第9話 騎乗練習
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の新人調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川佐経…尼子会の調教師(呂級)
・南条元春…赤根会の調教師(呂級)
・相良頼清…山桜会の調教師(呂級)
・井戸弘司…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・大森…幕府競竜場の事務長
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
「荒木さん背筋を真っ直ぐに! 牧さん目線を落さない! へそにしっかり力を込めて!」
六月に入ってから荒木と牧の騎乗練習が始まっている。
朝飼が終わってから練習用の竜を用意して、途中休憩を何度もはさみ、二時間を目途に練習する予定だった。
後半になったら竜を増やして、時間も三十分に減らす予定である。
だが二人とも年齢がそこまで若いわけでもなく、特に荒木は長井よりは下という程度なので、とにかく動きが硬い。
初日は『常歩』すらおぼつかなかった。
このままでは確実に怪我をすると思った岡部は予定を変更。
三十分休み無しでみっちりと『常歩』をさせた。
ちょうど休み時間で、さらには番組休止期間ということもあり野次馬が結構現れた。
野次馬の中に吉川調教師がおり、午前の練習が終わるとうちのも頼めるかと聞いてきた。
午前の練習が終わると、垣屋が、竜は竜房に戻しておくからじっくり体を休めてくれと笑った。
荒木は腰が痛いと輪乗り場でうつ伏せになって唸っている。
そんな荒木の腰を庄が按摩している。
「完全に運動不足や。甘く見てたわ……」
牧はそう言って内股をさすっている。
そんな二人に岡部は非情な言葉を投げかけた。
「午後今のをもう一度やりましょう!」
牧と荒木が信じがたいという目で見ると、岡部の顔は極めて真剣であった。
翌日から吉川厩舎の繁沢と森脇という比較的若い厩務員が参加した。
この日も、ひたすら竜を『常歩』で歩かせた。
「荒木さん腰が曲がってきてます! 牧さん、下を見ない!」
岡部の言葉に両名が背筋を正す。
「繁沢さんも背筋真っ直ぐに! 森脇さん股をしっかり閉じて! 少し重心を後ろ目に! 皆さん、もっと先の方を見てください!」
三十分みっちりと『常歩』し午前の部が終わると、この日は坂崎が竜を片付けてくれた。
荒木は腰がと唸って動けず、花房が按摩してあげている。
二日目で早くも腰と内股が死んでると牧も悶絶している。
初日である吉川厩舎の二人も四つん這いになって腰がと呟き苦悶している。
「今日も湿布して寝よう……」
「牧は何枚張ってる?」
「僕三枚です。荒木さんは?」
「八枚……」
その日の午前の練習が終わると、別の厩舎の人たちが、うちも一緒に練習させてもいいかと聞いてきた。
どうやら、おっさん二人が頑張っているというのが心にくるものがあったらしい。
岡部はそんなに僕一人で見れませんと断ったのだが、見るのは自分の所の調教助手がやってくれるから、雰囲気だけ一緒にやりたいと言ってきた。
三日目にもなるとさすがに荒木も牧も慣れてきたようで、『常歩』の姿勢も綺麗になってきた。
姿勢が綺麗になると疲労も減るようで、特に疲れも無くこなせるようになっている。
四日目からは、途中休憩を入れ時間を倍に増やしたが特に問題は無かった。
五日目、さらに時間が倍になったが、それも四人は苦も無くこなした。
当初二人だけだった騎乗練習は気が付けば十二人の大所帯になっており、練習用の竜が全て出払うという事態になっている。
それでも最初に始めた戸川厩舎の二人と吉川厩舎の二人、岡部の計五頭分の竜は常に確保してくれているので、そこは非常に助かっている。
他の若い練習生が荒木たちを心配して声をかけてくれた。
「戸川さんとこ、結構、教官鬼やね」
「他所から見てもそう思う? うちらの限界を見極められてんねん」
「四人の限界ちゃんと見極めるとか、ごつい教官やな」
「調教計画立ててる人やから、うちらのこと竜やと思うてんちゃうやろか?」
翌週から、やっと『速歩』の練習に入った。
人で言う歩きからスキップに変わったようなもので、乗っている人への振動がかなり増える。
そのせいか、やはり初日は腰がとか内股がと悶絶していたものの、週の終りにはこれもなんとかこなせるようになっていた。
繁沢たちの進捗を見た吉川が腕を組んで感心している。
「たった二週で、ずいぶん乗れるようになるもんやな。あの二人が追えるようなったら、松田も楽になるやろなあ」
「そういう厩舎多いんですかね? ずいぶん練習生増えましたけど」
毎日のように、あっちの厩舎こっちの厩舎から人が集まって来て、気が付けば完全に竜の空き待ちになっており、日程表を作らないとなどと言い合っている状態である。
「そうらそうやろ。お前の時なんぞ乗れる厩務員が来た言うて話題になったくらいなんやから。そういえば聞いたぞ。調教師になるんやってな。どうや、うちで開業せえへんか?」
「それうちの会長に言ったら、尼子さんと大喧嘩になると思いますけど?」
岡部がじっとりした目で吉川を見つめると、吉川はそっと視線を反らした。
「うちの会長、心臓弱いからな。紅花さんに睨まれただけで死んでまうやろな」
三週目、いよいよ『駈歩』に入った。
人で言うジョギングのようなもので、『速歩』からはかなり速度が上がる。
その為、まずは安全な落竜から講義し練習。
それが終わると膝で座るような独特な騎乗姿勢を練習。
試験では『襲歩』という全速の歩様で走らせて、既定の時計以下で走れれば調教資格がもらえる。
午前の練習が終わると四人は痣だらけだと嘆いた。
ここに来て荒木はまた、腿が死ぬと悶絶している。
同時期に始めた人の中でも、若い人の中には『襲歩』に入っている人も出ていて、中には早くも研修申し込みをしている人が出ている。
あまりに申込が多いので来月にまとめて研修するので、参加者を集めてもらいたいという要請が競竜学校から来ている。
そうなると、これを機にとさらに練習生が増え、岡部の見ている四人以外は、竜の空き待ちがかなり深刻な状況となっている。
午後から本格的な『駈歩』の練習に入ったのだが、やはり四人共体感速度の速さに怯んでしまって、なかなか思ったような速度が出せない。
吉川厩舎の若い二人はそれでも徐々に慣れていったが、牧と荒木は中々そういうわけにはいかなかった。
荒木は思わず岡部に弱音を吐いた。
「僕だけ速さ出せへんから焦ってまうな」
「焦って落ちて怪我したら、ここまでの苦労がパアですよ? 回りに惑わされず自分の歩みで行きましょうよ」
「そやな。わかってはいるんやけどな」
荒木は大きくため息をついて調教場の草原に大の字で寝そべった。
「荒木さんは年齢が違うんだから、若手と比べる必要なんてないですよ。まだ二週間あるんですから。じっくり行きましょうよ」
岡部も荒木の隣の芝生に座り込んだ。
「それでも焦るわ。なんかコツみたいのないの?」
「そうですねえ。自転車と一緒で乗れちゃえば何て事ないんですけどね」
「つまり慣れるしかないいうことか。慣れる時間なんて人それぞれやもんな」
週の終りには、繁沢と森脇はすっかり『襲歩』ができるようになっており、荒木と牧に並走してくれるようにまでなっていた。
本来であれば二人はもう練習を終えても良いのだろうが、四週目もしっかり付き合ってくれた。
そのおかげか牧も徐々に速度が出せるようになり、火曜には自由に速度を調整して追えるようにまでなった。
木曜にはついに荒木も何かをつかんだようで、徐々に徐々に速度を出せるようになった。
そして予定の最終日、四人は既定の速度で襲歩で走らせることができた。
この日が最終日と聞いた厩務員たちで、調教場は人だかりができている。
全ての日程が終わると、厩務員たちから拍手が巻き起こった。
荒木と牧は感動で号泣している。
「岡部君、毎日、夜の麦酒が旨かったで!」
荒木が涙ながらに馬鹿な事を言うので岡部は噴き出して大笑いした。
「それ言ったら練習生もっと増えると思いますよ」
「なあ! 今日呑みに行こうや! 吉川さんとこのも一緒に」
「あ、いいですね! 打ち上げしに行きましょうよ!」
その日の打ち上げは、五人の予定が人数が増えに増え計三六人が参加する事になった。
参加者が口ぐちに言っていたのは、おっさん二人の頑張る姿に感動したという事だった。
体育会系の人が多い為、感動すると自分もやりたくなるという性質の人ばかりで、それを調教師も後押ししてくれたのだとか。
これで手当ても増えて万々歳だと誰かが言うと、試験受かってから言えと別の誰かが言い爆笑が起った。
岡部は荒木と牧に麦酒を注ぎながら、どういう経緯で調教資格取ろうとなったのか尋ねた。
「前にもちょっと言うたけど、牧が夜に取りたいってぽろっと言うたんが最初や」
「岡部君が落竜しても資格取ったん見て、僕も取ってみたいって思うたんよね」
二人が言っているのはもう一年も前の話である。
ずいぶんと腰が重いと岡部は大笑いしている。
「そこからずっと密かに思うてたんや。そしたら年始に池田さんが主任になって。それで火が付いた感じやね」
「牧がやるんやったら僕も付き合うたるって言うてたんや。それでも、ずっと取れたら良いねいう話だけやったんやけどね」
荒木も牧も瞳をキラキラと輝かせながら楽しそうに麦酒を飲んでいる。
そんな二人に岡部は麦酒を注いだ。
「岡部君が調教師試験受けるって聞いたから、そしたら僕らも今年の番組休止の時に相談しようって」
「そしたら先日のアレやろ? 他のやつらは知識で話できるけども、うちらはそうやないから。早々に武器を手に入れなってなってな」
これで櫛橋や池田さんたちにも気後れしないで済むと二人は実に嬉しそうである。
研修と試験も頑張ってくださいねと言って、岡部は麦酒をまた二人に注いだ。
「今回のは僕もかなり励みになりましたよ」
岡部も微笑んで麦酒をぐっと呑んだ。
「岡部君も頑張ってな!」
「一枠、ちゃんと勝ち取ってくれな!」
二人は岡部の背中をパンパン叩いて麦酒を岡部の器に注いだ。
よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。




