第1話 祝賀会
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の見習い調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川佐経…尼子会の調教師(呂級)
・南条元春…赤根会の調教師(呂級)
・相良頼清…山桜会の調教師(呂級)
・津野俊勝…相良厩舎の調教助手
・井戸弘司…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・高城胤弘…三浦厩舎の調教助手
・清水…三浦厩舎の主任厩務員
・大森…幕府競竜場の事務長
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
『上巳賞』の翌々日の午後、岡部、櫛橋、松下で東海道高速鉄道に乗りこんだ。
『上巳賞』の優勝祝賀会へ出席する為である。
前日に『サケセキラン』を皇都へ輸送しており、幕府での作業は残りは細かな事務手続きのみとなっている。
今回、会場となる豊川の大宿は、昨年末忘年会で訪れた宿である。
紅花会の宿としては珍しく温泉が売りではなく、ごく普通の大浴場となっている。
その代わり三河湾の海の幸と山の幸に恵まれ、上質な料理が売りとなっている。
豊川の豊富な水を利用した造り酒屋も多く、極上の米酒を堪能できる宿としても親しまれている。
関係者は既にわかったもので、『上巳賞』の結果を見て、その日のうちに航空機に乗り込み小田原や福原に宿泊していたのだとか。
三浦からは普段見ない方も来るから交際を広めると良いと笑って送り出された。
三浦は来ないのかと尋ねたのだが、あまりバツが良くないと苦笑いしていた。
松下は電車の中で、行きたくない、帰りたい、引き返しちゃダメかと駄々をこねまくっている。
あまりにも言うので、岡部は途中から相手にするのを止めている。
そんな露骨に塩対応する岡部を櫛橋はくすくすと笑っている。
「本音を言うたら、私も一旦家に帰りたいとこやけどね」
「身内で体調を崩している方でもいるんです?」
「そやないよ。何て言うたら良えかな……乙女の悩みやね」
理由はわからなかったが、岡部はそれ以上の詮索を止めた。
「ああ。何ややらしい勘違いしてるんやろ? そうやないよ。着替えがね、もう無いんよ。多目に持ってきてはいたんやけど」
「宿で無料で洗濯してもらえましたよね?」
「男の子はどうか知らんけど、私は、自分の下着て、赤の他人に洗われるんは、ちょっと抵抗があるんよ」
男の子と言われた事については何だか釈然としないものがあったが、その内容の方には岡部もある程度理解を示した。
「幕府には僕が戻って後始末しますので、櫛橋さんは、そのまま皇都に帰っても大丈夫ですよ?」
「ほんまに? そう言うてもらえると助かるわ」
それを聞いていた松下が岡部をからかった。
「君、たった数か月で、すっかり調教師稼業が板についてきたな」
豊川稲荷で参拝し宿に向かうと、義悦が笑顔で出迎えてくれた。
「あれ? 義悦さんって今日主賓なのでは?」
岡部にそう指摘されると、義悦はぶすっとした顔をした。
「いくら主賓でも、主催側では私が一番の『ぺえぺえ』だもん。まさかここに祖父を立たせるわけにもいかんでしょ」
そりゃあそうだと岡部が笑うと、松下が、それだとみんな入口で帰ってしまうと笑い出した。
どうやら今回は、筆頭調教師の快挙という事で調教師も何人か来るという事だった。
義悦に案内されるままに宴会場へ向かうと、既に料理が用意されていた。
来ている人はまだわずか数人で、その中に氏家一家の姿があった。
氏家は岡部を見ると、大声でこっちだと手招きした。
櫛橋は、お手洗いに行くから行ってらっしゃいと岡部に言うと一旦会場を出て行った。
岡部が氏家の所に向かうと、氏家は横の二人の女性を紹介した。
一人は氏家の妻のあすか、もう一人は長女の百合。
下の娘あやめは学校の関係で来れず、氏家の実家に預かって貰っているのだそうだ。
「確か伺ってる話では、あすかさんって会長の娘さんでしたよね?」
「そうよ。私は次女で、姉がいろは、妹がみつば。姉は競竜会やってて、妹は南国の牧場やってるのよ」
あすかはそう言って会場を見渡したが、どうやら二人ともまだ来ていないようであった。
「ということは牧場は今の会長になってから建てられたんですか?」
「いえ、先代の会長――私の祖父の時よ。大叔父が牧場やってたんだけどね、亡くなる少し前にこの人が若き場長になって、そこに私が嫁いだの」
先代場長には子供も孫もいたのだが、みんな継ぎたがらず、一牧夫だった自分を指名してきたと氏家は少し照れながら補足した。
すると百合が氏家の袖を引き、私、この方に嫁ぐんだよねと嬉しそうに言った。
「そうだよ。このお兄さんが父さんと約束してくれたからね」
氏家がそう言うと、あすかと百合は岡部を見てクスクス笑いだした。
岡部はそんな約束していませんと言ってプイと顔を反らした。
すると、宴会場に義悦の司会の声が響いた。
壇上に最上が立ち、ここまで来るのに何年かかった事かと、長くなりそうな演説が始まった。
最上が一通り気持ちよく話をすると、戸川が呼ばれ乾杯の音頭を取った。
会場がお酒で少し盛り上がったところで壇上に関係者が上がり話をし始めた。
最初は竜主の義悦、次に調教師の戸川、騎手の松下、生産者の氏家と続いた。
すると再度義悦が壇上に上がった。
「今回、『セキラン』の勝利は、ある一人の人物の貢献が非常に大きいというのは報道なんかで見て皆さんご存知の事と思います」
そう言うと義悦は岡部を手招きした。
「『ホウセイ』『ゲンキ』が重賞制覇まであと一歩という結果も、この方の貢献が大きいと伺っています」
岡部は、押し出されるように壇上に向かって行った。
戸川厩舎の調教助手の岡部さんですと紹介され、岡部は照れながら壇上に上がった。
会場に割れんばかりの拍手が起こった。
「実は私と岡部さんは『上巳賞』の前に一つちょっとした約束をしました。その結果、岡部さんは今年、調教師試験に挑戦する事になりました!」
岡部は後頭部を掻いて照れている。
「『紅花会』の新たな調教師誕生を願って、皆さん、暖かい拍手をお願いします!」
壇上から戸川を見ると、最上と二人で真剣そうな顔で話し合っている。
義悦は集音器を渡すと、一言お願いしますと言った。
そんな事を言われても何も喋る事を用意していない。
少し考えて、岡部はうんと頷いた。
「これまで僕は、戸川先生から多大な恩義を受けてきました。本当ならずっと横で戸川先生を手伝うのが筋だと僕も思っています」
そう言って戸川を見ると、戸川は暖かい目で岡部を見ていた。
「だけど多くの方が僕が調教師になる事を切望してくれる。それに答えなかったら、それはそれで筋が通らないと思う。だから……」
戸川はうんうんと頷いている。
「だから僕は調教師になって、結果を出して、戸川先生に頑張ってるなって褒めてもらおうと思います!」
会場が暖かい拍手で包まれた。
壇上から降りると競竜会のいろは社長が近づいてきた。
「あなたが岡部さんなのね! 噂は聞いてたんだけど中々お話できなくって」
いろはが夫の志村光正と娘の京香を紹介した。
「『ホウセイ』と『ゲンキ』の会員さんをね、競竜場に招待したんですよ。先日なんて『ゲンキ』の会員さん、前のめりで大喜びしてくださったのよ!」
「『ゲンキ』は重陽賞竜相手に、もう一歩という感じでしたからね。僕も幕府で見ていて力が入りましたよ!」
「『ホウセイ』も会員さんたち喜んでたのよ。父さんの『ゲンジョウ』も決勝までは来たのにね」
いろはは、最上の方をチラリと見てクスリと笑った。
「岡部さん頑張って呂級に上がってきてくださいね。競竜会は上の竜が多ければ多いほど盛り上がるんですからね」
「今は主流は八級なんですか?」
「そうね。そうなっちゃってるわね。本当は呂級を主にしたいんだけど、こればかりは調教師さんとの兼ね合いだから中々ね」
いろはがそこまで言うと、だからと言って志村が岡部の背中を叩いた。
「うちも君には色々と期待しているんだよ。一人でも上に上がってくれれば、その分上の竜の募集が増えるからね」
「そうなったら牧場も肌竜を増やすんですか?」
「そうだよ。そうなれば牧場も従業員が増えるんだ。期待の調教師が開業する事が、どれだけ会派にとって益になるかがわかるだろ?」
その逆ほど寂しいものは無いのよと、いろはは眉をひそめて言った。
従業員解雇の話はどうしても揉めるからねと、志村も渋い顔をした。
「調教師ってそんなになり手がいないんですか?」
「そもそも試験が難しいそうだからね。それと竜の知識以外に経営力や運営力も求められる。相竜眼にも優れてなきゃいけない。主任厩務員か調教助手じゃないとなかなかね」
副調教師が理想なのだが、副調教師を設けるのは基本伊級だけだからと志村は説明した。
「主任厩務員と調教助手は、現職が忙しくてそれどころじゃないですもんね」
「騎手希望との兼ね合いもあるし、そもそも仕事しながら試験勉強させる余裕が厩舎にないとだからね。それなりに好調な厩舎じゃないとね」
そこまで志村が説明すると、突然京香が、まだ独身なんですってねと言って興味深げに岡部を見てきた。
京香がクスリと笑うと、百合ちゃんよりはうちの娘の方が家庭的よと、いろはが腕を掴んできた。
姉さん女房の方が家庭は円満だと言うぞと、志村も岡部の背中を叩いた。
志村夫妻と話していると、向こうで岡部を呼んでいると言って義悦が無理やり岡部の腕を曳いていった。
「姉さんたちばかりで、もう、うちには順番まわってこないかと思ったわ」
そう言ってみつばは拗ねた顔を岡部に向けた。
すみませんでしたと岡部が素直に謝罪すると、みつばは、でも来てくれたから今日は許してあげると言って笑い出した。
隣の男性が、南国場長の中野義知ですと挨拶し、浅黒い手で握手を求めてきた。
「南国って仁級の生産をやってるんですよね?」
「そうね。仁級は安いから、うちは外部販売もして生計立ててるんだけど、それだけだとなかなか厳しいのよ」
「伊級って南国なんですよね?」
「昔はね。でも今は仁級だけなのよ」
みつばは、また拗ねた顔を向けた。
昔は伊級も生産していたのだが、会の方針で伊級を手放す事になったんだと、みつばの代わりに中野が言った。
「そうだったんですね。止級は南国なんですか?」
「多分、生産はうちでやるんだろうけど、止級の放牧は、牧場ではなく競竜場でやるんだよ。だから、止級は放牧場の確保が実は難点で、そのせいで、どの会派も容易に手が出せないでいるんだよ」
中野は寂しい顔で岡部に説明した。
だが岡部は何かを考えるように首を傾げた。
「止級の輸送って難しいんですか?」
「それはそうでしょ。他の竜と違って、水も一緒に移動しないとなんだから」
みつばの説明にも、岡部はいまいち納得ができないらしい。
また首を傾げた。
「じゃあ、今、輸送はどうしてるんですか?」
「車の荷台の水槽に入れて、ぶくぶく空気を送りながら、車ごと船で運んでるみたいよ?」
「漁師さんが船底に取水口開いて鮮魚を輸送したりしますけど、そういうわけにはいかないんですか?」
みつばは中野と顔を見合わせた。
岡部が言うような事を漁船がやっているのは、みつばも中野も知っている。
「そっか! 中型船を竜運車にすれば良いんだ。できるのかどうか研究してみる価値がありそうね」
みつばが手をパンと叩いて、輸送ができるようになったら南国の牧場はどこも活気づくと言うと、中野も目を輝かせた。
「放牧を牧場でやれれば、漁業関係者と調整しないでも良くなって止級の参入自体しやすくなって市場が大きく広がる事になるだろうね」
できない理由が何かあるのかもしれない。
だけど逆に言えばそれが越えられれば可能って事だと、明らかに中野の顔が明るくなった。
「会派の運送会社の担当を明日にも呼んで相談しなきゃ」
みつばの表情は不貞腐れたものじゃなく、すっかり明るいものになっている。
みつばは岡部をまじまじと見た。
「母さんがあなたを重宝する理由がわかった気がするわ」
その後、岡部は会長の奥さんにも呼ばれ、何故すぐに私の元に挨拶に来ないのと叱られた。
結局この日、戸川とゆっくり話をする事はできなかった。
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