第54話 金杯
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の調教助手
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・木村、大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・能島貞吉…紅花会の見習い調教師
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・高城胤弘…三浦厩舎の調教助手
・清水…三浦厩舎の主任厩務員
・大森…幕府競竜場の事務長
水曜午後、『金杯』決勝の竜柱が発表になった。
『サケホウセイ』は七枠十二番、予想では十二番人気になっている。
「十二番人気いう事は、最終予選勝ち負けした竜の中では一番下の評価いう事か」
長井が少し釈然としない顔をした。
「三着でも評価されとる竜もおるやろうから、単純にそうだけとも言えへんけどな」
戸川がそう指摘すると、長井はそれを悪い意味に取ったようで、さらにガッカリした。
「確かにジリ脚ですけど、あれだけ長く伸びるんだから、もっと評価してもらっても良いと思いますけどね」
岡部はどいつもこいつも見る目が無いと言って呆れている。
戸川も同感だと言って竜柱に目を落とす。
「皆さん、今回は結構いけると期待してるんですね」
能島は戸川を羨望の目で見ている。
「まあ、出るいうだけで勝率は零やないからな」
戸川が笑うと、長井は、さすがにもっと期待できるでしょと笑った。
「展開次第やけども、掲示板(=五着以内)どころか、もっと先も見える思うんやけどねえ」
松下がそう言って吹くと、能島は、鞍上が言うんだからこんな頼もしい事はないと笑った。
金曜の夜八時が近づいている。
今回から下見は岡部から櫛橋に変わっている。
櫛橋は非常に堂々としたもので『ホウセイ』も安心して曳かれている。
「ずいぶん、慣れたもんやなあ」
「初めてのことやから、もちろん緊張はしてますよ」
「誰かさんとはえらい違いやな」
松下は櫛橋とけらけら笑いあうと『ホウセイ』に跨り、えらい落ち着いてると言って首を撫でた。
発走時刻の夜八時が近づき、競竜場に発走予告の予鈴が鳴り響く。
発走場に発走者が現れ旗を振ると、皇都重賞決勝の発走曲が奏でられた。
場内に実況の音声が流れ始める。
――
各竜、順調に発走機に収まっていきます。
今年最初の大一番、今年一年あなたの運勢を占います。
金杯まもなく発走となります。
枠入り全頭完了。
発走しました。
サケホウセイ、ジョウトツゲキ辺りがちょっと加速が鈍いか。
先頭争いはどうでしょうか、クレナイゴウウ、ジョウキュウゼンが先陣争い。
ハナビシベッコウ、タケノフクヨウが続きます。
少し開いてクレナイボンテン、ハナビシテイシン、カイゾクセン。
そこからまた間が空きロクモンアメトンボ、ニヒキハチマン。
タケノスイライ、イナホゲキシンオー。
そこからさらに開いて、サケホウセイ、ヒナワコウセン。
最後方にジョウトツゲキで全十四頭。
かなり縦長の展開になっています。
先頭は三角を過ぎ曲線半ばまで進んでいます。
前半の時計は少し早めでしょうか。
一番人気クレナイコンゴウが現在全頭を引き連れています。
後方集団も徐々に差を詰めてまいりました。
先頭集団四角に向かい、少しバラバラという感じで最後の直線に向かいます。
カイゾクセン頭一つ優位!
クレナイコンゴウ、ハナビシゲッコウ必至に食い下がる!
後方からイナホゲキシンオー、ニヒキハチマンが伸びてくる!
クレナイコンゴウは一杯か!
大外から一気にサケホウセイ!
イナホゲキシンオー、カイゾクセンを捕えたか!
カイゾクセンも抜かせない!
ニヒキハチマンも良い脚だ!
ハナビシゲッコウも内で粘る!
大外からサケホウセイ、サケホウセイ剛脚!
大混戦!
横一列の大混戦で終着しました!
――
検量室に戻ってきた松下が『ホウセイ』の首を撫でている。
「行けた気しないでもないんやけど、際どいな……」
松下は首を傾げた。
櫛橋もううんと唸って、鞍を外し松下を検量に向かわせた。
着順掲示板の一着から五着まで、全ての着差のところに『ハナ』と書かれている。
まだ一頭も番号は記入されていない。
櫛橋の元に戸川と岡部が集まってきた。
松下は検量機近くの画面を見続けている。
「判定長そうですね。映像で見ても判断つきませんでした」
岡部は戸川に難しい顔を向けた。
「届いてるって言いたいけども難しいとこやな」
まだ写真判定ながら係員がやってきて一部の順位を書き込んだ。
一着は十三番『イナホゲキシンオー』、五着に三番『ハナビシゲッコウ』。
「かあ、届いてへんかったか」
戸川はそれを見て非常に悔しがった。
「ほぼ差なんて無いんですけどね。一着とそれ以外では雲泥の差ですよね」
櫛橋も口を尖らせて悔しがっている。
再度係員が現れ、残りの着順を書き込み始めた。
二着に二番『カイゾクセン』、三着に七番『ニヒキハチマン』、四着に十二番『サケホウセイ』が書き込まれた。
「四着なのか。見た目では届いているようにすら見えたのに」
岡部は露骨に悔しがった。
「綱一郎君。この仔は君が見出さへんかったら、ずっと鳴かず飛ばずやったんやで。もっと胸を張っても罰は当たらんで」
戸川は嬉しそうに岡部の背をパンと叩いた。
「そうですね。まだ秋に『天狼賞』もありますしね」
「そうや。落ち込んどる暇なんぞないで」
翌日、伏見の居酒屋『古だぬき』の一室で戸川厩舎の新年会が行われた。
会場は毎年同じ場所で、毎年の事なので店主もわかったもので、宴会場を最初から押さえてくれてあった。
岡部は電話しただけで、今年も連絡お待ちしておりましたと言われる状態であった。
戸川、岡部、能島、長井、松下、池田、櫛橋、荒木、垣屋、牧、花房、庄が出席。
坂崎と並河が夜勤の為欠席。
戸川が早々に麦酒をとり乾杯をすると、皆、思い思いに酒を呑み始めた。
とは言え、皆の話題は昨日の金杯を取り逃したという話一色だった。
今回岡部は、いつもの戸川の隣ではなく間に能島を挿んでいる。
「そういえば、昨日会長来てませんでしたね」
「そら『ホウセイ』は会長の竜やないからね」
「でも、竜主さんも来ていなかったような?」
「あれは『競竜会』の竜や」
戸川の説明で岡部は納得したのだが、能島はイマイチ理解できていないようだった。
能島も牧場にいたので『紅花競竜会』という会社が会派内にあるのは知っているし、そこが竜を購入しているのも知っている。
だが、そこが何の会社なのかまでは理解していないらしい。
「一頭の竜を複数の一般会員で保有する制度なんですよ」
「それって竜主違反にはならないの?」
岡部の説明に能島はすぐにそう指摘した。
「表向きは『紅花競竜会』っていう会社が保有してる事になってるから大丈夫なんですって」
書類の上では『紅花競竜会』が竜を管理し走らせている。
会員のお客様はお金を払って竜主の真似事する。
遊びみたいなものではあるが、競争に勝つと分割して賞金が支払われるし、毎月の預託金や飼育代も会員費とは別に支払わないといけない。
岡部の説明で、なるほど竜主ごっこかと能島は納得した。
最近知った聞きかじりだと言って岡部は照れ笑いした。
「そういえば、競竜会って誰が運営してるんですか?」
岡部は戸川に麦酒を注ぎながら尋ねた。
「会長の長女のいろはさんやね。一応、昨日、来賓室には来てはったよ」
「来てるなら降りてくれば良かったのに」
「会員の方も招待してはるから、その対応でそれどころやないんやろ」
なるほどと岡部と能島は頷いた。
岡部は能島に酒を注ぎながら、一足先に開業している長野騎手について尋ねた。
「競竜学校では、一年一緒にやるんだけど、成績はいまいちだったかな」
長井も気になるらしく、二人の話を静かに聞いている。
「いまいちって、学生なんだからいまいちに決まってるもんじゃないんですか?」
「二年やってれば、やっぱりその中でも上下は出るよね」
能島の説明が岡部には、どうにも腑に落ちない。
「能島さんって確か牧場出ですよね。その能島さんから見て、上下が出てるってわかるくらいだったんですか?」
「そりゃあそうでしょ。稲妻牧場系の子と比べたらね。あの人たちは能力の底上げが凄いんだ。露骨に成績に現れるんだよ」
能島の発言に長井はたまらず口を出した。
「それを騎手のせいにするんは、あんまりやろ!」
長井の怒りを見て、戸川も能島を窘めた。
「能島。調教師言うんはな、厩舎の経営者やで。中小言うても社長やで。その社長が大っぴらに社員の悪口言うたらあかんで」
能島はすぐに、申し訳ありませんと謝罪した。
「良えか、よう聞け。僕ら調教師はな、失敗した時は自分の判断が誤ったって思わなあかんのや。そやから皆で次への対応を検討すんねん」
能島は突然始まった研修に身が引き締まっている。
「誰かのせいで上手くいかへんかったなんて事は無いねん。やってみたけど結果に結びつかへんかっただけの話や」
戸川は麦酒を飲み干した。
「もちろん、調教師は最良の結果を導けるように判断するし、手も打つ。それで結果が出てもうちら調教師の功績や無いねん。関わった皆の功績やねん」
長井が戸川の杯に麦酒を注いている。
「そういう思考ができへんと、いずれどっかで派手に躓く事になると思うで」
能島は心に刻み込んでいきますと頭を下げた。
長井の一喝くらいから場がすっかり冷えて、みんな戸川の話を聞く体勢になってしまっている。
それを察した岡部は、戸川に問いかけた。
「そういえば学校時代の長井さんって、どんな感じだったんですか?」
「そらもう、酷かったよ!」
そんなあと言って、長井は戸川の袖を引いた。
今までの話はなんだったんだと恨めしそうな目で戸川を見ている。
「学校もな、お休みの日があんねん。休み言うても学生はお金なん持ってへんから、どこにも行かれへんのやね。そやけど食べ盛りの真っ最中なわけや」
長井はくうと変な声を発し頭を抱えている。
「日野くんと二人で近所の居酒屋で呑んでたんや。そしたら、頼んでもない伝票を挿まれんねん。うちらも呑んどるから支払いの時に気が付いたんや」
そんな事になったら店と揉めるんじゃと、岡部は戸川に問いかけた。
「そら揉めたよ。でもな店の人が、坊主頭の二人組が、こちらの身内やから支払いはおじさんにて言うてたって言われんねん」
もういいでしょうと言って、長井は戸川の腕をつかんだ。
「こいつら散々食いたいもん食って僕らに支払い押し付けおったんや」
一同、どっと笑いが起きた。
「酒呑んどったら許さへん思うたんやけどもな、気持ちよく食いもんばっかやったから、笑って払ったったわ」
最後までバラされ、長井はちょっと吹っ切れた顔をしている。
「あの時は、ほんと美味しかったなあ」
「なんやったら、もっとばらしたっても良えんやぞ?」
ごちそう様でしたと言って、長井は戸川に手を合わせた。
戸川はふんと鼻で笑い、優しい目を長井に向けた。
「まあ、あの飯以上のもんを返してもろてるからな」
「ほな良えやないですか!」
「こっちは、それ以上にさらに貸してんねん!」
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