第51話 豊川
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・木村、大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・高城胤弘…三浦厩舎の調教助手
・清水…三浦厩舎の主任厩務員
・大森…幕府競竜場の事務長
戸川と岡部は東海道高速鉄道に乗り豊川に来ている。
豊川は東国の幕府と西国の皇都の中間に位置しており、皇都からも幕府からもそこそこの時間という場所に位置している。
この日の目標は夜の紅花会の大忘年会への出席である。
当初岡部は、僕たちはここで慰安旅行を済ませてしまってはどうかと提案した。
一時はなるほどと納得した戸山だったのだが、別日なら他の宿に泊まれるから損だとゴネはじめた。
さらに、もし梨奈が熱を出しでもしたら、それを紅花会全体に知らしめる事になり、梨奈がかわいそうと言いだした。
最終的に戸川と岡部が前日に豊川で忘年会に出て、翌日奥さんと梨奈に合流し駿府で一泊する事になった。
豊川駅で降りると、戸川は駅前の紅花会の宿に荷物を預け、すぐにタクシーを呼んだ。
「ここに来たら、まず、皆する事があんのや」
そう言って大きな神社に向かった。
「ここはな、豊川稲荷いうて商売繁盛の寺なんやで」
そう言われてみれば入口に寺のような楼門があった気がする。
「え? お稲荷さんって神社じゃないんですか?」
「うちの近所の伏見さんはな。でもここは寺やねん」
神社に梵鐘は無いだろうと言って鐘櫓を指差した。
「でもここ、鳥居もあるし狐もいますけど?」
「でも寺なんやなあ。ちゃんと妙厳寺って書いてあるやろ?」
「本当だ。何だこれ? どういう事だろ?」
本堂に足を踏み入れると、戸川が、お寺だから拍手打ったらダメだと促した。
岡部は危うく手を鳴らしそうになり、恐る恐る手を合わせた。
きつねうどんと稲荷ずしを食べたら宿に戻ろうと戸川が言うと、岡部はますます混乱した。
戸川は稲荷ずしを食べながら岡部に優しく説明した。
寺や神社は人の欲求を聞いてあげる事で成り立っている。
人の欲求なんてものは、それほど種類が多いわけじゃない。
家内安全、商売繁盛、長寿祈願、病気平癒、学業成就、良縁祈願、安産祈願、子宝授受。
せいぜいそんなところだろう。
神社も寺も、うちには他所よりご利益があるんだと宣伝すれば、こうして互いが互いを取り入れる事もでてくる。
特に先立つ物が無ければ生活がままならないのだから、商売繁盛は熱心に拝まれる。
全国に稲荷神社があるのはそのためだろう。
「つまり、伏見さんの商売が上手だったと」
「商売繁盛の神社が商売繁盛なんやから、これほどわかりやすい霊験は無いわな」
大宿に戻ると、受付には既に何人かの参加者が集まっていた。
岡部が見知った人はその中にはいなかったが、参加者たちは戸川を羨望の目で見ている。
『サケセキランの戸川』は紅花会の中では最注目の人物で、さすが筆頭調教師だと口ぐちに褒め称えていた。
その光景を見て岡部は自分の事のように誇らしさを感じていた。
参加者に囲まれている戸川を眺めていると、岡部を呼ぶ声が聞こえる。
振り返ると三浦調教師が駆けよってきた。
先日ぶりですと岡部が笑顔で挨拶すると、三浦は戸川を見て、今年はえらい人気だなと笑った。
岡部は大人気の戸川先生と離れ、三浦と椅子に腰かけた。
「そういえば、こんな事聞いては失礼かもしれないんですけど……」
君の事なら多少の失礼は気にしないと三浦は笑った。
「どうして紅花会の筆頭調教師は三浦先生じゃなく戸川先生なんでしょう?」
歳も先生の方が古いしと三浦の顔を見た。
三浦は、ほっほっほと笑うと岡部に顔を近づけた。
「筆頭なんて面倒くさいから押し付けたに決まってるだろ」
顔を離すと高笑いを始めた。
「実は俺も、伊級の先生が亡くなった時に押し付けられたんだけど、戸川が上がってきた時に押し付けてやったんだ」
戸川は次が上がってこないから、中々押し付けられないでいると三浦は大笑いした。
「戸川は今年、総合順位かなり高かったなあ。『セキラン』と今月の追い上げで相当稼いだもんな」
何気に賞金総額で戸川厩舎は皇都で八位になっている。
「来年の結果次第では伊級も見えますかね?」
「そこまではどうだろうな。紅花会としては、もちろんそうなって欲しいところだろうが」
会場が開くと、戸川は他の調教師に揉まれながら先に会場に入っていった。
俺たちも行こうと三浦が会場に入ると、後ろから岡部を呼ぶ声がする。
後ろを振り返ると義悦が立っていた。
義悦は挨拶も早々に岡部をからかった。
「戸川先生の姿が見えないけど三浦厩舎に転属の相談?」
そういう事なら早く言ってくれれば、すぐにでも手続きすると三浦は笑った。
「そんなわけないでしょ。先生、『セキラン』の件で人気すぎちゃってはぐれたんです」
「そっか、あの『芦毛の雷神』の調教師様だもんね」
「義悦さんだって、あの『芦毛の雷神』の竜主様じゃないですか」
岡部も義悦をからかった。
「紅花会の竜主の中では、そうやって私もからかわれていますよ」
「聞きましたよ。初めての呂級が『セキラン』だったんですってね」
「そのせいか、持ってるとか相竜眼があるとか色々言われるんですよ。本当にたまたまなんですけどね」
周囲からかなりからかわれているようで、義悦は不貞腐れたような顔をしている。
「そういえば、なんで『セキラン』を選んだんですか?」
「どれでも良いっていうから一番がっしりした仔を選んだんですよ。『無事此れ名竜』って聞きますからね」
そんな理由で『セキラン』を選べるなんて大したもんだと三浦が褒めた。
「会長から聞いたんですけど虚弱体質の牝系らしいですよ?」
義悦は血統背景までは聞いていなかったらしく酷く驚いた顔をした。
「それは相当良いものを持っているよ。長年調教師やってきた俺が保障する」
三浦はガハハと笑って義悦の背中を叩いた。
会場の台上に最上が上がると、最上は気持ちよく話を始めた。
一通り話すと、今年は『セキラン』が大人気で、おかげで紅花会としては外部収入がかなり潤ったと言った。
おかげで今年は心なしか例年より食事が豪勢だと会場の笑いを誘った。
それでは立役者の戸川に乾杯の音頭を取ってもらおうと締めた。
今年一年波乱の年だったと戸川は話し始めた。
別所主任を亡くし、岡部君を養子に迎え、『セキラン』を受け入れて。
戸川は岡部を探すと笑顔を見せた。
来年は『セキラン』に大きな賞を戴冠させてあげようと思うと締め、会の前途に乾杯した。
岡部は引き続き、三浦、義悦と食事をとりながら談笑している。
「そういえば、さっき言ってた『セキラン』の外部収入って何の話ですか?」
岡部の質問に義悦はぷっと噴出した。
「ここに来るまでに何か見ませんでした?」
三浦も岡部も、覚えが無いという顔をしている。
「ここの受付にも置かれてるんですけど、『セキラン』のぬいぐるみが大盛況なんですよ」
広報費という名の小遣い稼ぎで、重賞で好走した竜は、ぬいぐるみや手ぬぐいなど副産物を作って売っているのだそうだ。
「作った端から売り切れるという状況だそうでね。全く生産が追い付いていないんだそうです」
「じゃあ、宿に泊まったら無料で差し上げますとかしたら、それ目当てに宿泊してくれる人とかでそうですね」
岡部の一言に、一瞬義悦の顔が真顔になった。
ちょっと急用ができたと言って席を外すと、義悦はどこかへ行ってしまった。
義悦はすぐに祖母と共に戻ってきた。
最上の妻は岡部を見ると、目を輝かせて手を握ってきた。
「もう岡部さん! 来てるなら来てるって挨拶に来てくれても、バチは当たらないんじゃないの?」
最上の妻は岡部の手を握ったまま離そうとしない。
「さっきの話、祖母ちゃんにしたら喜んじゃって」
義悦は岡部の顔を見て、ケラケラと笑い出した。
「もう厩舎なんて辞めて、私のところに来なさいな。給料なら今の何倍も出すわよ?」
余程岡部が気に入っているらしく、最上の妻は手を握って全く離さない。
「岡部さんの事は氏家さんも狙ってるらしいよ?」
「あの人なら祖母ちゃんの方が先に貰うわ」
俺も欲しいけど戸川君が独り占めしてるんだと言って三浦が笑い出した。
最上の妻は、名残惜しいけど早く手を打ちたいからと、酒だけ注いで、次はぜひゆっくりとと言って去って行った。
暫くすると最上と氏家が訪れた。
氏家は岡部を見ると早々に、そろそろうちに来てくれる気になったかと聞いてきた。
それを聞いた義悦が、祖母ちゃんがそっちにはやらんとさっき言っていたと笑い出した。
氏家は顔を引きつらせ酷く悔しがった。
「氏家、岡部君は次の道を探し出したようだぞ」
氏家は岡部を見ると、うちより魅力的じゃないと納得しないと真顔で問い詰めた。
「まだ考慮してるだけですけどね。将来的に調教師を目指そうかと」
照れくさそうに岡部が言うと、それなら俺が全力で応援してやれると氏家は喜んだ。
それに一番驚いたのは義悦だった。
「本気で調教師になる覚悟を決めたら、南国の牧場も連れていかないとな」
岡部が感謝をすると、最上は、あそこにいる中野が場長だと指さした。
僕もその時には連れてってくださいと、義悦がせがんできた。
「『セキラン』で多少は懐が豊かになっただろう? お前が私たちを誘ったらどうだ?」
義悦は少し考え、祖母ちゃんに頼んだら宿安くしてくれますかと最上に尋ねた。
「かなり安くはしてくれるぞ。その後でそれ以上に高くつくがな」
最上がそう言うと義悦は本気で悩んだ。
岡部はその言い方が妙にツボにはまって大笑いした。
その後、義悦は中野の所に挨拶に行くと、八級の調教師に次々に挨拶してまわった。
結局、戸川は宴会中ずっと調教師に囲まれたままだった。
氏家も最上の元を離れ、八級の調教師を次々に訪問していった。
最上は、岡部のところが一番落ち着くと、三浦と岡部の所で食事をとり続けた。
「三浦は、まだ続けられそうなのか?」
最上の問い掛けに三浦は急に真顔になった。
「せめて八級から一人上がってこん事には……」
「あまり大きな声では言えんが、上でやろうという覇気を誰からも感じんな」
そう言うと最上は小さくため息をついた。
「こんな爺さんですら、日々伊級を狙ってるというに……」
「どうにかして新しい風を吹かせんとな」
最上は三浦を見て小さく頷いた。
「今回の戸川は、それなりに良い風になったでしょう」
「まだそよ風だな」
最上は岡部の顔を優しい目で見た。
「僕にそんな風を吹かせられますかね?」
照れながら岡部は尋ねた。
「それは君次第だろうよ」
三浦も期待の目で岡部を見た。
最上は岡部の肩にポンと手を置いた。
「うちのを商品提案で儲けさせるのも良いが、会派全体も儲けさせてくれないとなあ」
それを聞き、三浦はぷっと噴き出した。
「会長が一段と奥様に頭が上がらなくなってしまいますな」
三人は笑いあった。
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