せんとゆっくり養生してもろて」
「荒木! てめえは大して齢変わらへんやないかい! お前ら帰ったらしごいたるからな! 覚悟せいよ!」
岡部と戸川は笑い過ぎてお腹が痛くなってきている。
戸川がしごくだけの体力つけなおさないとと指摘すると、長井は心底悔しそうな顔をした。
荒木と牧が休憩に行くと戸川も珈琲を飲んだ。
「何があったんです? 突然、調教資格やなんて」
「お前が事故って何や思うところがあったらしいよ」
戸川は珈琲をずずと飲むと、事務室の出口から竜舎の方を見つめた。
「そやけど、よう決心したもんやね。年齢的に一から乗り始めようやなんて厳しかったやろうに」
「綱一郎君が、一月つきっきりでしごいたんやで」
岡部も珈琲を飲みながら、二人の一か月間を長井に説明した。
「僕、君の訓練は絶対受けたないわ。学校でもそこまで厳しないで?」
長井は岡部を見て爆笑した。
ああ厳しくしたら脚元の弱い竜なら故障していると戸川も爆笑である。
「僕んとこにも、よう色んな先生が来たよ。うちのも一緒にしごいて欲しいって。荒木たちが終わったらうちのも頼む言うてきた先生もおったな」
全て丁重にお断りしたと戸川が言うと、四人で限界だからと全て断ったと言って岡部は笑い出した。
「しかし、ここんとこ調教資格とる厩務員なんて、なかなかおらへんかったいうに」
「おっさんが頑張ってるいうて火が付いたらしいよ。受験者うち入れて三八人やって」
「ほええ。ここ三年で岡部君だけやったのに。変われば変わるもんですねえ」
過去十年で見ても資格試験を受けた厩務員は十人に満たないらしい。
調教資格を取れば、厩務員でも調教師への道が開ける。
だが、これまでそういう話をされるのを面倒に思い、試験を受ける厩務員がいなかったのだそうだ。
「優駿も『マンジュシャゲ』が勝って、西国竜が二冠取ったからな。皇都全体の士気が上がっとんのかもな」
「病院で見てましたよ! あの『ロクモンアシュラ』をよう抑え込んだもんですわ」
「人伝手で聞いたんやけどな。新竜からずっと優駿だけを目標にしごきはったらしいで」
『サケセキラン』に対抗して風神と呼ばれた『ジョウイッセン』は、『セキラン』同様短距離しか適正が無いらしく『優駿』は回避した。
その為『上巳賞』三着だった『ロクモンアシュラ』が、断トツの一番人気であった。
『上巳賞』で最後の直線で伸びを欠いて沈んだ『マンジュシャゲ』は、『優駿』では思い切って逃げの戦術に出た。
先頭こそクレナイスイロに譲ったが、二番手追走のまま四角を回り見事粘り込んだのだった。
「少しは西国に良え竜が集まるようになるやもしれませんね」
「うちのも負けてへんぞ! 良え気配になってきたんやで」
「おお! 『セキフウ』ですか!」
『サケセキフウ』は、元々『セキラン』より走りそうと言われていた竜である。
ただ仕上がりが遅めで、あまり短い距離が得意そうではなさそうであった。
その為、岡部も最上に長い目で見るべきと進言したのだった。
「休止直前、長距離の能力戦勝ったんや。圧勝やで!」
「ほう! 上手く行ったら『大賞典』で『ゲンキ』と二頭出しですね!」
それはさすがに皮算用が過ぎると岡部は笑いだした。
だが戸川は、わからないぞと言って嬉しそうに岡部を見た。
「以前の話やと、今年の新竜も良え竜なんでしょ?」
「綱一郎君の見立てた竜やね。そやけど、長距離竜やから来年の『重陽賞』が本命やで?」
二年連続で世代戦に縁があるなんて、ついにうちの厩舎も伊級かと長井は笑い出した。
「はよ戻ってきて、また竜に乗りたいわあ」
「こっから十月まで四か月間は、綱一郎君には頼られへんから、しっかり治して戻って来い」
戸川の発破に長井はすこぶる嫌そうな顔をする。
どうやら先ほどのやり取りを思い出したらしい。
「ぐずぐずしてたら、ほんまにあいつらに席盗られてまう」
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