第57話 準備
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・木村、大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の見習い調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・高城胤弘…三浦厩舎の調教助手
・清水…三浦厩舎の主任厩務員
・大森…幕府競竜場の事務長
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
三月に入ると、新聞の呂級の話題は二つの大競争で占められる。
一つは世代三冠の一冠目『上巳賞』。
もう一つは春の大一番『内大臣賞』。
戸川厩舎では、十一歳の『ゲンキ』が『内大臣賞』に、六歳の『セキラン』が『上巳賞』に挑戦する予定となっている。
また、この月から世代戦に長距離が追加になる。
秋に行われる世代三冠の最後『重陽賞』は、この月に能力戦を突破した竜が好走しやすく、注目となっている。
この頃になると、新聞もここまでの世代戦の格付けをほぼ終えている。
東西の横綱は変わらず『ジョウイッセン』と『サケセキラン』。
東の大関は『ロクモンアシュラ』となっている。
西の大関は新竜賞で四着だった『タケノベンテン』。
東の小結が新月賞を勝った『タケノリンドウ』。
西の小結は『マンジュシャゲ』。
戸川厩舎では定例会議が開催されている。
「こういうんは大抵誰かが体調崩して放牧になるもんやけど、どの竜も順調そのものいう感じで今年は揃いそうやね」
一番順調じゃなかったのがうちの『セキラン』だと、池田が新聞を見て笑い出した。
「何というか、東西の成績の格差が半端無いですね」
岡部が番付を見て渋い顔をした。
東は『新月賞』三着の『ハナビシカザン』が前頭。
それに比べて西は横綱の『セキラン』ですら『新月賞』二着である。
改めて指摘されて長井も目を覆った。
「勝ったら良えねん。前評価なんぞは所詮前評価や。前頭が勝ったなんてのもようある事やで」
戸川は一笑に付した。
「でも、何でここまで差がつくんでしょうね?」
岡部が戸川に問いかけると、戸川は一言、結果がでないからと寂しそうな顔をした。
「結果が出へんから良い竜も預けてもらえへん。そやからより結果が出へん。さらに良い竜が東に行く」
「負の連鎖ですね」
「それも踏まえて会長は、負の連鎖を『セキラン』で断ち切ろう言うたんかもな」
それならそう言えばいいのに回りくどいと、長井がぼそっと呟いた。
「近々来るから、その時にそう言うてやったら良えよ。会長、顔真っ赤にして喜ぶで」
長井は顔を強張らせ、壊れた人形のように何度も頭を横に振った。
「後これは『セキラン』が決勝に行く事を前提で話をするんやけども」
そう戸川が言うと、松下は行けない前提の方が想定しづらいと笑った。
「今回は水曜輸送にするから、綱一郎君には火曜に向こうに向かって欲しい」
岡部はわかりましたと快諾した。
「それと今回は随行付けるよ。櫛橋も行ってな」
櫛橋は自分を指差し、えっ私と聞き返したが承諾した。
「前回、最後は連絡もまともに取れへんかったからな。念のためやね」
「前回は、色々ありすぎましたからね。今回はそこまでじゃないでしょうが随行は助かります。会長からのご指名ですか?」
「そうやね。今回も目黒の宿とったんやって。会長と義悦さんも泊まるらしいから対応よろしうな」
櫛橋が最上階の良い部屋なのかなと嬉しそうな顔で岡部に尋ねた。
多分そうだと思いますと言うと、櫛橋は可愛く両拳を握り、喜びを最大限に噛みしめた。
「それと、『ゲンキ』次第では僕は行かれへんかもしれんから、そのつもりでな。二人で何とか乗り切ってや」
「特一放置したら、さすがに『ゲンキ』の竜主に怒られますもね」
「『ゲンキ』は競竜会の仔やけどね。まあこの月はしゃあないよ。どっちも大きい競争やもん。贅沢な悩みやで」
戸川が顔を緩めると、岡部も嬉しそうな顔で戸川を見た。
池田は櫛橋を見て悪い顔をした。
「櫛橋、若い男の子と二人やからって、羽目外して手出すんやないで」
それを聞いた戸川も櫛橋をからかった。
「会長のお孫さんも来るけども、手出したらアカンからな」
二人にからかわれ櫛橋はケラケラ笑い出した。
「そしたらそれ以外やったら良えんですね! って! 二人は私をなんやと思うてるんですか!」
水曜の午後、竜柱が発表になった。
『セキラン』は木曜、金曜どちらにも名前が無く翌週にまわったらしい。
『ゲンキ』は金曜の第十競走『内大臣賞』予選に出走となっている。
十五頭立て八枠十四番、予想人気は二番人気。
『ジョウイッセン』は木曜の第十競走。
金曜の第八競走に『ロクモンアシュラ』と『ハナビシカザン』が登録されている。
「先生、ちょっと良えでしょうか?」
発表された竜柱を持って、池田が荒木を伴って事務室に相談に来た。
「実は、先日の話を荒木が少し真に受けてもうて……」
後ろで荒木はがうなだれている。
「先日の話ってなんやっけ? 僕、何か変な事言うたかな?」
「ほら、伏見さんにお参りに行った方が良えいう」
「ええ? 嘘やろ? 軽い冗談やんか。後それ言うたんは綱一郎君や」
荒木はうなだれて明らかに元気が無い。
『ホウセイ』がハナ差で負け、『ゲンジョウ』がここ一番で怪我、今回『セキラン』が三連戦。
何かあると思うと極めて真面目な顔で言いだした。
どうやら『ゲンジョウ』が、自分の担当の時に怪我をした事を、かなり気に病んでいるらしい。
池田と戸川は呆れた顔をしている。
「まあ確かに、全部運が悪い言うたら悪いけどもやな……別にうちらが何か悪い言うわけやないと思うで?」
戸川が笑って荒木を慰めるのだが、荒木は『ゲンキ』も大外枠だったと沈んでいる。
戸川はお手上げだという仕草をして岡部を見た。
岡部は手を一つ叩いた。
「行って悪い謂れはないわけですし、それで運が向くんだったら儲けものじゃないでしょうか?」
そう言って微笑んだ。
なるほどと戸川も頷いた。
「まあ、それもそうやな。ほなついでやから御札も変えてくるか」
四人は岡部の運転で伏見稲荷神社へ向かった。
巨大な鳥居を抜け、巨大な狐が鎮座する楼門を抜けるとすぐに本殿がある。
そこでお参りをすると四人はさらに奥へ向かった。
有名な千本鳥居は非常に混雑していて、中々順調に前には進めなかった。
そこで岡部がちょっとした疑問を口にした。
「そういえば何で稲荷神社は狐なんでしょうね? 普通は犬ですよね?」
「今でこそ商売繁盛で有名やけど、ほんまは五穀豊穣の神社何やで?」
荒木が説明し始めたのだが、岡部はまだいまいちピンと来ない。
「五穀豊穣に一番の天敵はなんやって話やね」
「天候不順でしょうか?」
「そっちは神様の方で対応する事やわ」
荒木はそう言って笑い出した。
「そっか! 獣害か!」
「そうやねん。特に鼠害が問題なんやわ。その鼠を食べる狐が五穀豊穣の神の使いって事になったんやね」
なるほどねと納得した岡部だったが、今度は別の疑問が浮かんできた。
「じゃあ、何でお揚げなんでしょうね?」
「お揚げいうか狐って豆腐食べんねんて」
「え! そうなんですか! 知らなかった」
僕も知らんかったと池田も笑った。
千本鳥居を抜け奥に進むと奥之院がある。
そこで四人は参拝すると『おもかる石』の列に並んだ。
岡部は『おもかる石』を持ち上げると、思ったよりは軽いかなと感じた。
戸川は荒木にどうだったと尋ねた。
「思ったより軽かったですわ」
「それやったらうちの厩舎は安泰やな」
金曜、『ゲンキ』の予選出走の時間になった。
岡部は食堂で、池田、垣屋、並河と共に観戦した。
食堂には南条がおり、岡部を見ると手招きしてくれた。
「最近、戸川厩舎どうしてもうたん? えらい好調やないの」
「好調なんですけど、詰めが甘いんですよね」
おいおいと南条が岡部に言うと、池田が調教計画してる人は評価が厳しいと笑い出した。
南条は岡部の顔をまじまじと見て小さく頷いた。
「そやけど、あの結果で文句言うたらバチ当たるで」
「確かに。ここまで重賞全部挑戦できてますもんね」
「そうやで。多くの厩舎は春二つも挑戦できたら御の字なんやぞ?」
発走の時間が近づいた。
発走機が一斉に開くと、『ゲンキ』は緩い先行争いに加わらず中団に入り込んだ。
長い正面直線を経て向正面に向かうまでを中団の中でじっと過ごし続けた。
全体の流れが遅いと見て、向正面に入ると中団から先頭集団に鞍替える竜がちらほら出る。
後続もそこまで差が無く、全竜一団という感じの展開になっている。
三角を過ぎ曲線に入ると、『ゲンキ』も中団から先頭集団に潜り込んだ。
四角を過ぎ直線に入ると、全竜一斉に末脚争いの状況になった。
ここまでじっと我慢していた『ゲンキ』は、他の竜よりも明らかにキレる脚を見せた。
スパッとキレた脚で一瞬で先頭に踊り出て、そのままの竜身を保ち終着した。
「ごついキレたなあ!」
「ですね。一瞬でしたが他竜を置き去りにしましたね」
南条は自厩舎の竜のように興奮している。
岡部もかなり満足のいく競争だったようで、嬉しそうな顔をしている。
池田と垣屋も『ゲンキ』ってこんな竜だっけと大興奮である。
「これやったら、決勝行けるんと違うか?」
「行って欲しいですけどね。ちょっと展開がハマっただけにも感じますね。最後の直線だけの勝負みたいな『ゲンキ』に非常に有利な展開でしたからね」
確かにそういうところはあったかもしれないが、それを差し引いても十分通用するだろうと南条は言った。
だが、それでも岡部は苦笑いしている。
「なんや、謙虚やないの?」
「さっきロクモンアシュラとハナビシカザンが負けたの見ちゃいましたからね。何が起こるかわかりませんよ」
幕府競竜場の第八競走『上巳賞』の予選は、『ロクモンアシュラ』と『ハナビシカザン』が人気を分け合っていた。
事実上の最終予選とまで新聞には書かれていた。
ところが、気持ちよく逃げた『クレナイスイロ』を二頭はついに捕えきれなかった。
最終予選には三頭が駒を進めるため、二着の『ロクモンアシュラ』三着の『ハナビシカザン』も駒を進めたものの、かなりの波瀾となってしまったのだった。
「『クレナイスイロ』な。あれは驚いたわ。向こうはどんだけ層が厚いねん」
「一応、二頭とも予選は抜けましたけどね」
「まあ、あれやな。出たいうだけで勝率は零やない言うやつや。きっと」
南条は岡部の背中をパンパン叩きながら笑った。
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