第56話 立春賞
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・木村、大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の見習い調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・高城胤弘…三浦厩舎の調教助手
・清水…三浦厩舎の主任厩務員
・大森…幕府競竜場の事務長
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
二月、一年で最も白き冬の妖精の恩恵を受ける季節。
最も夜勤が厳しい季節である。
昨晩のうちに水を出した状態にしないと水管が凍り使い物にならなくなる。
それを忘れた粗忽者によって阿鼻叫喚になる厩舎が週に一つは出る。
呂級では、春の中距離二戦のうちの一戦『立春賞』が行われる。
『立春賞』は特三で『春三冠』にも含まれず中距離走にも関わらず扱いが低い。
故に二月を放牧からの帰厩の季節にしている厩舎も多い。
戸川厩舎では、現在『ゲンジョウ』が中距離路線に挑戦している。
十二歳になった『ゲンジョウ』は、現在、戸川厩舎の最年長。
昨年十二月に能力戦三を突破したばかりで、中距離と長距離、両方で結果を出している竜である。
戸川としては『ゲンジョウ』は晩成と考えており、やっと才能が開花してきたと感じている。
二月の定例会議が行われる為、岡部たちは招集されている。
二月の議題としては、来月から始まる『セキラン』の『上巳賞』の挑戦の話が主だった。
「『セキラン』の事やけど、今月一回使うた方が良えんかな?」
調教より競争の方が能力が開花すると考える調教師がそれなりにいる。
能力戦同様、そう言った厩舎の為に『平特』という競争が組まれている。
『平特』も能力戦同様、月に一回だけ出走する事ができる。
出走資格は、古竜は能力戦二を勝っている事、新竜と世代竜は新竜戦か未勝利戦を勝っている事。
つまり古竜の能力戦三や、世代戦の能力戦と同じ扱いとなっている。
賞金は能力戦と同程度出るので、多少こづかい稼ぎができたりする。
「それが良いと思います。新竜の後の熱発考えると予選で熱発出たら目も当てられませんから」
岡部は戸川に提案した。
岡部はそう言うのだが長井は反対した。
『上巳賞』の向こうには『優駿』があるから、ここで使ったらそっちに影響が残るやもしれんと。
確かにそれも危惧すると戸川は悩んだ。
池田と櫛橋も、それぞれ賛成、反対で割れている。
池田は、岡部君の言う事もわかる、あの仔はよく熱発すんだよと賛成。
櫛橋は、新竜の時より外も中も大人になってるように感じると反対。
松下はいきなりで良いと思うと助言した。
まだ乗りはじめだがもう自分で勝手に調子を整え出していると。
「確かに『新月賞』の時も予選では熱発出へんかったしな。直行で良えか」
放牧から帰った『セキラン』は温水調教を中心とした距離延長対策を本格的に行い始めている。
胴の詰まった体型の『セキラン』は鍛えれば鍛えただけ肉がつくのだが、ともすれば体が硬くなりやすい。
徐々に体を柔らかくする事と肺活量を上げる事で距離の延長を模索している。
『セキラン』は温水調教を嫌がり温水から上がると走りたがると報告を受けている。
「走りたがるなら少しだけでも走らせたら良いんじゃないの?」
そう言って調教計画を練っている岡部に能島は何度か提案しているのだが、岡部は首を縦に振らない。
「能島さんは疲れても遊びたいと思ったら遊びますか?」
「僕は子供じゃないからそんな事はしないけど、『セキラン』は子供みたいなもんだよね?」
「子供だって遊び疲れたら熱出したりしますよ」
岡部は笑ったが能島はあまり納得していない感じであった。
水曜日の午後、竜柱の発表があった。
『ゲンジョウ』の予選は金曜日の第九競走。
八頭立て三枠三番、予想では三番人気だった。
『ゲンジョウ』はポンと発走すると、頑張って先頭集団に取付いた。
元々、道中でそこまで速度の出る竜ではない為、長い向正面の直線では付いていくのが精一杯という感じだった。
『ゲンジョウ』の良さは三角から発揮された。
三角を回ると『ゲンジョウ』は一気に速度を上げる。
曲線で早くも先頭に踊り出ると、四角は余裕を持って先頭で回った。
正面直線に入った時は勝負所にもかかわらず、早くも三竜身の差が付いている。
そこから後続にジリジリと追いつめられるも、一竜身を保ちきったまま終着した。
「『セキラン』の前に『ゲンジョウ』が幕府に行く事になるかもですね」
岡部は少し興奮気味だった。
「今回はハマっただけや。最終はどうなるかわからへんよ」
戸川はそう言うが、言葉とは裏腹に顔は緩み切っていた。
翌々週、竜柱が発表になった。
最終予選は木曜日の第十競走。
十二頭立ての二枠二番、事前予想は八番人気。
前走同様ポンと発走した『ゲンジョウ』は、前走より早い流れの中必至に先頭集団に取付いた。
だがやはり流れの早さに付いて行けず、向正面の直線でジリジリと集団から遅れて行く。
先頭集団が三角を回ると、松下から『ゲンジョウ』に合図が送られた。
スルスルと加速していく『ゲンジョウ』は、それまでの追走が嘘のように先頭集団を飛び抜けていった。
四角では一竜身を保って、やや膨らみ気味に先頭で直線に向かう。
流れが速かったせいか後続の脚色が悪く、『ゲンジョウ』は徐々に差を広げていった。
残りわずかという所で大外から三頭に猛追されたが、なんとか一着で終着。
検量室に帰ってきた『ゲンジョウ』は栗毛の竜体を金色に輝かせていた。
「幕府に乗り込むで!」
松下は櫛橋にそう叫んだ。
戸川と岡部は『ゲンジョウ』に近づくと首をさすった。
「長く良い脚が使える仔ですね」
「そやろう。この仔の初勝利の時にそれに気づいて、八年間、それを磨き続けてここまできたんや」
戸川は嬉しそうに『ゲンジョウ』の首を撫でた。
「厩舎に来たばっかの時は、速さもなく、キレも無く、未勝利も怪しい思うたもんやけどな」
「先生が見出した逸材ですね」
岡部が戸川を見ると、櫛橋も戸川を見た。
戸川は、たまたまだと照れ笑いした。
翌日、戸川が厩舎に出勤すると、荒木が焦った顔で駆け寄ってきた。
『ゲンジョウ』の歩様がおかしいという事だった。
引き運動をさせてみると、確かに前脚の送りがぎこちない。
触ってみると右前脚が少し腫れて熱を持っている。
湿布を貼って様子見という事にしたが、恐らく幕府行きは難しいだろうと判断された。
月曜日、緊急会議が開かれた。
「『ゲンジョウ』、ちょっと腫れが酷くなってますね。幕府行きは完全に無理そうですね」
岡部が重い口を開くと戸川も深刻な顔をした。
「一回牧場送って、精密検査受けさせた方が良えやろうな」
「こっから放牧だと、再来月の『蹄神賞』もちょっと難しいでしょうね」
「そやね。秋までになるやろうね。ちと早めに入れて『皇后賞』やろうな」
年齢的にそこが最後だろうかと、長井が深刻そうな顔をした。
「無事やったら『大賞典』も出してやりたいけどな」
池田が困った顔をした。
「『ゲンジョウ』といい、『ホウセイ』といい、もう一歩いうとこまで行ったのに。うちらに何が足らへんかったんやろう」
「うちらが頑張りすぎて、本来の力以上の結果を出させてるから無理が出てるのかもですよ」
岡部はそう言って池田を慰めた。
それを聞いて戸川が池田をからかった。
「どっちも今年に入っての事やからな。今年から主任になった人が持ってへんのかもな」
「そんなあ……」
池田は戸川を責めるように笑った。
『上巳賞』の前に一緒に伏見さんにお参りにいきましょうと岡部が言うと、池田が完全に落ちた。
「岡部さん、先生の人が悪いんがうつってもうてますよ」
櫛橋がそう言って笑い出すと、場の暗さが失せた。
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