第49話 帰宅
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、戸川厩舎の厩務員
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場の場長
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・木村、大野…戸川厩舎の厩務員、解雇
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・本城…皇都競竜場の事務長
・三渕すみれ…皇都競竜場の事務員
・吉川…尼子会の調教師(呂級)
・南条…赤根会の調教師(呂級)
・相良…山桜会の調教師(呂級)
・津野…相良厩舎の調教助手
・井戸…双竜会の調教師(呂級)
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・高城胤弘…三浦厩舎の調教助手
・清水…三浦厩舎の主任厩務員
・大森…幕府競竜場の事務長
翌朝、一仕事終え肩の荷が少し降りた岡部と戸川は温泉に浸かっていた。
戸川は額に乗せたタオルを湯舟の外で絞って再度額に乗せる。
「帰ってもやる事が多いなあ。みんなの旅行休み作ったげなあかんし、『ゲンキ』の『大賞典』の登録、それに……」
「それに?」
「荒木の処分」
岡部は押し黙った。
この忙しさと大事件の多発ですっかり忘れていた。
それをちゃんと覚えていられる戸川の計画管理力はさすがだと感心した。
「どうしたもんかなあ……」
「そういえば、ここの所大人しいですね」
「雰囲気が変わって孤立してるんやろ。井戸さんのとこで櫛橋もそうやったらしいしな」
今でこそのびのび活躍している櫛橋だが、井戸厩舎では全く相手にされなかったと聞かされている。
確かに今の荒木は同じ感じに見える。
「切るんですか?」
「会長はそうせい言うけどな。表だった理由がないねんな」
強いて言えば無くはない。
木村たちと一緒に戸川に嘘の報告をし、厩舎業務を阻害したと言えば恐らく処分は受理されるだろう。
「櫛橋さんみたいに、他の厩舎で欲しがってくれませんかね?」
「皇都の中で木村、大野の件知らん奴はおらへんのやんぞ? その仲間やって知れ渡っとるんやから無理やろ」
確かに漏れ聞こえる声の中に、何で戸川厩舎は荒木を処分しないんだという声がある。
もちろん荒木の耳にも入っているはずである。
「監査案件で見事に知れ渡りましたもんね。『セキラン』の名前と共に。荒木さん本人はどうしたい
んでしょうね?」
「勝負に負けてもうたけどどうしたいって、しれっと聞いてみるか?」
戸川の言い回しが可笑しく感じ、岡部は思わず鼻で笑った。
「やあ御両人、お早いねえ」
そう言って最上が風呂にやってきた。
岡部と戸川は挨拶をした。
義悦さんはと岡部が聞くと、まだすやすやだと最上は笑った。
初めて間近で見た呂級の重賞に興奮してなかなか寝付けなかったらしい。
「戸川、正直に聞きたいんだが、『セキラン』は『優駿』は持つと思うか?」
戸川は一瞬黙って岡部を見た。
「櫛橋も言うてましたが、普通にやったら持たへんでしょうね。そやけどやりようはあります」
「『重陽賞』はどうか?」
「そっちは確実に無理ですわ」
戸川は即答だった。
明らかに早熟、しかも短距離向き、どう考えても秋の長距離走が走れるとは思えない。
「とすると秋は『皇后杯』か……」
「古竜に交じってやれるほど、果たして距離を伸ばせるんかどうか」
短距離の『天狼賞』なら普通に通用するだろうが、中距離の『皇后杯』はかなり難しいだろう。
だが『皇后杯』と『天狼賞』では賞金が全然違うのだ。
「じゃあそこでダメなら引退だな」
「種竜にするなら早い方が良えでしょうね」
「最初の竜は愛着が出るからなあ。義悦のやつごねるだろうなあ」
そう言いながらも少し嬉しそうな最上の優しい眼を岡部は見逃さなかった。
「会長もそうでしたか?」
「うむ。何十年も前の話だが今でも覚えている。『サケスイギョク』という牝竜だった」
最上は遠い目で風呂の外の風景を眺めた。
「体の弱い仔だったんだよ。だけどどうしても血を残してあげたくてね。調教師がまだこれからだって言うのに、無理言って繁殖入りさせてな」
岡部と戸川は少し暑くなってきて湯船に腰かけている。
「それなのに、残念ながら子は一頭しか残さず落命してしまったよ。遺児の『セキエイ』には、それはもう期待したもんだ」
最上は少し悲しい顔を岡部に見せた。
「でも『セキエイ』も体の弱さを引き継いでしまってな。次こそはと体の丈夫な種竜を探して『センリョク』が産まれたんだ」
戸川はその名前に聞き覚えがあったらしい。
『センリョク』『センリョク』と繰り返し呟いている。
「相変わらずお前は、もの覚えは良いのに血統には疎いんだなあ。『センリョク』の仔が『バショウ』、その仔が『セキラン』だ」
「そうだ! 五代血統表で見たんだ!」
おおと感嘆の声を漏らして戸川は手を打った。
突然『セキラン』の名が出て岡部は鳥肌が立つのを感じた。
「じゃあ『セキラン』は、もの凄い思い入れのある竜じゃないですか」
「義悦にそろそろ呂級をやってみろと言って、『セキラン』を指名してきた時は何か運命のようなものを感じたよ」
最上は岡部を見ながら、どこか誇らしげな表情をした。
「じゃあ、いづれは義悦さんが紅花会を?」
「嫡孫(=世継ぎの孫)だから、いずれはな。だが私の目の黒いうちは椅子を譲る気はないぞ」
戸川は最上から目をそらし、そう遠くはないだろうとボソッと呟いた。
「ほう。言うようになったじゃないか戸川。お前の引退よりは長くやってやるから安心しろ」
戸川はげんなりした顔を最上に向け笑い出した。
岡部と戸川が三浦厩舎に行くと、清水主任が慌てて駆け寄ってきた。
『セキラン』が熱発を起こしているというのだ。
岡部が体調を確認すると左後脚にかなり熱があり、恐らくは危害を加えられた事が遠因になっていると思われる。
戸川は事務室に戻ると、熱発が収まり次第牧場へ放牧するように三浦に手続きをお願いした。
こうして競竜界隈に大きな波乱を巻き起こす事になった『サケセキラン』の初の幕府遠征は終わったのだった。
競竜場を出ると二人は、戸川のお気に入りという千駄ヶ谷の拉麺屋で醤油拉麺を食べた。
手ぶらで帰ったら梨奈が不貞腐れると言い合い、四谷新宿に行き、土産となりそうなものを買い込んだ。
岡部も戸川とは別に、奥さん用と梨奈用にお土産を購入。
幕府駅に戻って駅弁と缶麦酒を購入し東海道高速鉄道に乗り込んだ。
「新竜重賞が終わると『大賞典』、それが終わるともう今年も終いやね」
「長いようで短かったですね」
岡部の顔の痣を見て戸川はクスリと笑った。
「君は、よう怪我したな」
「そうですね。出会った時から痣だらけで。竜から落ちて、暴漢に襲われて」
岡部もクスリとした。
「君が来てから僕も色々ありすぎて忙しかったわ。労組なん初めて呼ばれたしな」
「でも充実した半年でした」
「僕もや。内容の濃い半年を送らせてもろたよ」
二人はしみじみと缶麦酒を呑んだ。
「北国の生麦酒は美味しかったですね……」
「武田さんの越後の大吟醸もごつかったよな」
「次はいつ旨い酒が呑めるんでしょうね」
岡部が笑いながら言うと、戸川も大笑いした。
「そうやった! まだ忘年会があるんやった」
「厩舎のですか?」
「会派のや。毎回豊川でやるんや。調教師は出席必須なんやで」
会派主催ということは、つまりタダ酒という事である。
そういう席でベロベロになるまで呑める人は中々いないであろうが。
「という事は呂級から仁級まで?」
「そうや。東は盛岡から西は久留米までな」
「へえ、全国から集まるんですね」
成績不振で出席したくない人もいるだろうにと思うと岡部は自然と笑顔が引きつった。
「まあ交通費は会派で持ってくれはるから、遠いとこは飛行機でも来れるんやけども」
「それでも遠くから来る人は大変ですね」
「今は忘年会だけやから良えわ。僕が仁級の時なんて新年会もあったんやで?」
数週間で二回の大宴会はさすがにと岡部は笑い出した。
「随員一人まで許可されとるんやけど、毎年みんな嫌がってなあ。今回は君を連れて行かへんと怒る人が多そうやな」
例えば誰がと岡部は戸川を一瞥した。
「まず会長やろ。会長の奥さんやろ。義悦さんやろ。氏家さんやろ。三浦さんも言うやろうな」
「そんなに呑んだらベロベロになっちゃいますよ」
岡部は缶麦酒を吞んで笑い出した。
「まあ控えて呑むことやな。呑まへんいう選択肢は無いんやから」
この界隈は呑んでなんぼだと戸川は高笑いした。
「厩舎の方は、毎年金杯が終わってからやる事になっとる」
「結構遅い新年会なんですね」
「呂級は大体どの厩舎もそうやで。そやから近隣の飲み屋が予約で一杯になるんや」
戸川は岡部を見て缶麦酒を飲むと、大きく息を吐いた。
「今年は『セキラン』のおかげで賞与を奮発してやれそうやな」
「来年も好調でいきたいですね」
そうだなあと、戸川はしみじみ言った。
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