第3話 情報
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の見習い調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川佐経…尼子会の調教師(呂級)
・南条元春…赤根会の調教師(呂級)
・相良頼清…山桜会の調教師(呂級)
・井戸弘司…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・大森…幕府競竜場の事務長
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
火曜日、久々に厩舎に顔を出そうとした所、後ろから岡部を呼ぶ声がした。
声の主は戸川たちが『髭もぐら』と呼ぶ『日競』の吉田記者だった。
「『上巳賞』の勝利おめでとうございます」
「どうもありがとうございます。どうしたんですか? うちは次は来月の『優駿』まで重賞出る予定は無いですよ?」
吉田はそれまでの営業用の笑顔を外し急に真顔になった。
「岡部さん、『やっとこ閻魔』って知ってますよね?」
「なんかそんな妖怪が幕府に出たらしいですね」
「おかしいなあ、岡部さんやったら何や知ってると思うたんですけどね」
何で僕がと岡部はとぼけた。
その態度で吉田は、岡部がその事をあまりほじくり返されたく無いのだと察した。
「それやったら、『やっとこ閻魔』を知ってる人に会うたら伝えてください。幕府に行ったら身辺に気つけやって」
岡部は鋭い目で吉田の顔を見た。
「何でって顔してますけど当たり前でしょ。ちょっとやられたからって、それでケツまくる反社組織があるわけないやないですか」
岡部は深刻な顔で黙り込んだ。
『やっとこ閻魔』が岡部かどうかという事は、もはやどうでも良い事になっていた。
「目標は僕だけなんですか?」
「聞こえてきた話では。『竜十字』と『共産連合』、その上の『子日』『日進』。どれも岡部さんを調べてるみたいです」
岡部は思わず息を飲んだ。
「家族に危害が及ぶ可能性は?」
「西国では手出さへんでしょう。もし何か不穏なことがあるようやったら、うちにたれこんでください。うちがそいつら徹底取材してやりますわ」
「それも記事にするんですか? 商魂逞しいですね」
あなたからは甘美な匂いがすると、吉田は少しいやらしい笑い顔をうかべた。
その笑顔に岡部は一歩下がり、露骨に不快という顔をした。
「東国やったらこいつを当たってください。この記者はその手の特報追っとるやつで、僕と情報共有しとる者です」
吉田は東国の『産業日報』の山科という記者の名刺を岡部に渡した。
「前も言いましたけど、うちらを利用する事も試してみてください」
岡部は吉田の顔を見て少し思案した。
「一つ聞きたいことがあるんです。今回の件で警察上層部に圧力をかけた政治家がいるらしいんですが、そういう話は知ってますか」
岡部の発言に吉田は慌てて手帳を取り出した。
「確かな話なんですか? もしそれが確かやとしたら、うちの新聞だけでも調べて特報にしますけど」
「連合警察がそうと取れる発言をしていたというだけです」
吉田には言わなかったが、幕府で連合警察の管理官が武田会長にそう言っていたのである。
議員が圧力をかけてくるから上司の判断が必要になると。
「何や他に知ってそうやけど、まあ、今は探らんどきます。議員の話は調べときますわ。うちらの益にもなりそうやし」
翌日の午前、朝飼が終わると定例会議が開かれた。
「能島さん、今週、調教指示してみてどうですか?」
岡部に聞かれ能島は少し不貞腐れた顔をする。
「計画の変更をさせてもらえないので、特にどうという感想は無いですね」
確かに岡部を見る能島の目が少し冷たいのを感じる。
長井と池田は、やれやれという顔で岡部の顔を見た。
「能島。研修もそろそろ仕上げに入らなあかんからな、来週から調教計画の変更しても良えよ。その代り僕か綱一郎君にちゃんと相談してな」
思いがけない言葉に、能島はパッと明るい顔で戸川の顔を見た。
「綱一郎君と相談した上での話や。それと『セキラン』の調教計画は長井とも相談してな」
能島はお任せくださいと胸を張った。
「今月は能力戦だけやけど、出走登録は綱一郎君に指示するようにな」
能島は、わかりましたと言って笑顔を作った。
「それと、綱一郎君は時間空くやろうから勉強に費やして良えから。わからへんとこは、僕か能島に聞いたら良えからね」
能島は不思議そうな顔で岡部と戸川の顔を交互に見た。
松下と櫛橋が岡部を見てニヤリと笑った。
「綱一郎君、今年、調教師試験受ける事になったんや。会派で決まった事や。すまんが能島も色々面倒見たってや」
岡部は能島によろしくお願いしますと頭を下げた。
能島は、僕が使ってた参考書がまだあるから明日持ってくると言ってくれた。
長井と池田は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まっている。
「一つよろしいでしょうか?」
「どうしたん。怖い顔して」
戸川は、岡部の顔に何か鬼気迫るものを感じた。
「実はちょっと困った話を聞いたんです。詳しい事はまだ言えませんが、もし見た事のない記者を見かけたら教えてください」
櫛橋はちょっとビクリとして、東国みたいな事がこっちでも起るんですかと、恐る恐る尋ねた。
「わかりません。わかりませんが、記者に紛れて何かするのがあいつらのやり口みたいですから」
岡部の説明に、長井と池田も露骨に緊張した顔をする。
戸川はかなり困惑した顔をしている。
「まだ何の事かようわからんが、見た事ない奴や君の事を聞くやつがおったら、君に知らせたら良えんやな?」
「すみませんがお願いします」
険しい顔をする岡部に、戸川は酷く心配そうな顔をした。
「あんまり一人で抱え込まへんようにな」
後で色々相談させていただきますと言って岡部は戸川に頭を下げた。
翌週、戸川厩舎に義悦がやって来た。
「岡部さん、お言葉に甘えて来ましたよ」
「ようこそ戸川厩舎へ!」
戸川は、相変わらず厩舎外で囲み取材の対応に追われていて、接客は岡部が行っている。
岡部は義悦を事務室の応接長椅子に案内するとお茶を出した。
「すみません。先生、去年末からもうずっとあの調子で」
「じゃあ、岡部さんがずっと代理で厩舎運営を?」
「今は能島さんがやってくれているので、僕は専らこれです」
そう言って岡部は、能島からもらった試験の参考書を見せた。
義悦は感心感心と茶化して笑い出した。
そこに長井が入って来た。
「岡部君、ちょっと聞きたい事あるんやけど。あれ? えっと、この方は?」
「会長のお孫さんで最上義悦さん。『セキラン』の竜主さんです」
義悦は、あなたが長井さん、お話は伺っていますと笑顔で会釈した。
「え? 会長と全然違うやん。いつ跡継いでもえるん?」
「それ言うと会長怒りますよ。目の黒いうちは椅子はどかんって」
「そしたら、そない遠い話やないなあ」
長井がそう言うと、岡部は、先生もそれ言って怒られてましたよと笑い出した。
義悦が報告しておきますと冗談で言うと、長井は勘弁してくれと言って義悦を拝んだ。
長井の聞きたい事というのは『セキラン』の事で、そろそろ温水調教を止めて、追切り調教のみにしようと思うという話だった。
「僕は本番直前まで温水した方が良いかなと思うんですけどね。でも、追切りもしないと走る感覚が崩れるかもですしね。難しいとこですね」
「そしたら、来週からちと走らせてみようか?」
長井が事務室を出て行くと、入れ替わりで戸川が入って来た。
「いやあ義悦さん申し訳ないね。報道がしつこくて」
「いえいえ。実は今日はちょっと重要な話がありましたので、こうしてお待ちしてました」
岡部は戸川の茶を入れると二人で義悦の向いの長椅子に座った。
義悦の話というのは南国牧場の話だった。
先日、岡部は祝賀会で中野夫妻に竜運船の可能性の話をした。
中野夫妻は翌日その足で小田原に行った。
紅花会の運送会社『最上運送』の本社に行き、社長、竜運部部長、技術主任を交え緊急会議を開いた。
ところが、事前に連絡していたにも関わらず、出席者の中に海運に詳しい者がおらず話が遅々として進まなかった。
そのうちにみつばが苛々し始め、船に詳しいやつを誰でも良いから呼んで来いと怒鳴りだした。
社長と部長には、商売の匂いが感じられないなら今すぐ会に辞表を出せと悪態までついた。
焦った技術主任は職場に戻り、海運の担当を引っ張ってきた。
みつばは、その一社員に向けてだけ最初から話をした。
するとその社員は即座に、ぱっと思いつくだけで二つの問題点があると指摘した。
一つは燃費、もう一つは揺れ。
それを聞くとみつばは、その場で最上に連絡をし予算を提供してもらった。
社長の山野辺に、彼と数人を借りたいと申し出て金額を提示。
山野辺はここまでの流れで金を受け取るわけにいかず、即日、長期出向の手続きをした。
人の確保ができたので、もう一度改めて岡部から詳しい話が聞きたいという事になった。
そこで戸川と岡部を南国牧場に一度連れてきて欲しいと頼まれたのだそうだ。
「何というか、最上家はこれと決めた時の打つ手の早さに驚きますね」
義悦も話を聞いて驚いたと言った。
会長からは、経営は判断の速さと対処の迅速さが全てとよく言われているが、みつば叔母さんがこれほどとは。
「いつ頃が良いとかあるんですかね。できれば『優駿』後が良いんですけど」
それを聞いた戸川が焦った。
「あかん、あかん! 今の話聞いたやろ! 今月中は絶対やで。みつばさん誰かさんに似て、ごっつい気短いんや」
義悦も、誰に似たんでしょうねえと頭を掻いている。
宿は向こうで手配するし、二泊だけで良いから来て欲しいと言っているらしい。
なんなら、ご家族も一緒にどうかとまで言ってくれているそうだ。
「それはもう北国で懲りたわ。『セキラン』の『優駿』の件があるからね。急いで帰って来たいからうちら今回は二人だけで行くわ」
岡部は、確かにと言って顎を掻いた。
岡部は壁に掛けられたカレンダーの方に視線を移す。
「そうしたら、早くて今週末の土曜から月曜でしょうか?」
「まあ、そこらが無難やろうな」
義悦は椅子を立った。
「じゃあ、そこの日付で連絡しますね。私も同行しますので」
「義悦さんだけなんですか? 行くの」
岡部の質問に、義悦は目頭を摘まんだ。
「その……祖父は、みつば叔母さんが少し苦手でして……」
わかる気がする、同族嫌悪ってやつだと言って、戸川が豪快に笑い出した。
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