第53話 新年
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・木村、大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・高城胤弘…三浦厩舎の調教助手
・清水…三浦厩舎の主任厩務員
・大森…幕府競竜場の事務長
年が改まると皇都では白い冬の妖精が舞い降り身を凍えさせる日が増えてくる。
競竜場の外では、昼から酒を呑み、お重を突き、一年でも特別な日を迎えている。
だが競竜場の中では前日までと変わらぬ日々がごく普通に送られている。
いつもと違うのは挨拶の文言だけ。
呂級の番組は一月の一週から始まる。
多くの厩舎では、十一月、十二月で多くの竜が放牧になり一月に戻ってくる。
戸川厩舎はその二か月で勝ち星を稼ぐという手法に出た為、現在は『セキラン』と『セキフウ』が放牧に出ているだけである。
そんな戸川厩舎では、一月遅れで今月、順次放牧に出される事になっている。
戸川は出勤すると、竜房で手短に新年の挨拶を済ませた。
一旦全員の手を止めさせ、全員で事務室の神棚に今年一年の無事と厩舎の好調を祈願。
長井は三日間、松下は五日間、休みを取って慰安旅行に行っている。
相良厩舎の津野も三日休みを取っているため、岡部は二厩舎分の調整調教を行っている。
朝飼を終えると新年最初の厩舎会議が行われた。
参加者は、戸川、岡部、池田、櫛橋、能島。
まずは研修で訪れている新米調教師の能島が挨拶した。
能島貞吉は、元々北国の牧場で牧童をしていた。
年齢は池田くらいなので調教師としては中堅の部類に属する。
三年前に八級の長野業冶調教師の子が、騎手になるために競竜学校に入学した。
騎手候補は三年生になると同じ会派の調教師候補と組んで一年間研修を行う。
かつては戸川も調教師候補として土肥の学校に行き、くりくりの坊主頭の長井と組んで研修を行っている。
長野騎手候補が入学した事で紅花会内でも調教師候補を募集したのだが、誰も手を挙げなかったらしい。
長野が二年になってもまだ調教師候補がおらず困っていたところに、自分でもよければと能島が手を挙げてくれた。
半年牧場の助力でみっちり試験勉強をし晴れて調教師候補となったのだった。
この日の会議の議題は『ホウセイ』が『金杯』に挑戦する事と、能力戦が終り次第放牧に出すという事。
それと今月後半には『セキラン』が帰ってきて『上巳賞』への準備が始まるということ。
この月から厩務員の勤務表作成が岡部から池田に移管される事になった。
戸川厩舎では毎月五日に十日以降の勤務を発表する事にしている。
岡部の前は別所が組んでおり、亡くなってからは戸川が組んでいた。
戸川も岡部もそれほど苦労せずに組んでいたのだが、池田にとっては初の事で大苦戦だった。
「くう。今度はこことここで人が足らへん。何でや!」
「ちゃんと回転する人から組まないからそうなるんですよ」
何度も言ってるでしょと、岡部は呆れ口調である。
「だいたいやね、最初から慰安旅行込みで組むとか難易度が高過ぎやで」
せめて変則的な事が無い月から始めたかったと、池田が泣き言を言っている。
「僕は半分以上送り出しましたよ」
「君ん時は君が勤務に入っとったやないかい! 一人減なんやぞ」
難易度の高い月から始めれば通常の月は余裕じゃないですかと岡部は言うのだが、池田はそんなものは精神論だと駄々をこねた。
「はいはい。口じゃなく頭と手を動かしましょうね」
岡部の煽りに腹を立てながら池田は再度勤務表を組み直した。
「くっそう! 何で上手くはまらへんねん!」
後ろで戸川が笑いながら、頭が固いからだと独り言を言った。
「そうや! 櫛橋にやらせてみよう!」
「そういう、自分がうまくいかないから押し付けるみたいなのは感心しませんね」
「そう言わんと。物は試しやがな」
池田は事務所から逃げるように竜房に行くと櫛橋を連れてきた。
岡部は池田に教えたのと同じように櫛橋にも教えた。
「あれ? ここ人が足らへん。ううん……」
「そやろ? 難しいねん」
「あっ! ここ間違うてた。とすると、ここがこうなって、こうと!」
櫛橋は岡部を呼んで精査をお願いした。
「適材適所で、普段は櫛橋さんがやった方が良いかもですね……」
「櫛橋に作ってもろて、僕が精査したら良えやんけ」
池田は嬉しそうに言ったのだが、岡部、櫛橋、戸川は極めて冷たい目で池田を見た。
「櫛橋さんが何かしらで作れない時はどうするんですか?」
「君がおるがな」
池田は岡部の胸を人差し指で突いた。
「それやったら、櫛橋が主任で池田は筆頭に格下げやな」
後ろで戸川が笑いながらそう指摘した。
「そんなあ……」
池田が泣きそうな顔をし、岡部と櫛橋が大笑いした。
翌週水曜の午後、竜柱が公表された。
『ホウセイ』の予選は金曜の第九競走。
十二頭立て五枠六番、人気は一番人気。
『ホウセイ』は発走すると流すように徐々に加速し、最後は余裕を持って一着で終着。
最終予選に駒を進めた。
慰安旅行に出かけていた櫛橋が帰ってきた。
お土産ですと言って『通りもん』というお菓子を戸川に手渡した。
「自分で勤務作っておいて何や後ろめたいんですけど、慰安旅行最高でした」
太宰府が一望できる最高の宿でしたと、櫛橋は少し頬を紅潮させた。
僕も行ったと、長井と松下も思い出して恍惚としている。
長井は隈府、松下は小田原に行ったらしい。
「僕、来賓室案内されたんやけど、櫛橋もそうやったん?」
あまりにも高級すぎて落ち着かなかったと長井は笑っている。
「うちもそうでした。食事で水炊きが付きました。ほんま美味しかったわあ」
「僕も高い焼酎が付いたで。みんなもそうなんかな?」
長井が松下を見ると、あんな良い酒初めて呑んだと遠い目をした。
「後、今月からの粗品やって『セキラン』の可愛いぬいぐるみ貰いましたよ」
「櫛橋もなん? うちもカミさんが貰うてた。宿の名前入った襷してて可愛いねんな」
え、もうなのと岡部が酷く驚いて、長井と松下が不思議そうな顔をした。
『もう』ってどういう事なのと、櫛橋は怪訝そうな顔で岡部の顔をまじまじと見た。
「いや、その……年末の会派の忘年会で『セキラン』の竜主さんに、ぬいぐるみを宿で粗品にしたら客が増えそうという案を……で、その後、駿府の大宿で襷の事を提案しまして……」
一同の目線が岡部に集まった。
櫛橋は明らかに呆れた顔で岡部を見ている。
「それをその場で提案できる、岡部さんの肝の座りっぷりに恐れ入るわ」
櫛橋は、ため息交じりに言った。
「世間話感覚で言ったら、大女将やってる会長の奥さんがすぐに動いちゃって……」
あははと渇いた笑いをすると、一同はそんな岡部を見て唖然とした。
「たった数か月で、ようそんな紅花会を動かせる重鎮になれるもんやな」
長井はちょっと引いた目で岡部を見た。
「どうやら綱一郎君から銭の臭いがプンプンするらしいな。あの婆さんは銭の臭いに敏感やからなあ」
戸川はそう言ってゲラゲラ笑うと、岡部は自分の服の臭いを嗅いだ。
櫛橋も岡部の臭いを嗅いだ。
「活き良いオスの臭いがしますわ」
そう言ってニヤリと笑った。
櫛橋に食われる前に逃げた方がいいと長井が岡部に笑いかけた。
櫛橋は長井をぽんぽん叩いて、私はどんな風に映ってるんですかと笑い出した。
翌週水曜の午後、竜柱が公表された。
『ホウセイ』の最終予選は木曜の第十競走、十七頭立て二枠三番、人気は七番人気。
最終予選も予選一同様、発走からじりじりと速度を上げ続け、ハナ差ながら二着で終着。
『ホウセイ』は決勝に進出する事になった。
だが翌日の競竜新聞を飾ったのは『金杯』の決勝ではなかった。
「金曜、食堂で見てましたけど、あれは間違いなく凄い竜ですよ」
岡部は金曜に行われた能力戦の竜柱を指差した。
「僕は見てへんから何とも言えへんけども、この時期は雨後の竹の子堀りが盛んやからなあ」
戸川は少し半信半疑な顔をしている。
「先週君、『マンジュシャゲ』とかいう仔が凄いとか言うてへんかった?」
池田も半信半疑な顔で岡部を見て笑っている。
「『ロクモンアシュラ』ねえ。映像で見た限りやけども、まだ全然力出してへんようで、そこまでには見えへんかったなあ」
長井もそう言って新聞に目を落した。
新聞には『赤毛の暴神、出現』と大きく見出しが書かれている。
「全力出さなくて、能力戦勝てる時点で凄いと思いません?」
岡部は長井に右手の平を見せ力説した。
それはそうなんだけどもと長井は苦笑いをしている。
「あの竜は、ここよりもっと長いとこが向きそうやから、『優駿』の方が怖いんと違いますかね?」
櫛橋は目を輝かせて評論した。
赤毛は気性の荒いのが多いから、それに足払われる仔が多いと、池田は櫛橋を見ながら持論をぶつけた。
「あれは絶対本番で人気になりますよ!」
興奮する岡部に戸川は冷めた目を向ける。
「何番人気になると思うてんの?」
「……三番でしょうか」
「まあ、ぼちぼちやな……」
翌日『サケセキラン』が牧場から厩舎へ帰厩した。
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