第6話 悲報
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の見習い調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川佐経…尼子会の調教師(呂級)
・南条元春…赤根会の調教師(呂級)
・相良頼清…山桜会の調教師(呂級)
・井戸弘司…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・大森…幕府競竜場の事務長
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
翌朝、岡部と戸川は温泉に入り、朝食に向かおうというところで厩舎から定時連絡が入った。
「なんやて!!!」
岡部はその声に驚いて戸川を見た。
戸川はこれまで見た事も無いような真剣な顔で電話相手と話をしている。
「怪我は? 竜やない! 二人のや!!」
「とりあえず相良を巻き込め! 相良やったら悪いようにはせんやろうから」
「お前と櫛橋で不安やろうけど、うちらもこれからすぐに戻るから」
「わかった。後でもう一回かけ直すから、それまでに相良を入れておけよ。ええな!」
電話を切ると戸川は、かなり焦った顔で岡部の顔を見た。
「大変や! 松下と長井が竜から落ちよった!」
「えっ?」
「とりあえず、すぐに帰る支度せんと!」
戸川は相当に取り乱していているらしく、階段で部屋に戻ろうとしている。
そんな戸川の腕を岡部は掴んだ。
「電車と飛行機の兼ね合いがありますから、そう簡単にはいきませんよ」
「……それもそうやな。やっぱ義悦さんを叩き起こさなあかんか」
戸川は唇を噛み、どうしたもんかと何度も呟いた。
「僕、まず受付に行って電車と飛行機の時間を調べてもらってきます。戸川さんは、厨房に行って朝食を弁当にできないか相談してください」
二十分後には、岡部と戸川は帰り支度を済ませ受付の待合に集合した。
戸川は厨房に言って朝食を弁当箱に詰めてもらった。
弁当を待つ事で少し気持ちの整理が付いたらしく、かなり落ち着きを取り戻したように見える。
二人は受付の回答を待っている間、弁当をつまんだ。
弁当は、紙の箱に片手大の大きさの揚げパンが四つ入っている。
一つ食べた時にはわからなかったが、どうやら四つとも中の具が異なっているらしい。
岡部は一つ目の揚げパンを食べ終わった時点で飲み物が欲しかったが、残念ながらそんな時間的余裕は無さそうであった。
「一体、何があったんでしょうね?」
「わからへん。池田の対処力を完全に超えてもうてて、浮足立ってもうとんのや」
戸川も揚げパンを口にし細く息を吐いた。
これからの事を考えると気が重い、そう顔に書いてあるようである。
「能島さんは何をしてるんでしょう?」
「あれは期待できへんよ。特に有事はあかん。君も薄々気が付いてるやろ」
金杯の呑み会の一件で、戸川の中での能島の評価は極めて低い。
岡部も決して高いわけでは無いが、戸川は全く期待していないという感じなのである。
「調教中の落竜という事なのでしょうか?」
「二人ともやから、そういう事やろうとは思うが……」
受付の人が現れ、電車は時間前なので乗車変更ができたと報告してきた。
飛行機も変更は可能だろうが空き待ちになると思うので空港に着いてから相談した方が良いという事だった。
二人は受付に義悦への伝言を頼むと、すぐに送迎車で花蓮駅に向かった。
花蓮駅で高速鉄道の待ち時間が少しあり戸川はもう一度厩舎へ連絡を取った。
その間岡部は飲み物を購入し戸川を待った。
戸川の電話が終わると二人は高速鉄道に乗り込んだ。
戸川はすぐに珈琲を飲み朝食の残りを食べながら、ここまでわかった情報を共有した。
「相良が入ってやっと少し情報がつかめたわ」
岡部も珈琲を口にし残りの弁当を食べ始めた。
「調教中に『ショウリ』が故障したらしい。そんで後続にいた『セキラン』が巻き込まれたんやって」
戸川の報告に岡部は眉をひそめた。
「それ、竜の名前は間違いないんですか?」
「どういう意味や?」
「『ショウリ』は先日走ったばかりで調教計画は空白に……」
それを聞き、戸川ははっとした顔をした。
「白紙……まさか能島の奴……」
「いやあ、でも長井さんに相談するって事になってましたよね?」
「だよなあ。さすがに長井なら気付くやろうしな。あるいは単なる手違いか……」
仮に手違いだとしても誰かしら気付きそうなものだが。
二人は顔を見合わせ考え込んだ。
「二人の容体はどんな感じなんですか?」
「『ショウリ』に乗ってた長井はちょっとわからんそうや。『セキラン』の松下はそこまでやないらしい」
二人は同時に珈琲を飲むと、ため息をついた。
「長井さん、ちょっと心配ですね……」
「歳も歳やからな……」
岡部は弁当の揚げパンを食べ終えると、紙の弁当箱を綺麗に畳んで鞄のポケットに入れた。
「とりあえず台北に着いたらお土産を買いましょうか」
戸川は岡部の言葉に少し苛ついた。
厩舎の緊急事態だというに何を呑気な事を言っているのだと感じた。
「そないアホみたいに落ち着いてられるかいな!」
「焦っても事態が変わるわけじゃありませんよ! 現場の人達は混乱の極地です。そこに行くんですから戸川さんが誰よりも落ち着いてないと!」
戸川はその言葉で目の前の青年の危機対処能力の高さに驚いた。
戸川はこの道何十年の現職調教師である。
自分がこれだけ焦っているのに、仕事を始めて一年も経っていない岡部がこれほど冷静に対処できるとは。
「家と厩舎と相良のとこの分あれば良えかな?」
「ええ、それで良いと思います。その間に僕、空港で飛行機の事聞いておきますから」
岡部は南府駅の乗り換えの間に梨奈と奥さんへのお土産を購入した。
戸川はその間に再度厩舎へ連絡を入れた。
縦貫道高速鉄道に乗り込むと、戸川は新しい情報が入ったと話を切り出した。
「長井は意識が無く救急車で運ばれて行ったそうや」
「それはだいぶ心配ですね……復帰できるかどうかも含めて」
「年齢的に君みたいに数日っちゅうわけにはいかんやろうな」
戸川が渋い顔をすると、岡部もつられて渋い顔をした。
「後、やはり『ショウリ』で間違いないらしいわ。もしかしたら予後不良(=安楽死処分)かもしれんて」
「相手は池田さんですか?」
「相良や。あれが言うんやから、まあ絶望的なんやろうな」
二人は同時に大きくため息をついた。
どうやらまだ情報があるようだが、戸川は非常に言いづらそうにした。
「それとな、残念ながら『セキラン』も無事やないらしいわ」
「え? 松下さんは軽傷だったんですよね?」
「松下はな。あれは落ち慣れとるもん。そやけど『セキラン』は軽傷やないいう事らしい」
『ショウリ』が骨折し長井が落竜、すぐ後ろにいた『セキラン』が巻き込まれ松下も落竜。
報告を聞く限りだとそんな状況を想像する。
「なんだか想定以上に状況が悪いですね」
「僕もそう感じた。相良の報告が大げさな事を望むがな」
台北駅に着くと二人は真っ直ぐ空港に向かった。
戸川は土産を買い、岡部は空港で飛行機の空き状況を聞いている。
幸い午前中の一番空いている時間であり、空き待ちの座席はすぐに何とかなった。
土産を買っている間に戸川は完全に冷静さを取り戻したらしい。
飛行機に乗り込むと今後の話をし始めた。
「とりあえず、このまま真っ直ぐ競竜場に行くで。まずは現状を把握するんや」
「じゃあ昼食は福原で弁当買いますね。対処にどれだけかかるかわかりませんから、食事を先に済ませておきましょう」
「ああ、そうやな。腹が減っては戦はできん言うからな」
戸川は徐々に緊張してきているのを感じている。
恐らく平静を装ってはいるが岡部も同様なのだろう。
「『ショウリ』が予後不良だと、会長へも連絡した方が良いんでしょうね」
「そうやな。時間できたらすぐにするわ」
他に想定できる事は何か無いかと戸川は呟いた。
「僕、向こうに着いたらまず竜の状況見てみますね」
「ああ、それが終わったら調教計画も見てくれな。僕は松下と池田に何があったんか聞くから」
二人が厩舎に着いたのは午後の一時過ぎだった。
厩舎には報道が群れをなしていたが、戸川はそれどころでは無いと言って報道を退けた。
岡部が真っ直ぐ竜房に向かうと、櫛橋、庄、並河が棒立ちになっていた。
櫛橋はかなり泣いたようで目が腫れている。
三人に構わず『ショウリ』を見ると、前脚二本が折れており添え木が当てられ、皮の帯で腹から体重を支えられていた。
次に『セキラン』の竜房に向かった。
『セキラン』は、ぱっと見では特に異常があるようには見えなかった。
だが両前脚に包帯が巻かれていて、触るとかなり熱を持っている。
「影響があったのはこの二頭だけですか?」
三人にそう尋ねたのだが誰からも回答が無い。
やむを得ず全ての竜を確認したが他の竜には影響は出ていない様子だった。
事務室に戻ると調教計画を確認。
空白になっていたはずの『ショウリ』の調教計画には『単一杯』と書かれている。
緊急の会議に途中から岡部も参加した。
戸川は櫛橋も呼んでくれと言ったが、岡部は来るのは無理そうだと報告した。
じゃあ仕方ないからこの五人でやろうと戸川は言った。
「前を走っていた『ショウリ』が突然体勢を崩し、その後ろを追走していた『セキラン』が巻き込まれた。そういう事やな?」
間違いありませんと松下は言った。
「なんで競走出たばっかの『ショウリ』を追う事になったんや。足元弱いの知ってるやろ?」
そういう計画だからと言われたと言って、松下は責めるような目で能島を見た。
そういう計画じゃなかったはずだと岡部は冷たい表情で能島を責めた。
「先週の競走を見て、乗り込みが足りないって感じたから変更したんです」
能島は悪びれもせず答えた。
「何故、誰にも相談せんかったんや?」
「先生も岡部君も出張でしたから相談できませんでした」
戸川も岡部も、こいつは何を言っているんだという顔で能島を見た。
「長井がおったやないか」
「『セキラン』以外は先生か岡部君に相談っていう事でしたし……」
能島の言葉に戸川は愕然とした。
「あれをそう取ったんか……失敗したわ。指示を誤った」
戸川は拳を握りしめ、俯いて無念で体を震わせた。
岡部は、ガックリしている戸川を見て大きくため息をついた。
「竜の状態ですけど、残念ながら相良先生の見立てで間違いないと思います」
岡部が報告すると戸川は悲痛な表情をした。
「『ショウリ』はあかんか……」
「輸送もちょっと。多分、予後不良しかないと思います。『セキラン』は脚をひねったか何かでしょうね。放牧して精密検査が必須だと思います。残念ながら『優駿』は……」
「すまんが、すぐ手配してくれるか?」
岡部は会議室を出ると、運送会社に連絡して竜運車の手配をし、さらに北国牧場に連絡を入れた。
会議室から出てきた戸川は、長井の様子を見に行ってくるからここを頼むと言って事務室を出て行ってしまった。
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